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賀茂御祖神社
出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-) 最終更新:2024年5月18日 (土)
(版間での差分)
(?大宮司・宮司) |
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2024年5月18日 (土) 時点における最新版
賀茂御祖神社 かも みおや じんじゃ | |
概要 | 賀茂神社の総本社。 |
奉斎 | 玉依媛命、賀茂健角身命 (神社由緒書) |
所在地 | 京都府京都市左京区下鴨泉川町59 |
所在地(旧国郡) | 山城国愛宕郡 |
所属(現在) | 神社本庁 |
格式など | 式内社・名神大社・正一位勲一等・山城国一宮・二十二社・朱印地拝領神社・官幣大社・別表神社・勅祭社 |
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目次 |
概要
賀茂御祖神社(かも・みおや・じんじゃ)は、京都府京都市左京区にある、賀茂神社を構成する神社の一つ。下鴨神社(しもがも・じんじゃ)として知られる。主祭神は東本殿の玉依姫命と西本殿の賀茂健角身命(かもたけつぬみのみこと)。子神を祀る賀茂別雷神社(上賀茂神社)とともに賀茂信仰の総本社である。官社(式内社)・名神大社・正一位勲一等・山城国一宮・二十二社・朱印地拝領神社・官幣大社・別表神社・勅祭社。賀茂神社関連旧跡も参照。
歴史
- 神武天皇代:みあれ山に降臨
- 698年(文武2年)3月21日:朝廷、賀茂祭の日の騎射を禁じる(続日本紀)。史料上の初出。
- 702年(大宝2年)4月3日:朝廷、再び賀茂祭の日の騎射を禁じる(続日本紀)。
- 711年(和銅4年)4月20日:朝廷、国司に賀茂祭に毎年臨検するように命じる。続日本紀
- 750年(天平勝宝2年)12月:「賀茂御祖大社」に御戸代田1町を奉献(続日本後紀848年(嘉祥1年)2月条)。下社の史料上の初出。
- 784年(延暦3年)11月:長岡京遷都にともない上下賀茂神社に従二位。続日本紀
- 784年(延暦3年)11月28日:社殿修造
- 793年(延暦12年)2月2日:桓武天皇、壱志濃王らを派遣して平安京遷都を奉告
- 794年(延暦13年)11月:正二位勲一等
- 794年(延暦13年)12月:桓武天皇行幸。
- 806年(大同1年):賀茂祭(葵祭)、勅祭となる。4月中酉日。
- 807年(大同2年)5月3日:正一位。伊勢神宮の継ぐ地位を与えられたという。
- 810年(弘仁1年):有智子内親王を斎王に任命。賀茂斎院の始まり。
- 889年(寛平1年)11月:賀茂臨時祭始まる。11月下酉。
- 971年(天禄2年):摂家による「御賀茂詣」始まる
- 1017年(寛仁1年)11月:後一条天皇行幸。愛宕郡ほとんどを賀茂神社に寄進。
- 1036年(長元9年):後一条天皇の勅で、式年造営を実施したという。
- 1204年(元久1年):最後の賀茂斎院任命。
- 1217年(建保5年):摂津国長洲御厨の開発田を巡って東大寺と対立。
- 1467年(応仁1年):応仁の乱。この頃、賀茂祭断絶。
- 1629年(寛永6年):社殿造営。古例に基づき再興された。
- 1694年(元禄7年)4月:賀茂祭復興。
- 1814年(文化11年):賀茂臨時祭復興。
- 1863年(文久3年):現在の本殿を造営。
- 1863年(文久3年)3月:孝明天皇、行幸。将軍徳川家茂、徳川慶喜が供奉。
- 1868年(明治1年)8月:明治天皇行幸。
- 1871年(明治4年)5月14日:官幣大社に列格。
境内
名称 | エリア | 種別 | 祭神 | 概要 |
---|---|---|---|---|
西御本宮 | 中門内 | 本社 | 賀茂健角身命 | |
