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護国寺

出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-) 最終更新:2024年4月19日 (金)

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護国寺005.jpg

護国寺(ごこくじ)は、東京都文京区にある真言宗寺院。真言宗豊山派大本山。豊島岡墓地が隣接する。新義真言宗僧録司を務めた護持院を明治に合併した。別院として常陸・中禅寺がある。隆光旧跡。(参考:同名寺院護国寺_(同名)

目次

歴史

音羽絵図・護国寺.jpg
  • 1681年(天和1年)2月:桂昌院(将軍徳川綱吉生母)が幕府の牛込御薬園の地を貰い受け、亮賢を招いて護国寺を創建。300石寄進。
  • 1682年(天和2年):本堂竣工。桂昌院の念持仏の天然琥珀如意輪観音を本尊とする。仁和寺門跡の直末寺となる。
  • 1682年(天和2年):梵鐘寄進(現存)。
  • 1686年(貞享3年):(隆光が護持院住職となる)
  • 1691年(元禄4年):経堂を建立(現在の薬師堂)
  • 1694年(元禄7年)10月:将軍徳川綱吉が桂昌院と共に護国寺に参詣。300石を加増し、600石となる。
  • 1695年(元禄8年):(隆光が真言宗新義派で初の大僧正となる)
  • 1695年(元禄8年):護持院に次ぐ将軍家の祈祷寺院に加わる。仁和寺を離れて無本寺となる。
  • 1695年(元禄8年)11月:弥勒寺快意が護国寺住職となる。
  • 1697年(元禄10年)1月:将軍徳川綱吉の命令で本堂造営を開始。
  • 1697年(元禄10年)8月4日:本堂(現存)の落慶法要。将軍徳川綱吉と桂昌院が参列。
  • 1697年(元禄10年)8月27日:100石加増
  • 1700年(元禄13年)10月:栄隆院(山形藩主(のち佐倉藩主)堀田正虎母)、現在の本尊、六臂如意輪観世音菩薩像を寄進。
  • 1700年(元禄13年):京都清凉寺釈迦如来像の出開帳を境内で実施。以後、各地の寺院の出開帳が行われる。
  • 1701年(元禄14年):薬師堂を建立(現在の大師堂)。
  • 1703年(元禄16年)9月:500石加増。1200石(1300石とも)となる。
  • 1705年(宝永2年)6月22日:桂昌院死去。
  • 1706年(宝永3年):快意が大僧正に任命。智積院長谷寺を凌ぐ存在となる。
  • 1707年(宝永4年)2月25日:護国寺快意が護持院住職となり、護国寺後任に長谷寺から亮貞が入る。
  • 1709年(宝永6年)1月10日:将軍徳川綱吉死去。以後、幕府の庇護が弱まる。
  • 1717年(享保2年)1月:護持院焼失。
  • 1717年(享保2年)3月:護持院は再興されず、護国寺の本坊に護持院の寺号が移された。
  • 1758年(宝暦8年):以後、護国寺住職が護持院を兼務。
  • 1782年(天明2年):西国観音堂を建立。
  • 1794年(寛政6年):護持院隣接地に大塚先儒墓所を開設。
  • 1868年(明治1年):護持院が廃絶となり、護国寺の境内に組み込まれる。
  • 1869年(明治2年)1月20日:境内を軍務官に貸与し、仮病院を設置[1]
  • 1872年(明治5年)9月18日:護国寺裏の2万坪を陸軍省に譲渡し、音羽陸軍墓地の設置を許可[2]
  • 1873年(明治6年)9月20日:旧護持院境内地の一部が上地され、豊島岡墓地となる[3][4]。25日に明治天皇皇子を埋葬。
  • 1873年(明治6年)5月27日:音羽陸軍墓地への埋葬について仁王門より通行すべきことを達す[5]
  • 1883年(明治16年):火災
  • 1900年(明治33年)8月10日:単称真言宗から御室派、高野派、大覚寺派、醍醐派、智山、豊山派、律宗が独立(内務省告示第74号[6])。正式名称は「新義真言宗豊山派」。
  • 1900年(明治33年)8月11日:豊山派宗務所を護国寺内に設置[7]
  • 1900年(明治33年)10月1日:豊山派尋常高等中学林を護国寺内に設置[8]
  • 1902年(明治35年)4月2日:忠霊堂立柱式[9]。日清戦争の遺骨を合葬する多宝塔と忠霊堂を建立。
  • 1903年(明治36年)11月28日:豊山派尋常高等中学林、私立豊山中学校と改称[10]
  • 1914年(大正3年):この頃、護国寺住職人事が宗政対立の舞台となる[11](やがて文部省が管長を解任する事態にまで至る)。
  • 1919年(大正8年)11月13日:財団法人護国寺維持会設立[12]
  • 1926年(昭和1年):火災。
  • 1928年(昭和3年):品川御殿山から旧園城寺日光院客殿を移築して月光殿とする。
  • 1938年(昭和13年)4月:不老門、多宝塔、建立。
  • 1941年(昭和16年)3月31日:真言律宗を除いて真言宗各派、合同真言宗に合併(文部省告示第503号)
  • 1945年(昭和20年):敗戦。合同真言宗解体。
  • 1949年(昭和24年)10月:音羽陸軍墓地が東京都(国から移管)から護国寺に譲渡される。
  • 1957年(昭和32年)11月:音羽陸軍墓地を改葬して合葬塔を建立。
  • 1996年(平成8年)10月:霊廟(納骨堂)を建立。

