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誠照寺
出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-)
誠照寺
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'''誠照寺'''(じょうしょうじ)は、福井県鯖江市にある[[浄土真宗]]の[[浄土真宗の本山寺院|本山寺院]]。[[大町門徒]](三門徒)系統の[[真宗誠照寺派]]の本山で、越前四本山([[証誠寺]]・[[毫摂寺]]・[[誠照寺]]・[[専照寺]])の一つ。本尊の阿弥陀如来は33年ごとに開帳していた。実質的な開山は如覚で、証誠寺から分裂した寺院という説もある。越前国今立郡。江戸時代は[[天台宗]][[輪王寺宮]]に直属する[[院家寺院]]だった。幕末に准門跡([[門跡寺院]])となる。'''鯖江本山'''、'''鯖江御堂'''。'''車の道場'''(車道場)。山号は上野山(うわのさん)。 == 歴史 == ===創建=== 1205年(元久2年)4月、越前国今立郡上野荘の領主波多野景行(景之とも)が霊夢を受けて[[京都]]で[[親鸞]]に師事。空然と名乗った。 のち親鸞が越後配流の途中に空然の道場に立ち寄り、庵を設けたのが起源とされる([[上野別堂]])。 親鸞が京都に戻る際、五男道性を留め空然の娘と結婚。道場を継いだという。 1361年(康安1年)、道性の子の如覚が現在地に移転し、翌年竣工した。 1305年(嘉元3年)、[[後二条天皇]]から'''真照寺'''の勅額を賜ったという。 1437年(永享9年)2月、[[後花園天皇]]の勅願所となり、'''誠照寺'''と改称した。 鯖江の町は誠照寺の門前町として生まれた。 誠照寺分立の要因を如覚の父との不和に求める説がある(小泉論文)。現在地移転を『中野物語』に「鯖江寺建立」とある1470年(文明2年)とする(小泉論文)。 ===戦国時代=== 戦国時代は[[一向一揆]]と対決。朝倉孝景から安堵状を得て庇護下に入ったことから対立する一揆から攻撃を受けた。 1552年(天文21年)、一向一揆の焼討を受け、伽藍焼失。さらに9世秀栄が殺害された。 柴田勝家の保護を受けたが、1583年(天正11年)、勝家を攻めた[[羽柴秀吉]]軍に焼かれた。 焼討の後、10世秀意は能登美濃に7年間匿われた。のち豊臣秀吉から安堵状を得て帰山。 1589年(天正17年)再建すると今度は有力末寺の[[誠長寺]]と[[越前・常楽寺]]と本末争いが起きる。 1605年(慶長10年)、[[証誠寺]]の仲裁でいったん和解するが再燃。 1631年(寛永8年)、福井藩に訴え、その判決により誠長寺と常楽寺は追放・廃絶となった。 住職の継承も短命だったり、前住の「友人」が継承したり、不安定だったが、福井藩家臣から秀山が入りようやく安定。 秀諴が入って中興することとなる。 ===近世=== 1655年(明暦1年)、福井藩重臣の太田資武の次男の秀諴が入寺して中興。伽藍を復興し、諸制度を整備。夏に美濃の末寺を巡教する「美濃廻り」を創始した。 1677年(延宝5年)福井藩主から24石寄進。享保3年、朱印地とされた。 一時[[聖護院門跡]]に属したが(国史大辞典)、1693年(元禄6年)、輪王寺宮院家となる。 1860年(万延1年)、二条家猶子になると共に准門跡となった(『日本仏教基礎講座』)。 1862年(文久2年)12月、伽藍焼失。 ===近現代=== 1872年(明治5年)9月、[[延暦寺]]末となるが1878年(明治11年)2月、独立。 1877年(明治10年)、御影堂を再建。1887年(明治20年)、阿弥陀堂を再建。 1933年(昭和8年)、[[上野別堂]]を復興した。 (国史大辞典、日本歴史地名大系、日本仏教基礎講座) == 伽藍 == ===諸堂=== *御影堂:本尊は[[親鸞]]。歴代法主も祀る。明治10年再建。大師堂ともいう。 *阿弥陀堂:本尊は閻浮檀金手引阿弥陀如来。かつては33年ごとに開帳していた。[[聖徳太子]]と[[法然]]も祀る。[[後二条天皇]]、[[後花園天皇]]の位牌を祀る。明治20年再建。「本堂」とされる(日本仏教基礎講座)。 *忠霊堂:戦没者2290柱の遺骨を祀る。本尊の光華阿弥陀如来は少将脇坂次郎の寄進。 *無碍光堂:納骨堂 *御本廟:歴代法主の墓 *[[上野別堂]] この他、四足門、御経堂、鐘楼堂、対面所、大庫裡、御宸殿、光華殿がある。教団の宗務所は大庫裡に置かれている。 == 子院== *願生寺 *真覚寺 *法林寺 *本正寺 *霊泉寺 *西福寺:役寺。1342年(興国3年/康永1年)、誠照寺4世良覚が創建。当初は誠照寺の西の有定村にあったので西坊と呼ばれた。1692年(元禄5年)、誠照寺の南隣に移転した。 *南光寺:役寺。1354年(正平9年/文和3年)、誠照寺5世秀覚が創建。当初は誠照寺の南側にあり、南坊と呼ばれた。1691年(元禄4年)、誠照寺の北隣の現在地に移転した。 == 組織== === 歴代住職 === {|class="wikitable" |+ !style="width:5%;"|歴代 !style="width:10%;"|法諱 !style="width:10%;"|院号 !style="width:10%;"|生没年 !style="width:10%;"|在職年 !style="width:40%;"|備考 |- |1 |[[親鸞]] | |1173-1262 | |[[浄土真宗]]開祖。 |- |2 |道性 | |1219-1297 | |誠照寺の伝承では親鸞の五男と伝える。1219年(承久1年)12月3日生。1227年(安貞1年)、波多野景之の養子となり、[[車道場]]に住む。のち現在地移転。長男如覚を後継者として、次男道光は[[越前・常楽寺]]を創建。三男常光と共に山本荘水落に隠棲。1297年(永仁5年)9月9日死去。益方有房と同一視されているが、不詳。『日本仏教基礎講座』では1257年(正嘉1年)死去とする。1221年(承久3年)生とも。[[証誠寺]]の伝承では1439年(永享11年)生、1521年(大永1年)死去とする。実際は[[大町・専修寺]]開山の[[如導]](1253-1340)の弟子とみられ、14世紀の人物だろう。 |- |3 |'''如覚''' |大威徳院 |1250-1311 |?-1311 |実質的な開山。道性の長男(次男とも)という。1250年(建長2年)3月7日生。1258年(正嘉2年)得度し、1262年(弘長2年)、父と共に上洛して親鸞に面会し名前を与えられたという。継承して1305年(嘉元3年)、[[後二条天皇]]から上野山真照寺の号を得た。1311年(応長1年)5月19日死去とされる。[[存覚]](1290-1373)に学んだということは確からしいから、実際には14世紀後半の人物だろう。『勧化抄』(勧化章)を著す。 |- |4 |良覚 | |1296-1349 |1311-1349 |如覚の長男。1296年(永仁4年)2月10日生。1304年(嘉元2年)得度。1311年(応長1年)継承。1342年(興国3年/康永1年)、隠退所として[[西福寺]]を創建。1348年(正平3年/貞和4年)西福寺に引退。1349年(貞和5年)10月14日死去。 |- |5 |秀覚 | |1320-1380 |1349-1380 |良覚の子。1320年(元応2年)1月生。1331年(元弘1年/元徳3年)得度。1349年(正平4年/貞和5年)継承。1354年(正平9年/文和3年)、[[南光寺]]を創建。1380年(天授6年/康暦2年)2月22日死去。著作に『真照寺草創記』があるという。 |- |6 |秀雲 | |1350-1419 |1380-1419 |秀覚の五男。1350年(正平5年/観応1年)生。1364年(正平19年/貞治3年)得度。[[浄土宗西山派]]や[[法相宗]]を学ぶ。長兄と父の死去で帰山し、1380年(天授6年/康暦2年)継承。1419年(応永26年)7月10日死去。1421年(応永28年)死去とも。 |- |7 |秀応 | |1399-1483 |1419-1483 |秀雲の長男。教団全盛期とも。1399年(応永6年)5月20日生。1407年(応永14年)得度。1419年(応永26年)継承。[[後花園天皇]]の勅願所となり改称したという。足利義教から寄進を受けたという。1483年(文明15年)3月3日死去。 |- |8 |秀慶 | |1447-1525 |1483-1525 |秀応の次男。1447年(文安4年)8月9日生。1458年(長禄2年)得度。1483年(文明15年)継承。1525年(大永5年)3月26日死去。 |- |9 |秀栄 | |1489-1552 |1525-1552 |秀慶の子。空知とも称す。