東御本宮 | 中門内 | 本社 | 玉依媛命 | |
磐座 | 中門内 | その他 | 東西本宮の間にあるという | |
叉蔵 | 中門内 | その他 | 宝庫。 | |
霊璽社 | 中門内 | 末社 | (表記しない) | 古来、祭神名は表記しないという。印璽社、おしでのやしろとも。印璽が奉納されることも多く、後鳥羽天皇奉納の印璽の印影が現存するという。 |
一言社 | 中門内 | 末社 | ||
一言社西社 | 中門内 | (末社) | 顕国魂神 | |
一言社東社 | 中門内 | (末社) | 大国魂神 | |
二言社 | 中門内 | 末社 | ||
二言社北社 | 中門内 | (末社) | 大物主神 | |
二言社南社 | 中門内 | (末社) | 大国主神 | |
三言社 | 中門内 | 末社 | ||
三言社北社 | 中門内 | (末社) | 志固男神 | |
三言社中社 | 中門内 | (末社) | 大己貴神 | |
三言社南社 | 中門内 | (末社) | 八千矛神 | |
言社権地 | 中門内 | その他 | 言社の仮殿を立てる場所という。 | |
預屋 | 中門内 | その他 | 葵生殿 | |
東御料屋 | 中門内 | その他 | ||
西御料屋 | 中門内 | その他 | 現在は祓殿。 | |
楼門 | 楼門内 | その他 | ||
剣の間 | 楼門内 | その他 | 楼門の西廻廊に剣の間がある。 | |
舞殿 | 楼門内 | その他 | 勅使が御祭文を奏上し、東遊を奉納する殿舎。 | |
神服殿 | 楼門内 | その他 | 近世以降は天皇行幸の際の御所となった。 | |
供御所 | 楼門内 | その他 | ||
三井神社 | 楼門内 | 第三摂社 | 伊賀古夜日売命・賀茂健角身命・玉依媛命 | 祭神は東社に伊賀古夜日売命、中社に賀茂健角身命、西社に玉依媛命。摂社。官社。三所社、三井三所神社、蓼倉里三身社ともいう。末社として諏訪社、小杜社、白髭社がある。河合神社内の三井社とは別神社。近年まで中社に日枝神社(二十二所社)を合祀していた。 |
諏訪社 | 楼門内 | 末社 | 建御方神 | 三井神社末社。 |
小杜社 | 楼門内 | 末社 | 水分神 | 三井神社末社。 |
白鬚社 | 楼門内 | 末社 | 猿田彦神 | 三井神社末社。猿田彦神の別名として大伊之伎命を上げる。近年まで河崎社と斎王神霊社を合祀していた。 |
苔庭の磐座 | 楼門内 | その他 | 三井神社内。不詳。 | |
出雲井於神社 | 楼門内 | 第二摂社 | 建速須佐之男命 | 比良木社、柊社ともいう。摂社。官社。844年(承和11年)、鴨川の西の鴨氏が居住する一帯を「出雲郷」と定められた。1018年(寛仁2年)に出雲郷が上下に分割した時に郷内から現在地に遷座したともいう。1119年(元永2年)11月1日、本宮などが焼失した際、免れた出雲井於神社に本宮御神体が遷された。本殿は1629年(寛永6年)造替の西本宮の社殿を移築。末社として岩本社と橋本社がある。 |
岩本社 | 楼門内 | 末社 | 住吉神 | 和歌の神。出雲井於神社末社。 |
橋本社 | 楼門内 | 末社 | 玉津島神 | 和歌の神。出雲井於神社末社。 |
解除所 | 楼門内 | その他 | 賀茂祭に用いる | |
井上社 | 御手洗池周辺 | 末社 | 瀬織津姫命 | 御手洗社ともいい、合祀した唐崎社の名でも呼ばれる。1196年(建久7年)頃の『鴨社古図』にも記載がある。1470年(文明2年)6月14日、応仁の乱で焼失した唐崎社を合祀した。官祭の解除は唐崎神、氏神の解除は井上神だったが、1694年(元禄7年)4月18日、御蔭祭(御生神事)再興に際して唐崎社も井上社も祭神は同神であるから合祭となった。土用の丑の日にには足付け神事がある。 |
解除所 | 御手洗池周辺 | その他 | 神職の祓所か。 | |
