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蓮華寺
出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-) 最終更新:2024年1月4日 (木)
蓮華寺(れんげじ)は、滋賀県米原市番場(近江国坂田郡)にある浄土宗の本山寺院。元来は一向を開祖とする一向門流の本山。1942年(昭和17年)まで時宗大本山だったが末寺57寺と共に転属して現在は浄土宗知恩院派本山。一向の墓所。番場蓮華寺。山号は八葉山。(参考:同名寺院蓮華寺_(同名)・法隆寺_(同名))
目次 |
歴史
聖徳太子の創建で当初は法隆寺と称したという。
1942年(昭和17年)3月7日、一向派寺院浄土宗帰属について浄土宗と時宗が折衝して合意。6月6日、蓮華寺・仏向寺など57寺が転属。7日に蓮華寺で奉告法要(浄土宗近代百年史年表)。
伽藍
- 本堂:本尊は阿弥陀如来と釈迦如来。鎌倉時代の木像とされ、2体が一つの厨子の中に納められている。正面には後水尾天皇の勅額が掛かる。
- 地蔵堂:身代わり地蔵尊
- 忠太郎地蔵尊:作家の長谷川伸が昭和33年8月3日建立。
- 地蔵像
- 山王日吉神社
- 葉山稲荷
- 弁才天・八大龍王:石祠
- 庫裏
- 研修道場
- 勅使門
- 一向墓:五輪塔。「開祖一向俊聖上人廟所」。
- 歴代住職墓地:49基が並ぶ。正面6基、向かって右手に無縫塔11基、五輪塔10基、石仏1基の計22基があり、向かって左手に角柱墓1基、無縫塔12基、五輪塔8基の合計21基がある。一向墓は含まず。参道沿いにも古墓碑あり。
- 一向杉:一向の火葬所跡という。
- 北条仲時ら432人墓:大量の五輪塔。
- 同記念碑
- 土肥元頼墓:宝篋印塔
- 守良親王墓:六波羅山山頂にあったという(坂田郡志)
- 納骨堂:「舎利塔」と称す。
- 元祖頼朝坊九百廻御忌供養碑:41世が導師。隣に文化7年の墓碑、戦死者とみられる山田末次郎墓、五輪塔が並ぶ。
- 五輪塔:長谷川伸と番場史蹟顕彰会が建立。
子院
北側に中雀門から黒門へ清流院から蔵福庵が、南側に観心院から長仙庵が並んでいたらしい。今は痕跡もない。
- 清流院:一向が蓮華寺創建とともに建立。本寺および子院24寺の寺務を司る「役院」という。1309年(延慶2年)寺号を名乗る(近江国坂田郡志)。1859年「蓮華寺末寺帳」に「塔中」「役僧寺」と記す。1904年(明治37年)頃、愛知県津島市百島町に移転。浄土宗。
- 威徳院:廃絶。1859年「蓮華寺末寺帳」に「威徳庵」として「塔中」「役者」とある。
- 徳仙庵:廃絶。
- 養寿庵:廃絶。
- 法光庵:廃絶。
- 慶寿庵:廃絶。
- 了性庵:廃絶。
- 徳寿庵:廃絶。
- 法樹庵:廃絶。
- 徳正庵:廃絶。
- 蔵福庵:廃絶。
- 観心院:3代同阿良向が隠退するときに創建。1330年(元徳2年)(嘉暦五年とある)寺号公称(近江国坂田郡志)。観信院。廃絶。 1859年「蓮華寺末寺帳」に「歓信院」として「塔中」とある。
- 自寿院:廃絶。1859年「蓮華寺末寺帳」に「塔中」「役僧寺」と記載される「自専院」か。
- 蔵正庵:廃絶。
- 昌寿庵:廃絶。
- 法専庵:廃絶。
- 唯心庵:廃絶。
- 専照庵:廃絶。
- 福蔵庵:廃絶。
- 福昌庵:廃絶。
- 長昌庵:廃絶。
- 長仙庵:廃絶。
- 徳蔵庵:1859年「蓮華寺末寺帳」に記載。「塔中」「役者」とある。
組織
歴代住職
- 歴代が同阿(同阿弥陀仏)を名乗る。
- 29世まで「蓮華寺歴代名簿」(23~26世まで欠)。27~39世は『番場時衆の歩み』歴代表。『時衆年表』『浄土宗近代百年史年表』も参照。
世数 | 名 | 生没 | 在職 | 略歴 |