伽藍

  • 本堂:
  • 月光殿:
  • 薬師堂:
  • 大師堂:
  • 忠霊堂:
  • 多宝塔:
  • 仁王門:
  • 惣門:
  • 中門:
  • 不老門:

組織

歴代住職(近世1)

  • 45高城義海まで富田学純『新義真言宗史』[13]
  • 1758年(宝暦8年)10月3日、江戸・護持院の兼務となる
世数 生没年 在職年 略歴
1 亮賢 1611-1687 1681-1685 上野国甘楽郡小野村出身。俗姓は須藤。1611年(慶長16年)生。得成寺で出家。長谷寺に掛錫。得成寺住職、高崎大聖護国寺住職。卜占に通じ、桂昌院に天下を治める男子の懐妊を告げて、その通りになったので桂昌院の帰依を得た。1681年(天和1年)、桂昌院に招かれ護国寺の開山となった。1685年(貞享2年)春に隠居。1687年(貞享4年)3月7日死去。77歳。1691年(元禄4年)6月25日、権僧正追贈[14]
2 賢広 1637-1697 1685-1695 1637年(寛永14年)生[15]。1685年(貞享2年)春、護国寺住職[16]。12月香衣許可[17]。1689年(元禄2年)11月22日、江戸城三の丸で安鎮法を修す[18]。1691年(元禄4年)6月25日、権僧正[19]。1695年(元禄8年)10月21日、正僧正[20]。11月28日隠居[21]。1697年(元禄10年)5月3日死去[22]
3 快意 ?-1724 1695-1707 弥勒寺11世。護持院12世。自坊は長谷寺梅心院。室生寺住職、弥勒寺住職を経て1695年(元禄8年)11月28日護国寺住職[23]。12月22日、権僧正。1697年(元禄10年)7月僧正。1705年(宝永2年)6月10日、仁和寺直院家となる[24]。1706年(宝永3年)12月11日、大僧正。1707年(宝永4年)2月25日、護持院住職。(略歴は護持院#組織を参照)
4 亮貞 1648-1719 1707-1708 長谷寺化主15世。弥勒寺12世。長谷寺化主を経て1707年(宝永4年)2月27日に護国寺住職となり大僧正[25]。これは護持院隆光の権勢による人事で、亮貞は下位の寺院に下ることに抵抗していた。1708年(宝永5年)閏1月隠居[26]。(略歴は長谷寺#組織を参照)
5 尊祐 1645-1717 1708-1714 長谷寺化主16世。長谷寺化主を経て1708年(宝永5年)2月28日護国寺住職[27]。1709年(宝永6年)1月10日に将軍徳川綱吉が死去し以後幕府の庇護が弱まる。1714年(正徳4年)9月3日、幕府から「遠慮」を命じられる[28]。(略歴は長谷寺#組織を参照)
6 隆慶 1649-1719 1715-1719 長谷寺化主17世。護持院14世。弥勒寺13世。長谷寺化主を経て1715年(正徳5年)冬、護国寺住職[29]。1717年(享保2年)1月護持院焼失。2月9日、護持院が護国寺に移転し合併すると3月14日、護持院住職となり、護国寺も兼務する形となった。1719年(享保4年)2月、隠退。同年死去。(略歴は長谷寺#組織を参照)
7 兼澄 ?-1748 1719-1722 護持院15世。上品蓮台寺16世。上品蓮台寺を経て1719年(享保4年)4月16日、護持院住職。護国寺住職を兼ねる[30]。1722年(享保7年)12月5日、護国寺住職を弥勒寺尚彦に譲る[31]。1724年(享保9年)11月6日、護持院住職を隠退。1748年(寛延1年)死去。
8 尚彦 1666-1736 1722-1724 長谷寺化主20世。弥勒寺15世。弥勒寺を経て1722年(享保7年)12月5日、護国寺住職[32]。1724年(享保9年)長谷寺化主。(略歴は長谷寺#組織を参照)
9 恵海 1662-1745 1724-1724 長谷寺化主21世。護持院16世。根生院を経て1724年(享保9年)2月16日護国寺住職[33]。11月7日、護持院住職。権僧正。1730年(享保15年)長谷寺化主。(略歴は長谷寺#組織を参照)
10 主真 ?-1735 1724-1730 護持院17世。近江・総持寺26世。総持寺を経て1724年(享保9年)12月、護国寺住職[34]。1730年(享保15年)3月30日、護持院住職[35]
11 恵任 1665-1742 1730-1734 長谷寺22世。弥勒寺16世。宝仙寺29世。1665年(寛文5年)生。1678年(延宝6年)天満宝珠院で剃髪。1680年(延宝8年)8月、長谷寺西蔵院の頼雅に随従。1710年(宝永7年)5月、長谷寺喜多坊に住す。1715年(正徳5年)7月29日、宝仙寺住職[36]。1722年(享保7年)12月、弥勒寺住職[37]。1730年(享保15年)4月11日、護国寺住職[38]。1734年(享保19年)9月16日、長谷寺化主[39]。1740年(元文5年)9月14日、引退[40]
12 圭賢 1669-1749 1734-1740 長谷寺化主23世。護持院20世。1734年(享保19年)10月(5月とも)5日、護国寺住職[41]。1740年(元文5年)3月12日、護持院住職[42]。1740年(元文5年)9月14日、長谷寺化主[43]。(略歴は長谷寺#組織を参照)
13 信恕 1682-1760 1740-1740 長谷寺化主24世。護持院21世。弥勒寺19世。1740年(元文5年)4月14日護国寺住職[44]。9月22日護持院住職[45]。1746年(延享3年)長谷寺化主。(略歴は長谷寺#組織を参照)
14 宗纂 ?-1744 1740?-1744 弥勒寺20世。長谷寺金蓮院[46]松井田不動寺を経て1740年(元文5年)5月12日、弥勒寺住職[47]。護国寺就任の記録は確認できないが、信恕が護持院に転じた同年9月22日から光星が弥勒寺住職となった12月28日までの間に護国寺住職になったと推定できる。1744年(延享1年)1月25日、在職で死去[48]
15 光星 1689-1775 ?-1750 弥勒寺21世。護持院23世。玉蔵院14世。1689年(元禄2年)生(享年より計算)。市ケ谷東円寺を経て1723年(享保8年)12月15日、玉蔵院住職。1740年(元文5年)12月28日、弥勒寺住職[49]。護国寺住職の就任年は不詳[50]。1750年(寛延3年)11月6日、護持院住職[51]。同年権僧正。1758年(宝暦8年)10月3日、護国寺は護持院の永兼帯となり護国寺住職に再任[52]。1765年(明和2年)3月5日、隠居[53]。1766年(明和3年)3月、隠居所として成満院を創建。1775年(安永4年)閏12月6日死去[54]。87歳[55]
16 能勝 ?-1757 1750-1757 弥勒寺24世。宝仙寺34世。上総・東福寺住職[56]、宝仙寺を経て1748年(寛延1年)12月28日、弥勒寺住職。1751年(宝暦1年)1月19日、護国寺住職[57]。1757年(宝暦7年)5月27日死去[58]。能祥。賢真房。