伊勢神宮遥拝所 | 御手洗池周辺 | その他 | 伊勢神宮を遥拝する。 | |
橋殿 | 御手洗池周辺 | その他 | ||
細殿 | 御手洗池周辺 | その他 | ||
井戸跡 | 御手洗池周辺 | その他 | 石が置かれて注連縄で囲われている。 | |
直会殿 | その他 | 大嘗祭の殿舎を下賜されたものという。 | ||
大炊殿 | 大炊殿周辺 | その他 | ||
井戸屋形 | 大炊殿周辺 | その他 | 御井 | |
氷室 | 大炊殿周辺 | その他 | 2022年(令和4年)6月1日再興。 | |
末刀之神地 | 大炊殿周辺 | 末社 | 末刀之神 | 無社殿神地。官社論社。磐座がある(「橋」と呼ばれる)。現在、愛宕社がある場所が旧地ともいう。応仁の乱で焼失し、基壇の磐座のみ大炊殿の近くに移設したという。御薬酒神事、若水神事が行われている。水ごしらえ場、水拵ともいう。官社末刀神社の論社としては松ケ崎の末刀岩上神社もある。 |
御車舎 | 大炊殿周辺 | その他 | 1893年(明治26年)に宮内省主殿寮京都出張所が賀茂祭用施設として建設した。 | |
印納社 | 楼門外西側 | 末社 | 稲倉魂神 | 戦後の創建 |
愛宕社 | 楼門外西側 | 末社 | 火産霊神 | 元は賀茂斎院御所にあった。愛宕社稲荷社相殿。末刀社、奈良社(奈良殿神?)、蓼倉神(贄殿神、酒殿神)の3社があったが、1470年(文明2年)6月14日、賀茂斎院御所とともに焼失。三社を合祀して大炊殿神として御所跡に祀った。1712年(正徳2年)の式年遷宮で同年7月23日、社殿を造営。1777年(安永6年)式年遷宮の際の造替で相殿に丹生神、木船神を祀って愛宕社と称した。祭神の変遷についてはよく分からない。 |
稲荷社 | 楼門外西側 | 末社 | 宇迦之御魂神 | 元は賀茂斎院御所の忌子女庁屋の鎮祭社だった。愛宕社稲荷社相殿。専女社とも。1470年(文明2年)の応仁の乱で焼失。御所旧跡の中島(不詳)で祀られていた。1777年(安永6年)式年遷宮の際に社殿を造営し、稲荷社と称した。 |
祓社 | 楼門外西側 | 末社 | 玉依媛命・賀茂建角身命・祓戸大神 | 戦後の創建 |
相生社 | 鳥居内 | 末社 | 神魂命 | 神魂命は「鴨県主本系」の始祖だという。二本の御神木が一本に結ばれる特異な木がある。1712年(正徳2年)式年遷宮から官営神社となる。 |
連理の賢木 | 鳥居内 | その他 | ||
神宮寺跡 | 馬場 | その他 | 天台宗 | |
雑太社 | 馬場 | 末社 | 神魂命 | 旧鴨社神舘御所の鎮祭社だった。近年まで沢田社(澤田社)と称し祭神は御年神だった。 |
賀茂斎院神霊社 | 馬場 | 末社 | 歴代斎院神霊 | 歴代の斎院を祀る。賀茂斎王歴代斎王神霊社。810年(弘仁1年)頃、賀茂斎王の制度の始まりと共に、鴨社頭にも賀茂斎院御所が設けられたと思われる。『百錬抄』1151年(仁平1年)7月4日条に「一院供養河東御所内中嶋御塔」とあり、斎王を供養する塔があったらしい。応仁の乱で御所は焼失し、新糺池の東側に写った。1949年(昭和24年)社殿の老朽化で白鬚社に合祀した。2018年(平成30年)4月18日に再興した。 |
河崎社 | 馬場 | 末社 | 大伊乃伎神 | 旧鴨社神舘御所の鎮祭社だった。もともとは粟田郷内、現在の田中神社や京都大学あたりの鴨氏の集落に祀られていた。祐兼系の泉の館に祀られていた。館の所在地が河崎という名前だった。応仁の乱で河崎の集落が放火されたとの記録がある。たびたび兵火にあい、1536年(天文5年)7月23日、兵火で焼失。下鴨神社の西側の鴨社解除御所に氏人の移住とともに遷座。1785年(天明5年)鴨社神舘御所旧地に遷座。1921年(大正10年)9月27日、下鴨本通拡張工事のため、新糺池の東側に遷座。1949年(昭和24年)社殿損壊のため白鬚社に賀茂斎院神霊社とともに合祀された。2017年(平成29年)頃、現在地に再興。 |