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1 | 一向俊聖 | 1239-1287 | 1239年(延応1年)生。1287年(弘安10年)死去。 | |
2 | 礼智阿 | 1253-1325 | 堀川師隆の子。1253年(建長5年)生。17歳で園城寺で尊慶のもとで剃髪。新羅明神で祈ると一向のもとに向かうように神託があった。1277年(建治3年)、園城寺を出て備中・吉備津神社で一向に出会い師事する。1309年(延慶2年)1月11日、勅願所の綸旨を賜う。1325年(正中2年)1月15日死去。73歳。堀米・一向寺を再興したと伝える。著書『十一条誡勧軌』。 | |
存阿 | ?-1311 | 遊行3代。学牛往生寺を創建。1311年(応長1年)7月26日死去。 | ||
願阿 | ?-1363 | 遊行4代。武蔵村岡法蔵寺、信濃水内十念寺を創建。1363年(貞治2年)1月25日、法蔵寺で死去。 | ||
3 | 同阿良向 | 1286-1357 | 良向宗覚。1286年(弘安9年)生。1328年(嘉暦3年)11月、祖伝5巻を著す(『一向上人伝』の原型か)。1357年(正平12年/延文2年)10月27目死去。72歳。以後、歴代が同阿を称す。 | |
4 | 同阿 | ?-1382 | 用阿。念道専向。1382年(弘和2年/永徳2年)7月18日死去。享年不詳。 | |
5 | 同阿 | 1328-1416 | 釈阿。一栄雲閣。1328年(嘉暦3年)生。近江国坂田郡上坂蓮生寺開山。1416年(応永23年)9月7日死去。89歳。喜阿、師阿、貞阿、及阿の4人の弟子がいた。 | |
6 | 同阿 | 1358-1422 | 相阿。俊岳正真。1358年(正平13年/延文3年)生。箕浦成福寺に住す。1422年(応永29年)6月7日死去。65歳。 | |
7 | 同阿 | ?-1429 | 琳阿。観月一相。弓削阿弥陀寺に住す。1429年(永享1年)11月18日死去。享年不詳。 | |
8 | 同阿 | 1353-1430 | 悟阿。頓秀一固。1353年(正平8年/文和2年)生。梅原宝蔵寺に住す。1430年(永享2年)3月7日死去。78歳。 | |
9 | 同阿 | 1370-1445 | 聞名(聞阿?)。俊巌到国。1370年(建徳1年/応安3年)生。寺倉満福寺に住す。1445年(文安2年)11月6日死去。76歳。 | |
10 | 同阿 | 1377-1460 | 通阿。向岸一通。1377年(天授3年/永和3年)生。柏原長福寺に住す。1460年(寛正1年)3月21日死去。84歳。 | |
11 | 同阿 | 1383-1461 | 祐阿。霊雲訶俊。1383年(弘和3年/永徳3年)生。箕浦成福寺に住す。1461年(寛正2年)2月3日死去(「長禄五年辛巳」とあるのを寛正2年のこととみなした)。79歳。 | |
12 | 同阿 | 1397-1472 | 一元慈阿。1397年(応永4年)生。箕浦成福寺に住す。1472年(文明4年)10月3日死去。76歳。 | |
13 | 同阿 | 1392-1474 | 諦雲貞阿。1392年(元中9年/明徳3年)生。河内梓の龍沢寺中興。朝妻善法寺に住す。1474年(文明6年)11月29日死去(10月とも)。83歳。 | |
14 | 同阿 | 1401-1479 | 生阿。俊哲忍性。1401年(応永8年)生。小足生久寺に住す。1479年(文明11年)9月23日死去。79歳。 | |
15 | 同阿 | 1411-1494 | 無阿。1411年(応永18年)生。上坂蓮生寺に住す。1494年(明応3年)6月7日死去。84歳。 | |
16 | 同阿 | 1422-1498 | 円阿。廓周俊儀。1422年(応永29年)生。9世同阿(1370-1445)の弟子。箕浦成福寺に住す。1498年(明応7年)1月18日死去。77歳。 | |