歴代住職(近世2)

  • 護持院住職が護国寺住職を兼務。
  • 「世数」の<>は護国寺住職の世数。
世数 生没年 在職年 略歴
24<17> 恵山 ?-1772 1766-1772 中島金剛院を経て1764年(明和1年)9月6日、大護院住職[59]。1766年(明和3年)3月29日、護持院住職(護国寺兼務)[60]。1772年(安永1年)8月引退。10月10日死去[61]
25<18> 有慶 1709-1775 1772-1773 長谷寺28世。1751年(宝暦1年)菅明院住職[62]。1758年(宝暦8年)10月16日、近江北野寺住職[63]。1766年(明和3年)12月24日、根生院住職[64]。1772年(安永1年)10月27日、護持院住職[65]。権僧正。1773年(安永2年)6月29日、長谷寺化主[66]
26<19> 懐玄 ?-1790 1773-1785 長谷寺31世。長谷寺月輪院を経て1760年(宝暦10年)11月4日、千葉妙見寺住職[67]。1767年(明和4年)弥勒寺住職。1773年(安永2年)8月24日護持院住職[68]。9月24日権僧正。1785年(天明5年)5月7日、長谷寺化主[69]。1786年(天明6年)4月28日、正僧正[70]。1790年(寛政2年)6月11日、近江総持寺訴訟一件につき寺社奉行から逼塞を命じられる。7月11日、逼塞赦免[71]。11月29日死去[72]。高算房。
27<20> 観算 ?-1788 1785-1788 長谷寺慈心院を経て1770年(明和7年)4月16日、松井田不動寺住職[73]。1783年(天明3年)9月30日、根生院住職[74]。1785年(天明5年)6月19日、護持院住職[75]。1788年(天明8年)12月26日隠居。28日死去[76]
28<21> 恵翁 ?-1796 1789-1796 弥勒寺を経て1789年(寛政1年)3月4日、護持院住職[77]。4月19日権僧正。1796年(寛政8年)1月6日、正月年礼に際、江戸城中で急病を発して下城[78]。11日隠居。12日死去。
29<22> 儀貞 1732-1802 1796-1796 長谷寺33世。室生寺10世。長谷寺の雲井院、梅心院、室生寺、根生院を経て1796年(寛政8年)4月16日、護持院住職。権僧正。同年10月7日長谷寺化主。(略歴は室生寺#組織を参照)
30<23> 実自 ?-1797 1796-1797 乙訓寺を経て1796年(寛政8年)7月30日、根生院住職[79]。11月12日、護持院住職[80]。1797年(寛政9年)1月28日死去[81]
31<24> 信応 ?-1800 1797-1800 弥勒寺33世。出身地・生年不詳。長谷寺で学ぶ。長谷寺本願院を経て1783年(天明3年)11月3日玉蔵院住職。1793年(寛政5年)5月26日、弥勒寺住職[82]。1797年(寛政9年)4月5日護持院住職[83]。5月1日権僧正。1800年(寛政12年)11月2日隠退[84]。同年12月29日死去。
32<25> 元栄 ?-1802 1800-1802 長谷寺34世。長谷寺梅心院を経て1789年(寛政1年)2月近江総持寺住職。1797年(寛政9年)9月26日弥勒寺住職[85]。1800年(寛政12年)12月21日、護持院住職[86]。1802年(享和2年)5月10日長谷寺化主[87]。しかし入山を前に護持院で6月13日死去。
33<26> 盛尊 ?-1804 1802-1803 長谷寺36世。千葉妙見寺を経て1801年(享和1年)3月10日弥勒寺住職[88]。1802年(享和2年)9月11日、護持院住職[89]。10月6日権僧正。1803年(享和3年)5月6日、長谷寺化主[90]。1804年(文化1年)5月9日死去。
34<27> 高隆 1737-1808 ?-1804 長谷寺37世。長谷寺月輪院、1796年(寛政8年)武蔵・総持寺住職。1799年(寛政11年)、総持寺の什物・祠堂金の高隆の扱いをめぐって末寺が根生院に訴え、12月12日、根生院から長谷寺に通知する[91]