二十二所社 | 馬場 | 第六摂社 | 鴨氏二十二譜始祖神 | 摂社。近年まで日吉神社と称していた。創建不詳。大伊乃伎命系賀茂氏を祀っていた神という。『鴨社古図』に記載がある。1675年(延宝3年)11月25日、大火で焼失。1708年(宝永5年)3月8日、河合社や神宮寺とともに大火で焼失。この時復興して沢田社と相殿となり、北社が沢田社、南社が日吉社となる。1877年(明治10年)3月21日、摂社に定められた。1949年(昭和24年)損傷倒壊。三井神社中社に合祀する。 |
復元祭祀遺構 | 参道 | その他 | 復元 | |
復元祭祀遺構 | 参道 | その他 | 復元 | |
奈良殿社神地 | 参道 | 末社 | 楢刀自神 | 無社殿神地。奈良の小川と御手洗川が合流する地点の中洲が「舩島」(船島)を磐座として奉斎する。 |
切芝祭場 | 参道 | その他 | ||
唐崎社遥拝所 | 参道 | その他 | 唐崎社旧地を遥拝する。 | |
唐崎社旧地 | 参道 | その他 | 現在の叡電出町柳駅のあたりにあったという。 | |
鴨河合坐小社宅神社(河合神社) | 河合神社域内 | 第一摂社 | 玉依姫命 | 摂社。官社。玉依姫命は東本宮祭神の玉依媛命とは別の神で、神武天皇の母。858年(天安2年)8月19日、「従五位下鴨河合神」が名神となった(文徳実録)。859年(貞観1年)1月27日、従五位上。862年(貞観4年)11月25日、正五位下。897年(寛平9年)12月3日、増階。898年(昌泰1年)3月13日、増階。942年(天慶5年)4月11日、増階。952年(天暦6年)5月16日、増階。1003年(長保5年)3月26日、増階。1017年(寛仁1年)12月2日、正二位。1081年(永保1年)2月10日、増階。1141年(永治1年)7月10日、増階。1185年(文治1年)3月14日、極位。河合神社ともいう。1246年(寛元4年)4月29日、本宮奉幣に際して河合神社にも奉幣するとの命。11月卯日に本宮相嘗祭にあわせて「卯の日の神事」と称して官祭として官幣が奉られていた。1112年(天永3年)10月29日、河合神社の廻廊焼失。11月7日再建。本社の式年遷宮にあわせて河合神社も式年遷宮が行われた。1118年(元永1年)第4回式年遷宮。1348年(正平3年/貞和4年)第15回式年遷宮までは20年に一度の制が行われていたが戦乱で途絶。1629年(寛永6年)の第21回式年遷宮で現在の社殿配置となった。1877年(明治10年)3月21日、内務省により賀茂御祖神社第一摂社と定められる。貴布禰神社が並び、また末社として任部社、六社、三井社があった。 |
貴布禰神社 | 河合神社域内 | 第七摂社 | 高オカミ神 | 1161年(応保1年)『神殿舎屋等之事』に記載がある。1242年(仁治3年)8月27日に造替か。古来、河合社と一体とかんがえられていたようだ。1161年(応保1年)式年遷宮にともない、1162年(応保2年)に造替。1201年(建仁1年)式年遷宮にともない、1218年(建保6年)造替。1242年(仁治3年)式年遷宮にともない、同年造替。現在の社殿は1712年(正徳2年)の第23回式年遷宮にともない造替されたもの。818年(弘仁9年)6月従五位下。843年(承和10年)12月、正五位下。859年(貞観1年)1月21日、従四位上。873年(貞観15年)5月26日、正四位下。1003年(長保5年)〓月26日、正三位。1017年(寛仁1年)11月25日正二位。1081年(永保1年)2月10日、従一位。1141年(永治1年)7月10日、正一位。 |
任部社 | 河合神社域内 | 末社 | 八咫烏命 | 賀茂健角身命の化身。専女社(とうめのやしろ)。小烏明神。炊女、専女(とうめ)、稲女、多宇妻(とうめ)、忌子女(いんこのめ)、雑仕女(ぞうしめ)などの女性神職が奉仕した。1302年(乾元1年)式年遷宮後に大火で焼失。1319年(元応1年)遷宮の前に1316年(正和5年)12月21日に河合神社が再建された。 |