17 | 同阿 | ?-1503 | 称阿。定阿とも。俊国。9世同阿(1370-1445)の弟子。福能部庄願蓮寺に住す。天照大神の霊夢を見て朝廷に報告し『称阿瑞夢記』を著した。後柏原上皇から「明道上人」号を賜う。1503年(文亀3年)2月10日死去。 | |
18 | 同阿 | 1438-1517 | 戒阿。了山一法。1438年(永享10年)生。上坂蓮生寺に住す。1517年(永正14年)8月29日死去。80歳。 | |
19 | 同阿 | 1452-1530 | 林阿。林達俊頓。1452年(享徳1年)生。上坂蓮生寺に住す。1530年(享禄3年)11月28日死去(10月とも)。79歳。 | |
20 | 同阿 | ?-1541 | 泉阿。泉阿弥陀仏。巌山俊智。駿河国今川家の子孫という。宝寿院(宝樹院か)に住す。1539年(天文8年)5月4日、浅井亮政から「泉阿弥陀仏」宛に書状を送り、堂塔再建のため諸国勧進と諸役免除とする。1541年(天文10年)2月15日死去。 | |
21 | 同阿 | ?-1550 | 浄阿。秀道一祐。加賀富樫氏の嫡子。6歳で受戒。津島蓮台寺に住す。1550年(天文19年)9月21日死去。 | |
22 | 同阿 | 1497-1592 | 来阿弥と号す。来寿皎向。1497年(明応6年)生。出羽国酒田寺に住す。1562年(永禄5年)10月15日、正親町天皇、勅願所と上人号の綸旨を賜う。1592年(文禄1年)9月5日死去。96歳。 | |
23 | 同阿健梁 | 1561-1629 | 勧旭。但阿。単阿。陸奥南部寺林出身。1561年(永禄4年)生。1600年(慶長5年)9月25日、関ケ原合戦の陣中で徳川家康に十念を授け、その後禁制と朱印を賜う。1629年(寛永6年)10月8日死去。69歳。著作に『元祖一向上人宗脈口訣』。 辞世「十万の奥の仏を尋れば我心にそ尋ね入るなり」。 | |
24 | 同阿 | ?-1637 | 覚阿。松寛快向。陸奥南部盛岡に住す。1637年(寛永14年)1月21日死去(1643年(寛永20年)1月とも、1643年(寛永20年)9月21日とも)。 | |
25 | 同阿 | 1599-1647 | 切阿。寂道一融。1599年(慶長4年)生。1647年(正保4年)2月18日死去。49歳。 | |
26 | 同阿快超 | 1620-1707 | 広阿快超。江戸出身。1620年(元和6年)生。1707年(宝永4年)11月12日死去。88歳。 | |
27 | 同阿快秀 | 1635-1704 | 1707-1691 | 元向快秀。近江国高宮出身。1635年(寛永12年)生。成福寺住職。1707年(宝永4年)蓮華寺住職。上人綸旨中興。1704年(宝永1年)1月12日死去。70歳。「廿七代同阿上人手記」。 |
28 | 同阿月秋 | 1668-1696 | 1691-1696 | 智阿月秋。近江国高宮出身。1668年(寛文8年)生。成福寺住職。綸旨により1691年(元禄4年)7月8日、蓮華寺住職。1692年(元禄5年)1月23日、市屋道場の例に従い参内。1696年(元禄9年)10月12日死去。29歳。 |
29 | 同阿覚栄 | 1653-1721 | 1696-1721 | 有阿覚栄。寂舜。下野国宇都宮出身。1653年(承応2年)生。本願寺の弟子。仏向寺住職。1696年(元禄9年)蓮華寺住職。1721年(享保6年)9月21日死去。69歳。 |
30 | 同阿臨道 | 1680-1746 | 1721-1744 | 教阿(円阿)。臨道俊諦。〓海和尚。伊勢国桑名出身。1680年(延宝8年)生。大門氏。29世同阿覚栄の弟子。仏向寺住職。1721年(享保6年)蓮華寺住職。1746年(延享3年)8月8日死去(1745年(延享2年)1月とも)。在職26年。67歳(62歳とも)。(「臨」は人偏とも。〓は「民攵」) |