1803年(享和3年)1月16日、弥勒寺住職[92]。同年7月11日護持院住職[93]。8月18日権僧正。1804年(文化1年)7月10日、長谷寺化主[94]。1808年(文化5年)7月15日死去[95]

35<28> 賢慶 ?-1811 1804-1811 佐渡出身。長谷寺菩提院を経て、1798年(寛政10年)2月17日近江総持寺住職[96]。、1803年(享和3年)10月10日、弥勒寺住職[97]。1804年(文化1年)9月7日護持院住職[98]。権僧正。1811年(文化8年)12月23日引退[99]。25日死去。
36<29> 通弁 ?-1818 1812-1818 長谷寺慈眼院を経て1803年(享和3年)8月3日平須賀宝聖寺住職[100]。1812年(文化9年)5月10日護持院住職[101]。1818年(文政1年)8月4日引退[102]。6日死去。智蔵房。
37<30> 祐澄 ?-1818 1818-1818 1805年(文化2年)6月4日、千葉妙見寺住職[103]。1812年(文化9年)9月30日、根生院住職[104]。1818年(文政1年)10月2日護持院[105]。11月8日権僧正。12月8日引退。9日死去。本浄房。
38<31> 令法 ?-1827 1819-1826 長谷寺41世。岡寺真珠院を経て1819年(文政2年)6月18日、護持院住職。1826年(文政9年)4月2日長谷寺化主[106]。1827年(文政10年)10月30日死去[107]。権僧正。
39<32> 秀陽 ?-1833 1826-1833 長谷寺慈眼院を経て1812年(文化9年)10月16日、千葉妙見寺住職[108]。1826年(文政9年)6月17日、護持院住職[109]。1832年(天保3年)2月29日、宝仙寺教任と薬王寺秀乗から寺内不取締を訴えられる[110]。5月10日、長谷寺から護持院へ使僧が派遣される。6月24日、長谷寺は護持院役者と護国寺院代を任命。1833年(天保4年)5月16日、正月献上の札など不都合につき護持院院代が寺社奉行所に召喚される。6月24日、引退。27日死去。勝憧房。
40<33> 栄性 1768-1837 1833-1837 根来寺中興4世。信濃国出身。1768年(明和5年)生。俗姓は浦沢。長谷寺で蓮阿に師事。1814年(文化11年)根来寺中興4世。根来寺蓮華院。1833年(天保4年)10月4日、護持院住職[111]。1837年(天保8年)10月27日、田端与楽寺に引退[112]。11月15日死去(10月13日とも)。70歳。著書『即身義決断』。
41<34> 真淳 ?-1850 1838-1844 長谷寺金蓮院を経て1820年(文政3年)3月23日、宝仙寺住職[113]。1831年(天保2年)5月2日、根生院住職[114]。1837年(天保8年)9月、本山貸付金の督促を受ける。1838年(天保9年)1月19日護持院住職[115]。1844年(弘化1年)12月26日引退[116]。1850年(嘉永3年)10月13日死去[117]。翌年、高野山大塔再建のため500両を寄進(遺言によるものか)[118]。真諄。仙岳房。
42<35> 信恵 1776-1846 1845-1846 長谷寺46世。1792年(寛政4年)玉蔵院信応のもとで出家。長谷寺梅心院を経て1826年(文政9年)7月16日、三保谷広徳寺住職[119]。1838年(天保9年)4月20日、根生院住職[120]。1845年(弘化2年)3月18日、護持院住職[121]。5月8日権僧正。1846年(弘化3年)閏5月25日、長谷寺化主。7月24日、入山前に護持院で死去。信慧。悟心房。
43<36> 法信 ?-1848 1846-1848 長谷寺月輪院を経て1830年(天保1年)10月6日松井田不動寺住職。1841年(天保12年)5月7日、弥勒寺住職[122]。1846年(弘化3年)8月6日護持院住職[123]。12日晋山。1848年(嘉永1年)8月10日死去[124]
44<37> 長盛 ?-1855 1848-1855 長谷寺慈心院を経て1831年(天保2年)2月8日、箕田龍珠院住職。12月16日、宝仙寺教任から長谷寺一臈の時の不正を訴えられる[125]。1847年(弘化4年)4月24日、根生院住職[126]。1848年(嘉永1年)11月6日、護持院住職[127]。1855年(安政2年)2月6日死去[128]
45<38> 通済 1788-1872 1855-1856 長谷寺49世。長谷寺月輪院を経て1838年(天保9年)閏4月11日、三保谷広徳寺住職。1849年(嘉永2年)2月29日根生院住職[129]。1855年(安政2年)5月2日、護持院住職[130]。1856年(安政3年)12月29日、長谷寺化主[131]。翌年3月17日晋山。1862年(文久2年)12月19日、引退[132]。1872年(明治5年)10月18日死去[133]。最勝房
46<39> 宥観 ?-1866 1857-1863 長谷寺50世。長谷寺雲井坊を経て1839年(天保10年)2月29日、千葉妙見寺住職。1852年(嘉永5年)2月23日、弥勒寺住職[134]。1857年(安政4年)5月12日、護持院住職[135]。1863年(文久3年)4月14日、長谷寺化主[136]。9月9日、転任の延期を出願。1866年(慶応2年)4月21日死去[137]。権僧正。宥歓。周宣房。
47<40> 快照 生没年不詳 1863-1866 市ケ谷薬王寺住職を経て1857年(安政4年)6月10日、弥勒寺住職[138]。1863年(文久3年)8月5日護持院住職[139]。10月9日権僧正。1866年(慶応2年)11月13日引退[140]。林暁房。
48<41> 実盈 ?-1867 1867-1867 慈眼院を経て1843年(天保14年)5月26日、北野寺住職。1858年(安政5年)1月16日、大護院住職[141]。1867年(慶応3年)2月28日、護持院住職[142]。3月29日権僧正。5月8日死去。覚応房。
49<42> 隆盛 1801-1872 1867-1868 長谷寺52世。箕田龍珠院住職を経て1863年(文久3年)11月9日弥勒寺住職[143]。1867年(慶応3年)9月29日護持院住職[144]。11月24日権僧正。1868年(明治1年)2月21日、長谷寺化主[145]。7月4日、江戸4寺の触頭廃止などを達す[146]。9月29日晋山。6月5日、権僧正の宣旨[147]。1872年(明治5年)4月28日教導職権少教正。6月13日大教正。11月8日死去。精真房。