六社 | 河合神社域内 | 末社 | 六社(むつのやしろ)。六社として一つの神社の扱いのようだ。六社は1712年(正徳2年)第23回式年遷宮から相殿となった。 | |
六社・諏訪社 | 河合神社域内 | (末社) | 建御方神 | |
六社・衢社 | 河合神社域内 | (末社) | 八衢毘古神・八衢毘売神 | |
六社・稲荷社 | 河合神社域内 | (末社) | 宇迦之御魂神 | |
六社・竈神 | 河合神社域内 | (末社) | 奥津日子神・奥津比売神 | |
六社・印社 | 河合神社域内 | (末社) | 霊璽 | |
六社・由木社 | 河合神社域内 | (末社) | 少彦名命 | |
三井社 | 河合神社域内 | 末社 | 玉依日売命・伊賀古夜比売命・賀茂健角身命 | 祭神は東殿が玉依日売命、西殿が伊賀古夜比売命、中殿が賀茂健角身命。蓼倉郷の総社として祀られていた賀茂社の分社。1712年(正徳2年)第23回式年遷宮から相殿となった。通称は三塚社。摂社の三井神社とは別の神社。 |
御蔭神社 | 境外 | 第五摂社 | 玉依媛命荒魂・賀茂健角身命荒魂 | 京都府京都市左京区上高野東山。境外摂社。官社「出雲高野神社」論社。御蔭祭が行われている。御生山、日蔭山。1758年(宝暦8年)8月22日、台風の高野川が氾濫し社殿流出。1830年(天保1年)地震被災。1835年(天保6年)式年遷宮に合わせて30m東の台地に移転して同年3月11日再建。 |
賀茂波爾神社 | 境外 | 第四摂社 | 波爾安日子神・波爾安日女神 | 京都府京都市左京区高野上竹屋町。境外摂社。官社。赤の宮神社。「波爾」は現在の高野川の古名「埴河」のことという。1877年(明治10年)3月21日、第四摂社に定められた。1878年(明治11年)2月25日、京都府より社名「賀茂波爾神社」と定められた。 |
稲荷社 | 境外 | 末社 | 宇迦之御魂神 | 京都府京都市左京区高野上竹屋町。賀茂波爾神社末社。1679年(延宝7年)勧請。 |
孝明天皇明治天皇旧跡 | 境外 | その他 | ||
斎院跡 | 境外 | その他 | ||
鴨社神舘御所 | その他 | 社務所。現在、行幸の時の御座所や勅使殿としても使われる。 | ||
鴨社公文所 | その他 | |||
秀穂舎 | その他 |
- 泉川
- 瀬見の小川
- 奈良の小川
画像
式年遷宮
21年ごとに式年遷宮を行う
回 | 実施年 | 周期 | 事項 |
---|---|---|---|
崇神天皇代 | |||
雄略天皇代 | |||
継体天皇代 | |||
653年(白雉4年) | |||
677年(天武6年) | |||
765年(天平神護1年) | |||
784年(延暦3年) | |||
(898年(昌泰1年)) | |||
1020年(寛仁4年)10月14日 | |||
<1036年(長元9年)> | |||
1 | 1056年(天喜4年) | 20 | |
2 | 1077年(承暦1年) | 21 | |
3 | 1098年(承徳2年)7月9日 | 21 | |
4 | 1118年(元永1年)4月27日 | 20 | |
1119年(元永2年)12月22日 | |||
5 | 1141年(永治1年)11月25日 | 23 | |
6 | 1161年(応保1年)9月16日 | 20 | |
7 | 1181年(養和1年)10月22日 | 20 | |
8 | 1201年(建仁1年)12月 | 20 | |
9 | 1222年(貞応1年)8月 | 21 | |
10 | 1242年(仁治3年)8月 | 20 | |
11 | 1262年(弘長2年)8月 | 20 | |
12 | 1282年(弘安5年)8月 | 20 | |
13 | 1302年(乾元1年)11月または12月 | 20 | |