31 | 同阿一願 | ?-1762 | 1744-1759 | 皎阿一願。俊澄。覚流と号す。出羽国村山郡出身。仏向寺を経て1744年(延享1年)蓮華寺住職。参内。「一向門派掟十三箇条」を定める。在職17年。1762年(宝暦12年)12月30日死去(1763年(宝暦13年)1月6日とも)。 |
32 | 同阿含光 | 1714-1763 | 1759-1763 | 旭阿含光。善流。出羽国村山郡出身。1714年(正徳4年)生。31世同阿一願の弟子。仏向寺を経て1759年(宝暦9年)3月、蓮華寺住職。在職4年。1763年(宝暦13年)1月15日死去。50歳(59歳とも)。 |
33 | 同阿俊利 | 1716-1788 | 1763-1788 | 其阿俊利。言誉。近江国彦根出身。1716年(享保1年)生。森田氏。30世同阿臨道の弟子。宇都宮本願寺に住す。1763年(宝暦13年)(1764年(明和1年)とも)蓮華寺住職。本堂再建。在職25年。1788年(天明8年)2月5日死去。73歳。 |
34 | 同阿天秀 | ?-1792 | 1788-1789 | 其阿天秀。恩空。松平丹波守旧臣の中村成貞の三男。仏向寺を経て1788年(天明8年)10月、蓮華寺住職。1789年(寛政1年)2月、十文字阿弥陀寺に隠居。1792年(寛政4年)10月、阿弥陀寺で死去(1811年(文化8年)8月23日とも)。 |
35 | 同阿嶺弁 | ?-1811 | 1789-1804 | 才阿嶺弁。一同。圃空。越後国長岡藩出身。本間氏。置賜新戸正念寺、谷地長延寺などに住す。仏向寺住職?。1789年(寛政1年)6月、蓮華寺住職。8月参内。1811年(文化8年)8月24日死去。 |
36 | 同阿俊了 | ?-1841 | 1804-1805 | 善阿俊了。光天。嶺貫一如。常陸国飯岡出身。小栗一向寺50世。宇都宮一向寺住職?。1804年(文化1年)5月28日蓮華寺住職。1805年(文化2年)2月13日、綾小路家の猶子となる。1841年(天保12年)2月5日死去。 |
37 | 同阿嶺喬 | ?-1817 | 1805-1817 | 蓮華寺中興。誓阿嶺喬。嶺喬法随。越中国射水郡姫野出身。姫川氏。総州中田宿本願寺住職。1805年(文化2年)8月、蓮華寺住職。1809年(文化6年)4月、本堂、庫裏、勅使門を修理。1817年(文化14年)8月8日死去。 |
38 | 同阿円海 | ?-1823 | 1818-1823 | 観阿円海。観順。向善。陸奥国桃生郡失本出身。仙台藩士内海氏。西方寺、福正寺、蔵福寺、光徳寺に住す。嶺喬の遺嘱により1818年(文政1年)2月14日、蓮華寺住職。1823年(文政6年)10月死去。 |
39 | 同阿一如 | 1824-? | 術阿一如。嶺貫。実名良道。出羽国出身。米沢藩士佐藤氏。仏向寺53世となり、1820年(文政3年)仏向寺本堂再建。1824年(文政7年)12月、蓮華寺住職。 | |
40 | 同阿喬順 | ?-1833 | 天保年間 | 嶺山。天保諍論で1832年(天保3年)頃辞任。1833年(天保4年)11月26日死去。 |
41 | 同阿弁及 | ?-1854 | 至賢。向道。自坊は古河西光寺。1834年(天保5年)頃、日輪寺の指名で蓮華寺住職。1854年(安政1年)5月12日死去。 | |
42 | 同阿 | ?-1869 | 霊道。譲誉。1869年(明治2年)1月23日死去。 | |
43 | 同阿 | ?-1878 | 長龍。良賢。玄道。1878年(明治11年)11月26日死去。 | |
44 | 同阿弁良 | 1812-1892 | 草野弁良。向然。弁良俊咏。1812年(文化9年)生。「本山世代にあれど山務なし」という。1892年(明治25年)4月22日、仏向寺で死去。81歳。 | |
