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諸興寺
出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-)
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- | '''諸興寺'''(しょこうじ)は、岡山県倉敷市木見にあった[[修験道]]寺院。本尊は[[薬師如来]]。[[五流尊瀧院]]の奥之院。'''新宮諸興寺'''、'''称光寺'''とも。[[五流尊瀧院関連旧跡]]。 | + | '''諸興寺'''(しょこうじ)は、岡山県倉敷市木見にあった[[修験道]]寺院。本尊は[[薬師如来]]。[[五流尊瀧院]]の奥之院。'''新宮諸興寺'''、'''龍岩諸興寺'''、'''称光寺'''とも。[[五流尊瀧院関連旧跡]]。 |
- | [[熊野速玉大社]] | + | [[熊野速玉大社]]に擬せられた。[[倉敷・熊野神社]]、[[瑜伽寺]]と共に新熊野三山とされた。山号は神蔵山?、新熊野山。 |
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- | + | 761年、新熊野神社と同時に役小角高弟の義学が熊野新宮に当たる諸興寺を創建したという(五流伝記略)。[[頼仁親王墓]]の近くにあったと思われる。 | |
- | + | 実際の創建年代は不明だが、延暦寺西塔長寿坊の薬仁という僧が1098年閏9月7日に『瑜祇経西決』という書を「備前州児島諸興寺」で記しており(同書奥書)、1098年までには諸興寺が確かに創建されていたことが分かる。 | |
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+ | 五流尊瀧院を中興した頼仁親王は死後、諸興寺に葬られたという。 | ||
+ | 1704年の『備前記』にはわずかに草庵の堂があると記し、本尊は薬師如来で、他に阿弥陀堂があり、また毘沙門天を祭り、熊野三山を写して新宮に当てると記す。 | ||
+ | 『備陽国誌』(江戸中期)には「廃寺」の項目に掲載されている。 | ||
+ | 『長床縁由興廃伝』には残っていた薬師堂と阿弥陀堂も元禄年間(1688-1704)には壊れてしまったとある。『備前記』の記述となる調査直後に廃絶したのだろう。 | ||
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+ | (日本歴史地名大系、岡野浩二「聖教奥書からみた僧侶の往来」ほか) | ||
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2020年8月12日 (水) 時点における版
諸興寺(しょこうじ)は、岡山県倉敷市木見にあった修験道寺院。本尊は薬師如来。五流尊瀧院の奥之院。新宮諸興寺、龍岩諸興寺、称光寺とも。五流尊瀧院関連旧跡。 熊野速玉大社に擬せられた。倉敷・熊野神社、瑜伽寺と共に新熊野三山とされた。山号は神蔵山?、新熊野山。
歴史
761年、新熊野神社と同時に役小角高弟の義学が熊野新宮に当たる諸興寺を創建したという(五流伝記略)。頼仁親王墓の近くにあったと思われる。 実際の創建年代は不明だが、延暦寺西塔長寿坊の薬仁という僧が1098年閏9月7日に『瑜祇経西決』という書を「備前州児島諸興寺」で記しており(同書奥書)、1098年までには諸興寺が確かに創建されていたことが分かる。
五流尊瀧院を中興した頼仁親王は死後、諸興寺に葬られたという。 1704年の『備前記』にはわずかに草庵の堂があると記し、本尊は薬師如来で、他に阿弥陀堂があり、また毘沙門天を祭り、熊野三山を写して新宮に当てると記す。 『備陽国誌』(江戸中期)には「廃寺」の項目に掲載されている。 『長床縁由興廃伝』には残っていた薬師堂と阿弥陀堂も元禄年間(1688-1704)には壊れてしまったとある。『備前記』の記述となる調査直後に廃絶したのだろう。
(日本歴史地名大系、岡野浩二「聖教奥書からみた僧侶の往来」ほか)