14 | 1322年(元亨2年)12月 | 20 | |
15 | 1348年(正平3年/貞和4年)8月24日 | 26 | |
16 | 1415年(応永22年)8月 | 67 | |
17 | 1437年(永享9年)12月5日 | 22 | |
1471年(文明3年)10月23日 | |||
18 | 1493年(明応2年)2月 | 56 | |
19 | 1515年(永正12年)2月 | 22 | |
20 | 1581年(天正9年)5月21日? | 66 | |
21 | 1629年(寛永6年)4月5日 | 48 | 大規模な造営。 |
22 | 1679年(延宝7年)9月17日 | 50 | 西本宮本殿が1712年(正徳2年)の遷宮で宝塔寺七面宮として移築された。 |
23 | 1712年(正徳2年)9月3日 | 33 | |
24 | 1741年(寛保1年)9月17日 | 29 | |
25 | 1777年(安永6年)8月13日 | 36 | |
26 | 1801年(享和1年)12月10日 | 24 | 1835年(天保6年)に聖護院熊野神社本殿として移築された。 |
27 | 1835年(天保6年)3月11日 | 34 | 1869年(明治2年)に菅大臣神社本殿として移築された。 |
28 | 1863年(文久3年)12月12日 | 28 | |
29 | 1891年(明治24年)9月? | 28 | 以後修造をもって遷宮とする。 |
30 | 1914年(大正3年)5月 | 23 | |
31 | 1937年(昭和12年)5月 | 23 | |
32 | 1973年(昭和48年)4月 | 36 | |
33 | 1994年(平成6年)9月 | 21 | |
34 | 2015年(平成27年)4月27日 | 21 |
組織
大宮司・宮司
- 久我建通(1815-1903)<1872-?>:公卿。内大臣。一条忠良の子。和宮降嫁に尽力。1872年(明治5年)6月15日、賀茂別雷神社大宮司となり、賀茂御祖神社大宮司、松尾大社大宮司を兼務。6月18日、貴船神社宮司を兼務。(略歴は、賀茂別雷神社#組織を参照)
- 岡本経春(1819-1880)<>:旧社家。1819年(文政2年)生。1874年(明治7年)9月14日、少教正。賀茂別雷神社少宮司を経て賀茂御祖神社大宮司。1880年(明治13年)死去。著書『三則示蒙』。
- 木場清生(1817-1891)<>:鹿児島藩士。1817年(文化14年)生。大久保利通や西郷隆盛と交際。維新後は大阪府判事。石清水八幡宮宮司、龍田大社宮司。1891年(明治24年)死去。
- 本山茂任(1826-1887)<1878-1884>:高知藩出身の志士。内務官僚・神職。1878年(明治11年)1月23日から1884年(明治17年)10月14日まで賀茂御祖神社宮司。(略歴は、白峰神宮#組織を参照)
- 西洞院信愛(1846-1904)<>:子爵。西洞院信堅の子。1846年(弘化3年)生。1891年(明治24年)4月16日から1898年(明治31年)10月まで平野神社宮司。松尾大社宮司。敢国神社宮司。1904年(明治37年)6月6日死去。
- 六条有容(1814-1890)<?-1889>:1887年(明治20年)4月5日、賀茂別雷神社宮司を本務として賀茂御祖神社宮司と梨木神社宮司を兼務(官報。制度改正による再任と思われる)。賀茂別雷神社宮司と賀茂御祖神社宮司は1889年(明治22年)4月26日まで(官報)。(略歴は、賀茂別雷神社#組織を参照)
- 伏原宣足(1845-1930)<1889-1890>:子爵。1889年(明治22年)4月26日、賀茂別雷神社宮司を本務として賀茂御祖神社宮司を兼務。1890年(明治23年)7月17日、両社宮司退任。(略歴は、賀茂別雷神社#組織を参照)