1489年(延徳1年)1月16日生。1497年(明応6年)得度。1525年(大永5年)継承。朝倉孝景から安堵状を得た。1552年(天文21年)10月4日、[[越前一向一揆]]の焼討で殺害されたという。 |- |10 |秀意 | |1542-1616 |1552-1614 |秀栄の子。1542年(天文11年)11月7日生。1550年(天文19年)得度。1552年(天文21年)継承。1574年(天正2年)、越前一向一揆と戦い敗れた。翌年、織田信長の越前進行に加勢し一向一揆を破る。柴田勝家から安堵状を得たため、対立する[[豊臣秀吉]]から敵視される。1583年(天正11年)の秀吉軍の焼討の後、能登美濃に7年間匿われた。1589年(天正17年)、豊臣秀吉から安堵状を得た。後陽成天皇から綸旨を得た。[[越前・常楽寺]]と西福寺の争いが起こるが証誠寺の仲介で解決。1614年(慶長19年)引退。1616年(元和2年)1月25日死去。「安心文」を著す。 |- |11 |秀盛 | |1589-1616 |1614-1616 |秀意の末子。1589年(天正17年)1月20日生。1595年(文禄4年)得度。1614年(慶長19年)継承するが、1616年(元和2年)3月25日死去。(就任2カ月で死去とも) |- |12 |秀顕 | |1550-1621 |1617-1621 |秀栄の次男(秀意の長男とも)。1550年(天文19年)、または1560年(永禄3年)の2月9日生。1583年(天正11年)兵火を逃れて京都の浄土宗[[禅林寺]]の僧となる。1616年(元和2年)継承(1617年(元和3年)に帰山とも)。1621年(元和7年)の9月24日または5月24日死去。的山、助空とも称す。 |- |13 |秀恵 | |1579-1627 |1621-1625 |秀顕の長男とも、秀意の三男とも、秀顕の友人という。1621年(元和7年)継承とも、秀顕の遺言で1622年(元和8年)入寺とも。1625年(寛永2年)引退。茂山とも称す。秀高は誤りか。 |- |14 |秀山 | |1606-1663 |1625-1663 |福井藩家臣高谷越後守の子。1606年11月4日生(1608年とも)。秀盛の子で1616年生という説もある。1624入寺。1625年継承。1627年参内。1631年、[[誠長寺]]を追放。1653年[[越前・常楽寺]]を廃した。1658年、誠照寺伝の御文章古本を刊行。1663年7月10日死去。 |- |15 |'''秀〓''' |信行院、真紹隆院 |1642-1691 |1663-1691 |中興。福井藩重臣の太田資武の次男。1642年(寛永19年)6月3日生(1632年(寛永9年)生まれとも)。1650年(慶安3年)入寺。1663年(寛文3年)継承(1655年(明暦1年)とも)。1680年(延宝8年)、太田尹資から寄進された閻浮檀金手引阿弥陀如来を本尊とし、伽藍復興。1683年(天和3年)、寺法を制定。1685年(貞享2年)御影堂を建立。「美濃廻り」を始める。〓は「諴」。「秀誠」は誤り。1691年(元禄4年)11月6日死去。 |- |16 |秀海 | |1664-1693 |1691-1693 |福井藩家臣毛受家の出身。1664年(寛文4年)2月21日生(1665年(寛文5年)生とも)。1674年(延宝2年)得度。1691年(元禄4年)継承。1693年(元禄6年)参内。同年9月9日、京都で客死。[[輪王寺宮]]の院家となる。 |- |17 |秀如 |遊園院 |1675-1729 |1694-1727 |膳所藩主本多康慶の子。1675年(延宝3年)4月7日生。1694年(元禄7年)得度継承。1995年(平成7年)権大僧都法印。1701年(元禄14年)[[西園寺家]]の猶子となり、権僧正。1705年(宝永2年)徳川綱吉から朱印状を初めて得た。1727年(享保12年)病気で引退。1729年(享保14年)12月6日死去。 |- |18 |秀存 | |1697-1731 |1729-1731 |秀如の長男。1694年(元禄7年)6月15日生。1711年(正徳1年)得度、権大僧都法印。1729年(享保14年)、権僧正、継承。1731年(享保16年)7月3日京都で急死。 |- |19 |秀憲 | |1718-1743 |1731-1743 |中山兼親の末男。1718年(享保3年)5月11日生。1731年(享保16年)、西園寺公晃の猶子として入寺継承。権大僧都法印。