歴代住職(近代)

世数 生没年 在職年 略歴
43 直樹俊海 1801-1883 1869-1883 自坊は長谷寺慈眼院。武蔵国埼玉郡出身。俗姓は野中。1801年(享和1年)生。16歳で長谷寺に学ぶ。慈眼院に住す。1849年(嘉永2年)三保谷応徳寺住職。1867年(慶応3年)幕命で湯島根生院住職。1868年(明治1年)2月、護持院住職。1869年(明治2年)5月25日、護国寺住職[148]。大僧都。教導職権少教正。1883年(明治16年)6月7日死去。83歳。字は秀学。
44 高志大了 1834-1898 1883-1898 長谷寺化主55世。1883年(明治16年)8月護国寺貫首[149][150]。1891年(明治24年)1月22日長谷寺化主。1893年(明治26年)6月16日、根来寺座主。1898年(明治31年)8月25日死去。
45 高城義海 1836-1911 1898-1911 長谷寺化主61世。初代宗務長。自坊は松戸大乗院。1898年(明治31年)9月19日、護国寺住職[151]。1900年(明治33年)9月15日、豊山派の独立に際して初代宗務長に就任[152]。1902年(明治35年)4月22日、室生寺兼務住職を退任[153]。1903年(明治36年)2月21日、宗務長再任[154]。1911年(明治44年)3月31日、豊山派管長(長谷寺化主も?)。5月11日死去。護国寺境内に「義海和尚咸恩碑」がある。護国寺を管長兼務の寺とするように遺言を残したが守られず、しばら混乱を招いたという[155]
46 沢田秀元 1864-1914 1911-1914 自坊は自性院。1864年(元治1年)生。1906年(明治39年)1月19日[156](28日[157])から1910年(明治43年)3月15日[158](2月25日[159])まで豊山中学校校長。1911年(明治44年)護国寺住職[160]。1914年(大正3年)3月1日死去[161]
47 永見快賢 1856-1924 1914-? 栃木県豊田村出身。1856年(安政3年)生(1855年(安政2年)とも[162])。栃木県大宮村如意輪寺住職。1900年(明治33年)11月、菩提院結衆[163]。1903年(明治36年)3月23日、宗派課長[164]。1906年(明治39年)3月2日、宗派課長[165]。1907年(明治40年)9月9日、宝仙寺住職[166]。1910年(明治43年)9月集議[167]。1914年(大正3年)5月9日護国寺住職[168]。退職年は不詳。1919年(大正8年)4月5日、集議を辞任[169]。1924年(大正13年)10月31日死去[170]
48 早川快亮 1849-1923 1918-1921 長谷寺化主63世。1916年(大正5年)1月15日、豊山派管長・長谷寺化主。1916年(大正5年)12月10日、根来寺座主。1918年(大正7年)11月29日、護国寺の「臨時兼住職」となる[171]。1921年(大正10年)10月、護国寺兼住職を退任[172]
49 小野方良行 1852-1932 1921-1932 武蔵国忍城下出身。父は勝山藤五郎。1852年(嘉永5年)生。1860年(万延1年)愛宕円福寺興阿に師事。1863年(文久3年)檀林金剛院で寂如に師事。1866年(慶応2年)邑楽宝寿寺で得度。1869年(明治2年)9月、新里地蔵樹住職。12月、長谷寺に掛錫。1870年(明治3年)受法。1874年(明治7年)4月、教導職試補。10月、栃木県中教院入学。1876年(明治9年)2月、遍照寺住職。1877年(明治10年)12月、護国寺豊山東校に入学。1879年(明治12年)2月、訓導。4月、新義派大教院の教導周旋係。1880年(明治13年)5月、権少講義。1886年(明治19年)権少僧都。1896年(明治29年)権大僧都。1903年(明治36年)館林宗務支所長、五等司教、豊山理事。1906年(明治39年)権少僧正。1908年(明治41年)12月総持寺住職。1912年(大正1年)遍照寺住職に再任。邑楽仏教各宗協和会長。1916年(大正5年)7月、集議。1921年(大正10年)11月20日、護国寺住職[173]。12月1日初入山。1922年(大正11年)後七日御修法に奉仕。1924年(大正13年)薬王寺住職兼務。1925年(大正14年)9月24日、権大僧正。1928年(昭和3年)6月7日、青山会館での日本宗教大会に出席。1932年(昭和7年)8月14日死去[174]。号は阪川。著書『阪川存稿』[175]、年譜[176]
50 佐々木教純 1875-1950 1932-1950 豊山派宗務長。1875年(明治8年)生。1932年(昭和7年)、護国寺貫首。11月13日晋山式[177]。1950年(昭和25年)10月16日死去。51世とも。
51 岡本教海 1894-1969 1950-1969 奈良県吉野郡出身[]。1894年(明治27年)生[178]。新宿多聞院で出家。1918年(大正7年)豊山大学卒。篠山70連隊に入営。軍曹となり除隊。1921年(大正10年)10月志村長徳寺住職。1923年(大正12年)護国寺院代。執事長を経て1950年(昭和25年)10月護国寺貫首。音羽洋裁学院長。豊山学園理事。専修学林長。11月17日、晋山式。著書「私の修業時代」[179]。1969年(昭和44年)10月16日死去[180]。75歳。
52 小林良弘 1902-1997 1969-1993 1902年(明治35年)生[181]。1922年(大正11年)茨城延命寺住職。1924年(大正13年)豊山大学卒。1950年(昭和25年)護国寺執事。執事長。1955年(昭和30年)茨城南円寺住職。1969年(昭和44年)護国寺貫首[182]。同年大僧正。1973年(昭和48年)集議[183]。1993年(平成5年)高齢のため退任[184]。1997年(平成9年)1月29日死去[185]。95歳。
53 岡本永司 1927-2019 1993-2019 岡本教海の長男。1927年(昭和2年)生。1950年(昭和25年)大正大学文学部宗教学科卒。同年板橋長徳寺住職。1969年(昭和44年)護国寺執事。1993年(平成5年)護国寺貫首。10月大僧正。11月1日晋山式[186]。2019年(令和1年)10月28日死去。91歳。東京都第1号宗務支所長、東京都第1号宗務支所教区長、宗派宗会議長、総本山長谷寺顧問、豊山派宗機顧問、東京都仏教連合会会長など歴任。菩提院結衆。
54 小林大康 2020- 小林良弘の長男。南円寺住職。護国寺執事長を経て、2020年(令和2年)1月24日、護国寺貫首。