- 岡部光澄(1832-1906)<1902-1906>:長門国出身。1832年(天保3年)生。1873年(明治6年)広旗八幡宮祠官。1874年(明治7年)上領八幡宮祠掌。1876年(明治9年)2月25日、忌宮神社祠官兼務。1876年(明治9年)10月18日、長門・住吉神社権宮司。1878年(明治11年)6月24日住吉神社宮司。1881年(明治14年)10月5日貫前神社宮司。1886年(明治19年)7月17日安仁神社宮司。1887年(明治20年)9月5日美作・中山神社宮司。1889年(明治22年)4月19日、出羽三山神社宮司。1892年(明治25年)1月23日退任。1897年(明治30年)7月1日、香椎宮宮司。1898年(明治31年)10月19日大鳥神社宮司。1902年(明治35年)2月3日から1906年(明治39年)12月11日まで賀茂御祖神社宮司。同年死去か。
- 祝儀麿(生没年不詳)<1906-1923>:1898年(明治31年)10月、砥鹿神社宮司。1903年(明治36年)広田神社宮司。同年大山祇神社宮司。1906年(明治39年)12月11日、賀茂御祖神社宮司(官報)。1923年(大正12年)死去か。
- 金子吉祇(1861-1924)<1923->:越後出身。乙子神社社司金子豊雄の子。1861年(文久1年)生。寺田徳裕に学ぶ。20歳で東京に出て中村敬宇の同仁社に入り、国学を池辺義象に学ぶ。新潟白山神社社司を1907年(明治40年)頃まで務めた。1906年(明治39年)8月13日、西寒多神社宮司。1909年(明治42年)11月19日、射水神社宮司。1915年(大正4年)3月、豊国神社宮司。1918年(大正7年)気比神宮宮司。1923年(大正12年)賀茂御祖神社宮司。1924年(大正13年)5月12日死去。64歳。金子長吾。著書は『上宮聖徳法王帝説新注』。 (『新潟市史』[1])
- 田村晴胤(1890-1945)<1924-1929>:山口県出身。1890年(明治23年)生。1915年(大正4年)神宮皇学館卒。松尾大社禰宜を経て1919年(大正8年)8月18日護王神社宮司。1924年(大正13年)6月9日、賀茂御祖神社宮司。1929年(昭和4年)3月9日、平野神社宮司。1931年(昭和6年)12月10日、弥彦神社宮司。1936年(昭和11年)1月、生田神社宮司。1937年(昭和12年)4月1日、台湾神社宮司。正五位。1945年(昭和20年)7月20日死去。
- 森津倫雄(1877-1959)<1929-1933>:1929年(昭和4年)4月、賀茂御祖神社宮司。1933年(昭和8年)4月、石上神宮宮司。(略歴は石上神宮#組織を参照)
- 矢野豁(1881-1945)<1933-1936>:愛媛県出身の神職。1933年(昭和8年)4月4日、賀茂御祖神社宮司。1936年(昭和11年)12月19日賀茂別雷神社宮司。(略歴は、玉前神社#組織を参照)
- 神尾清澄(1885-1943)<1936-1943>:滋賀県出身。神宮皇学館卒。1885年(明治18年)生。陸軍歩兵伍長。1916年(大正5年)8月8日、伊佐須美神社宮司。1918年(大正7年)7月8日、樺太神社宮司。1929年(昭和4年)3月5日、石上神宮宮司。1933年(昭和8年)4月4日、宮崎神宮宮司。1936年(昭和11年)12月19日、賀茂御祖神社宮司。在職で1943年(昭和18年)2月22日死去。
- 大関春雄(1890-1948)<1943-1948>:1890年(明治23年)生。1920年(大正9年)国学院大学高等師範部卒。諏訪大社に奉職。1925年(大正14年)2月12日結城神社宮司。1927年(昭和2年)3月31日、出雲大社権宮司。1930年(昭和5年)12月26日掌典。1940年(昭和15年)8月10日松尾大社宮司。1943年(昭和18年)3月27日、賀茂御祖神社宮司。1948年(昭和23年)4月28日、在職で死去。
- 葉室直躬(1895-1971)<1960-1971>:伯爵。1895年(明治28年)生。1925年(大正14年)明治大学卒。1960年(昭和35年)賀茂御祖神社宮司。就任を巡って神社本庁を離脱するが1965年(昭和40年)に復帰。1971年(昭和46年)12月16日死去。76歳。