1737年(元文2年)阿弥陀堂再建。1743年(寛保3年)12月12日死去(1744年(延享1年)とも)。 |- |20 |秀実 |大慈院 |1731-1806 |1743-1786,1786-1799 |萩原兼武の末男。1732年(享保17年)10月10日生(1731年(享保16年)生とも)。1743年(寛保3年)、西園寺公晃の猶子として入寺継承。1744年(延享1年)法印権大僧都。1761年(宝暦11年)権僧正。1780年(安永9年)、本尊開扉を始める。1786年(天明6年)引退するが、子の死去のため復帰。1799年(寛政11年)引退。1806年(文化3年)11月19日死去。「秀宝」は誤りか。 |- |21 |秀芳 | |1765-1786 |1786-1786 |秀実の長男。1765年(明和2年)8月3日生。1777年(安永6年)得度、法印権大僧都。1786年(天明6年)就任後、まもなく7月27日死去。1794年(寛政6年)継承、1799年(寛政11年)死去という説もある。 |- |22 |秀〓 |還迎院 |1788-1809 |1799-1809 |三条実起の末男。1788年(天明8年)7月5日生。1799年(寛政11年)入寺継承。翌年法印権大僧都。1809年(文化6年)8月17日死去(1810年(文化7年)9月17日とも)。〓は「葽」。「秀要」は誤りか。 |- |23 |秀厳 |宜法院 |1797-1812 |1811-1812 |左大臣二条治孝の十男。1797年(寛政9年)8月8日生。1811年(文化8年)、三条実起の猶子として入寺継承、法印権大僧都。就任の翌年9月23日に急死。16歳。1810年(文化7年)入寺という説がもある。以後、7年間無住。 |- |24 |秀観 |光暁院 |1812-1844 |1820-1844 |秀厳の長男。1812年(文化9年)6月6日生。1820年(文政3年)継承。1823年(文政6年)法印権大僧都。1828年(文政11年)魚山声明を導入。1844年(弘化1年)7月11日死去(1843年(天保14年)とも)。 |- |25 |二条秀量 |光台院 |1829-1891 |1845-1869 |交代寄合の但馬国村岡領主山名義蕃の子。1829年(文政12年)10月3日生。1845年(弘化2年)入寺継承。法印権大僧都。1858年(安政5年)、西園寺寛季の猶子となり、権僧正。1860年(万延1年)二条家の猶子となり、准門跡となる。親鸞600回忌を執行。1869年(明治2年)京都に里坊を創建し、引退。1878年(明治11年)権少教正。1881年(明治14年)権中教正。1883年(明治16年)中教正。1891年(明治24年)1月11日死去。 |- |26 |二条秀源 |恭敬心院 |1852-1935 |1869-1911 |西園寺寛季の末男。1852年(嘉永5年)1月5日生。1860年(万延1年)、二条斉敬の猶子となり、入寺。1865年(慶応1年)得度。1869年(明治2年)継承。持法会を始める。1878年(明治11年)初代管長。[[誠照寺東京別院|東京別院]]を創建。1935年(昭和10年)10月25日死去。 |- |27 |二条秀暁 |功勲広院 |1879-1941 |1911-1941 |二条秀源の長男。1879年(明治12年)12月5日生。1891年(明治24年)得度。1911年(明治44年)継承。1941年(昭和16年)1月17日死去。 |- |28 |二条秀淳 |仰威徳院 |1907-1986 |1941-1986 |秀暁の子。1907年(明治40年)6月18日生。大谷大学文学部卒。1941年(昭和16年)継承。1942年(昭和17年)、満州国皇帝溥儀を訪問。1986年(昭和61年)2月3日死去。 |- |29 |二条秀政 | |1934-2001 |1986-2001 |1934年(昭和9年)4月9日生。1986年(昭和61年)継承。2001年(平成13年)死去。 |- |30 |二条秀瑞 | |1978- |2001-現職 |1978年(昭和53年)生。2001年(平成13年)継承。 |} *真宗人名事典より *誠照寺ウェブサイト、望月『仏教大辞典 付録』、『日本仏教基礎講座』も参考にした。 == 資料 == *[[大町門徒]]を参照 [[Category:福井県]]
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