画像

資料

史料・古典籍

  • 『護国寺史料』[187]:荒木良仙1929
  • 「明和三年護持院宝蔵常什物帳」[188]
  • 「宝永四年護国寺諸堂諸社宝蔵什物帳」[189]
  • 「護持院・護国寺関係史料」[190]
  • 「護国寺文書(大田区関係)」:『大田区史・資料編・護国寺・薬王寺文書』[191]
  • 「護持院兼帯護国寺世代記」:『移転地世代覚』所収。『豊山全書』18収録。
  • 「神齢山大聖護国寺世代々」:『雑司谷神齢居右』所収。
  • 『祠曹雑識』
    • 「護持院兼帯護国寺被停僧録」[192]
    • 「護持院護国寺営造例」[193]
  • 「音羽護国寺ノ大仏背銘」[194]:1935『墓碑史蹟研究』
  • 香取秀真1913「音羽護国寺に存する金石銘」[195]
  • 香取秀真1941「音羽護国寺に存する金文」[196]
  • 『護国寺日記』:途中欠落があるが1697年(元禄10年)から1757年(宝暦7年)まで現存。1697年(元禄10年)1月から1709年(宝永6年)2月までの翻刻が坂本正仁校訂で八木書店から出版されている。
    • 2010『護国寺日記目録』:永村眞編。日本女子大学
    • 2014『史料纂集古記録編―護国寺日記』1:1697年(元禄10年)1月~1700年(元禄13年)12月
    • 2015『史料纂集古記録編―護国寺日記』2:1701年(元禄14年)1月~1702年(元禄15年)12月
    • 2016『史料纂集古記録編―護国寺日記』3:1703年(元禄16年)1月~1704年(宝永1年)12月
    • 2018『史料纂集古記録編―護国寺日記』4:1705年(宝永2年)1月~1706年(宝永3年)12月
    • 2019『史料纂集古記録編―護国寺日記』5:1707年(宝永4年)1月~1709年(宝永6年)2月
  • 護国寺末寺有志会1912『豊山派別格本山護国寺事件ニ関スル報告』