45 | 同阿 | 1819-1882 | 1882-1882 | 成純。忍向。泰善。法誉。1819年(文政2年)生。古河西光寺より1882年(明治15年)4月17日、官選で蓮華寺住職。同年8月6日死去。64歳。 |
46 | 同阿良道 | ?-1885 | ?-1885 | 青柳良道。叡賢。進誉。出羽村山郡長崎出身。出羽本願寺に住す。1885年(明治18年)6月25日死去。1884年(明治17年)8月15日死去? |
47 | 同阿 | ?-1897 | 1887-? | 高見忍立。下野出身。自坊は都賀光明寺。要誉行孝忍立。1887年(明治20年)5月4日蓮華寺住職。1897年(明治30年)7月9日死去。 |
48 | 同阿準鶴 | 1830-1909 | 1895-1909 | 大橋経阿。経阿学準。自坊は津島蓮台寺。1830年(天保1年)生。一向派の僧だが、蓮華寺執事の時、遊行派側に付き、一向派の盟約を破った。1895年(明治28年)3月8日、時宗管長特選で蓮華寺住職となった。1896年(明治29年)7月、権少僧正。しかし、1896年(明治29年)8月、蓮華寺門末は「除籍」を決議(この時の肩書は「総本山蓮華寺執事」となっており、門末では住職特選を認めていなかったか)。1900年(明治33年)8月31日、一向派総代から処分申請が内務省に出されたが処分はなかった。1909年(明治42年)10月2日死去。80歳。 |
49 | 同阿窿応 | 1863-1931 | 1919-1931 | 佐原窿応。猷阿。哲真。桑園。俗姓は金子。自坊は宝泉寺。1863年(文久3年)生。斎藤茂吉に慕われた。1874年(明治7年)12歳で剃髪。翌年2月、仏向寺で大法相承。1883年(明治16年)3月20日、宝泉寺住職。4月、蓮華寺役僧。一向派独立運動を起こし、1891年(明治24年)6月3日に内務省に提出するも却下された。1897年(明治30年)には免職処分となったが、抗弁書を提出した。1910年(明治43年)11月15日、蓮華寺住職事務代行に就任。1919年(大正8年)3月20日(11月18日とも)、蓮華寺に晋山。1931年(昭和6年)8月10日死去。69歳。 桑隠。 |
50 | 同阿良正 | 1870-1947 | 1934-1946 | 西沢良正。仏向寺住職。東根守源寺の出身。1870年(明治3年)生。1896年(明治29年)浄土宗学本校卒。1901年(明治34年)守源寺住職。1926年(昭和1年)仏向寺住職。1934年(昭和9年)3月、蓮華寺貫主。本堂など修復。1942年(昭和17年)浄土宗知恩院派への転属を果たす。1946年(昭和21年)隠退。1947年(昭和22年)10月22日死去。78歳。 最蓮社同阿。羽洲。沢音。 |
51 | 同阿 | ?-1980 | 1947-? | 間宮静悠。近江八幡市牧の願誉寺住職。1947年(昭和22年)7月25日、浄土宗公選で蓮華寺貫主。1980年(昭和55年)7月21日死去。85歳。宣蓮社法誉同阿智巌静悠。1970年(昭和45年)菊華会を始める。 |
52 | 同阿 | 1981- | 竹内禅真。実誉。1949年(昭和24年)彦根市宗安寺住職。1980年(昭和55年)1月から貫主代務者。1981年(昭和56年)5月8日、貫主。1982年(昭和57年)10月31日晋山式。 | |
53 | 同阿修史 | 1925-2001 | 1998-2001 | 大橋俊雄。自坊は西林寺。神奈川県出身。1925年(大正14年)生。時宗教団史の研究者として有名。1948年(昭和23年)大正大学卒。1960年(昭和35年)西林寺住職。1998年(平成10年)蓮華寺貫主。2001年(平成13年)12月26日死去。著書多数。英蓮社智誉同阿修史菽水。 |
同阿 | 井沢隆徳。仏向寺69世。 |
画像
資料
- 一向門流#資料を参照。