絵図

  • 「護国寺創建伽藍略図―天和元年」[197]
  • 「護持院護国寺」[198]:陸軍省御用地譲渡時の絵図か

公文書

  • 『公文録』
    • 1869年(明治2年)1月「音羽護国寺本官ヘ貸渡ノ儀東京府ヘ達」[199]
    • 1871年(明治4年)12月「音羽護国寺上野山内官林伐木伺」[200]
    • 1873年(明治6年)3月「護国寺真樹権少教正呼出ニ付伺」[201]
    • 1874年(明治7年)12月「元護国寺境内皇子皇女御墓所轄ノ儀ニ付伺」[202]
  • 『太政類典』
    • 明治2年1月20日「音羽護国寺ヲ軍務官ニ貸与ス」[203]、草稿「鎮台及諸庁制置・音羽護国寺軍務官ヘ貸渡」[204]
    • 明治4年7月3日「東京府下上野浅草不動院外七ケ院護国寺附属ヲ止メ更ニ本寺ヲ設ケシム」[205]、草稿[206]
    • 明治5年9月「陸軍兵隊埋葬地トシテ音羽護国寺裏地所交付・二条」[207]
    • 明治6年9月20日「皇子御埋葬所ヲ音羽護国寺後山ニ定ム」[208]
    • 明治6年9月22日「稚端照彦尊小石川豊島岡ヘ御墓所御治定・護国寺境内地ヲ豊島岡ト称スル事ハ山陵ノ部ニノス」[209]
  • 『公文別録』
    • 明治6年1月14日「音羽護国寺ノ第一仮病院ヲ廃ス」[210]
    • 明治8年3月30日「伝染病院ノ為メ音羽護国寺内ヲ本病院ニ交付ス」[211]
  • 『公文類聚』
    • 明治15年6月19日「東京府下護国寺堂宇修繕費宮内省ヨリ下賜」[212]
    • 明治16年12月21日「東京府下小石川区大塚坂下町十六番地護国寺境内地ヲ分割上地シ御墓附属地トス」[213]
    • 明治24年2月20日「故三条内大臣葬儀日時并埋葬地ヲ定ム」[214]
    • 明治24年2月20日「故三条内大臣葬送ニ付前駈後衛并道筋諸取締ヲ警視庁ヘ令ス」[215]
    • 明治24年2月21日「故三条内大臣葬送ニ付憲兵ヲ以道筋取締方ヲ陸軍省ニ令ス」[216]
  • 『記録材料』
    • 1883年(明治16年)「宮内省・府下小石川区大塚坂下町護国寺境内上地ノ分御墓附属地トシテ受領ノ義」[217]
  • 『諸雑公文書』
    • 1891年(明治24年)2月20日「故三条内大臣葬儀出棺音羽護国寺境内墓地へ埋葬に付内閣奏任官以上会葬人名故三条内大臣葬儀懸より照会」
  • 『国葬等に関する文書』
    • 1891年(明治24年)「内大臣墓地建設工事ノ為メ〓火ヲ設ケ及護国寺門前馬繋場設立ノ旨ヲ警視庁へ通報ス」[218]
    • 1895年(明治28年)「皇宮警察官御墓所并護国寺境内取締」[219]
    • 1913年(大正2年)「豊島岡墓所並護国寺境内取締ノ件」[220]
    • 1913年(大正2年)「御墓所並護国寺内天幕配置図」[221]
    • 1913年(大正2年)「護国寺借用ノ件」[222]
    • 1923年(大正12年)「斂葬ノ節護国寺南方空地等借用ノ件」[223]
  • 『文部省文書』
    • 昭和14年7月31日「護国寺及忠霊塔の建立に関する件」[224]

文献

  • 『国宝書院図聚13』「護国寺月光殿」[225]
  • 林新1925「密教の興隆と徳川の大奥」『密教研究』16[226]
  • 和田弁瑞1936「図書館の開設―音羽の護国寺に聽く」『現代仏教』128
  • 飯塚栄斧1954「和尚亮賢」『豊山学報』1[227]
  • 塚本俊孝1958「嵯峨釈迦仏の江戸出開帳について」『佛教文化研究』6・7合併号[228]
  • 櫛田良洪1959「近世豊山派教団の成立」『豊山学報』5[229]
  • 櫛田良洪1960「本末録に見ゆる新義真言宗寺院」『豊山学報』6[230]
  • 櫛田良洪1961「本末録より見た新義真言宗寺院」[231]
  • 坂本正仁1970「『護国寺日記』について」『豊山学報』14・15合併号[232]
  • 坂本正仁1971「『護国寺日記』について」『大正史学』
  • 坂本正仁1974「将軍家祈祷寺としての護国寺について」『豊山教学大会紀要』2
  • 坂本正仁1976「護持院の護国寺兼帯―享保~宝暦期真言宗新義派の一側面」『豊山教学大会紀要』4
  • 坂本正仁2008「護国寺所蔵「護国寺日記」「護持院日記」について」『社寺史料研究』
  • 金子隆照1973「護国寺俊海について」[233]
  • 玉橋隆寛1973「享保期における新義真言宗について―特に護持院焼亡による再編を中心に」『豊山学報』17・18合併号[234]
  • 玉橋隆寛1973「隆光と小池坊能化について」[235]
  • 林亮勝1973「御祈祷寺院住職の条件」『密教学研究』5
  • 林亮勝2000「将軍綱吉と護持院隆光」『豊山教学大会紀要』28
  • 胡桃沢友男1986「変わっていた庚申塔群の配列―東京・護国寺境内」『日本の石仏』39[236](限定)
  • 護国寺史編纂委員会1988『護国寺史』[237](限定)
  • 光井渉1995「近世寺院境内における遊興の演出―「護国寺境内西国礼所写」の経営と構造」『建築史の鉱脈』
  • 巌谷勝正1996「増上寺第三十六世顕誉祐天と桂昌院」『仏教論叢』40
  • 宇高良哲2004「史料紹介・護国寺快意書状」『空海の思想と文化』
  • 小野妙恭2004「調査研究報告書・大本山護国寺蔵大般若波羅蜜多経・平安後期古書写経(久安~寿永)」智山学報53[238]
  • 小野妙恭2004「大本山護国寺蔵大般若波羅蜜多経平安後期古書写経(久安?寿永)」『豊山教学大会紀要』32
  • 小野妙恭2005「『大般若波羅蜜多経』平安後期古書写経(久安~寿永)―大本山護国寺蔵」
  • 小野妙恭2005「護国寺の由来と桂昌院について」『黄檗文華』126
  • 小野妙恭2008「隠元禅師と桂昌院との御仏縁について―黄檗宗万福寺の由来と護国寺大蔵経のルーツについて」『豊山教学大会紀要』
  • 小野妙恭2009「桂昌院実記(紀)―徳川五代将軍綱吉公御生母の御事績」『豊山教学大会紀要』37
  • 小野妙恭2010「徳川五代将軍綱吉公御事績中―猿(申)楽の事」『豊山教学大会紀要』38
  • 櫛田良道2006「享保期以降の護持院における将軍家祈祷―護国寺所蔵「御祈祷祷標目」を素材として」『大正大学大学院研究論集』30
  • 櫛田良道2010「近世における将軍家祈祷寺の研究―護持院を中心として」『大正大学大学院研究論集』:要旨[239]
  • 櫛田良道2018「元禄期における護国寺住持の役割―快意による桂昌院への取成しを通して」『豊山学報』61[240]
  • 櫛田良道 2020「護国寺初代亮賢と将軍家との関係―大聖護国寺所蔵仏像から探る」『豊山教学大会紀要』48
  • 斎藤悦正2007「護国寺と門前町屋東青柳町について」
  • 文京アカデミー2008『護国寺とぶんきょう―将軍家の祈りから地域文化へ』
  • 山口興順2008「中世天台教学の一拠点・伊賀国往生院について―新出・護国寺蔵『大般若経』奥書等による成立事情の再考」『仏教と文化』6・7合併号
  • 片岡英子2018「BC級戦犯の「追悼」の諸相とその実質―白蓮社を中心に」『近代仏教』25

新聞雑誌など

  • 『加持世界』(『新興』に改題)
    • 小林正盛1912「護国寺論」『加持世界』12-3
    • 木公冠者1912「護国寺問題を論ず」『加持世界』12-8
    • 伊豆孤村1914「帝国思想界の荒廃を論じて本派の護国寺問題に及ぶ」『加持世界』14-7
    • 山口永隆1915「所謂護国寺問題に就て」『加持世界』15-4
    • 荒木良仙1923「護国寺史料募集に就いて」『新興』6-5
    • 高木梢美1926「護国寺大師堂の炎上を惜み且つ思ふ」『新興』9-3
  • 『六大新報』
    • 1941年(昭和16年)8月17日「東京護国寺の夏安居」[241]
    • 1941年(昭和16年)11月「東京護国寺忠霊堂追悼会と太元御修法奉賛暁天会勤行」[242]
    • 1942年(昭和17年)4月「靖国神社臨時大祭に当り護国寺にて法要」[243]
    • 1942年(昭和17年)5月「護国寺の慰霊法要」[244]
    • 1948年(昭和23年)8月「護国寺の伝法灌頂」[245]
    • 1949年(昭和24年)1月25日「東京護国寺本山へ・豊島岡墓地を移管」[246]
    • 1950年(昭和25年)11月「護国寺後任岡本師決定」[247]
    • 1983年(昭和58年)9月「護国寺新梵鐘を謹鋳」[248]
    • 1986年(昭和61年)9月「護国寺新本坊建設」[249]
    • 1988年(昭和63年)11月「護国寺新本坊入仏開眼法要」[250]
    • 1989年(平成1年)6月「護国寺新本坊落慶法要」[251]
    • 1993年(平成5年)10月「護国寺貫首に岡本大僧正」[252]
    • 1999年(平成11年)11月「石畳整備や庭園造園完成・大本山護国寺境内整備」[253]
    • 2000年(平成12年)8月「護国寺四万六阡日」[254]
  • 『高野山時報』
    • 1983年(昭和58年)10月「大本山護国寺重文梵鐘・約三百年ぶり再鋳・祖師御遠忌を記念して」[255](限定)
    • 1984年(昭和59年)9月「豊山派の御遠忌法要・大本山護国寺で厳修」[256](限定)

月光殿関係

  • 一色史彦・石井昭1970「護国寺月光殿について―建築史・建築意匠」『大会学術講演梗概集・計画系』
  • 北脇翔平2009「現場レポート・東京都・重要文化財護国寺月光殿―解体工事の報告(その1)」『文建協通信』
  • 北脇翔平2010「現場レポート・東京都・重要文化財護国寺月光殿―資料調査の報告・面の大きさについて」『文建協通信』
  • 北脇翔平2012「現場レポート・東京都・重要文化財護国寺月光殿―解体調査の報告・欄間について」『文建協通信』
  • 鈴木雅文2012「重要文化財護国寺月光殿に見る近代の移築技術」『木の建築』
  • 小林大康2014『護国寺月光殿』
  • 豊田尭博・藤田香織2016「構造要素の偏在する伝統的木造建築の振動性状に関する研究その1―護国寺月光殿の常時微動測定と固有値解析」

茶道関係

  • 山田勲1986『ある茶人の足跡―護国寺茶会記』[257](限定)
  • 熊倉功夫2006『高橋箒庵と護国寺』
  • 岡本永司2009「茶道本山護国寺」『大法輪』
  • 國貞文隆2014「護国寺―益田孝・團琢磨・池田成彬・高橋義雄―茶の湯を愛した三井財閥の数奇者たち」『東京人』
  • 高橋箒庵著・小林大康編2014『茶道本山記』
  • 田野倉徹也2018「東京・護国寺の茶室群に学ぶ―茶室のイロハ」『淡交』
http://shinden.boo.jp/wiki/%E8%AD%B7%E5%9B%BD%E5%AF%BA」より作成

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