- 山田文雄(?-1975)<1972-1975>:1930年(昭和5年)国学院大学神道部卒。梅宮大社、護王神社、伏見稲荷大社に奉仕。1945年(昭和20年)賀茂御祖神社禰宜。1948年(昭和23年)権宮司。1972年(昭和47年)3月3日宮司。1975年(昭和50年)2月1日、在職で死去。
- 鈴木義一(1907-2003)<1978-1990>:愛知県出身。1907年(明治40年)生。1932年(昭和7年)国学院大学道義学科卒。1933年(昭和8年)住吉大社主典。1939年(昭和14年)坐摩神社禰宜。1947年(昭和22年)坐摩神社権宮司1948年(昭和23年)大阪府神社庁参事。1956年(昭和31年)神宮教学司。1958年(昭和33年)大浜熊野大神社宮司兼務。1963年(昭和38年)神宮禰宜。1978年(昭和53年)3月20日から1990年(平成2年)3月31日まで賀茂御祖神社宮司。1980年(昭和55年)京都府神社庁副庁長。1983年(昭和58年)11月1日から1986年(昭和61年)10月1日まで平野神社宮司を兼務。弟に鈴木日出年がいる。
- 河辺三郎(1913-)<1990-1992>:東京出身。1913年(大正2年)生。1936年(昭和11年)国学院大学神道部卒。大洗磯前神社、酒列磯前神社、伊豆山神社に奉仕。1943年(昭和18年)から1962年(昭和37年)までは実業を営む。1962年(昭和37年)賀茂御祖神社禰宜、1971年(昭和46年)安房神社復興に従事。1974年(昭和49年)6月1日、安房神社宮司。1990年(平成2年)3月31日から1992年(平成4年)3月25日まで賀茂御祖神社宮司。
- 鳥居清三郎(1922-2003)<1992-2002>:御金神社宮司。1922年(大正11年)生。1944年(昭和19年)国学院大学専門部卒。北野神社、八坂神社に奉職。1979年(昭和54年)賀茂御祖神社権宮司。1992年(平成4年)3月26日から2002年(平成14年)まで賀茂御祖神社宮司。2003年(平成15年)3月23日死去。80歳。
- 新木直人(1937-)<2002->:京都出身。1937年(昭和12年)生。1958年(昭和33年)京都国学院卒。大阪外国語大学別科修了。道明寺天満宮、生国魂神社に奉仕。1963年(昭和38年)賀茂御祖神社に奉仕。1992年(平成4年)権宮司。2002年(平成14年)宮司。
少宮司・権宮司
- 角田忠行(1834-1918)<1873-1874>:1873年(明治6年)4月13日から1874年(明治7年)まで熱田神宮少宮司。(略歴は熱田神宮#組織を参照)
- 黒神直臣()<>:
- 山田文雄()<1948-1972>:1948年(昭和23年)2月19日権宮司。同年5月28日宮司代務者。1972年(昭和47年)1月12日宮司代務者。3月3日宮司。
- 堀熊弥彦()<1974-1975>:1974年(昭和49年)8月10日権宮司。1975年(昭和50年)2月28日宮司代務者。1978年(昭和53年)6月15日、平野神社特命宮司。
- 鳥居清三郎()<1978->:八坂神社禰宜を経て1978年(昭和53年)12月25日、賀茂御祖神社権宮司。のち宮司。
- 新木直人()<1992->:1992年(平成4年)5月1日権宮司。
- 宮暘()<2002->:2002年(平成14年)権宮司。
- 内海明紀
資料
上七社 | 1伊勢神宮 | 2石清水八幡宮 | 3賀茂神社 上賀茂神社・下鴨神社 | 4松尾大社 | 5平野神社 | 6伏見稲荷大社 | 7春日大社 | ||
中七社 | 8大原野神社 | 9大神神社 | 10石上神宮 | 11大和神社 | 12広瀬大社 | 13龍田大社 | 14住吉大社 | ||
下八社 | 15日吉大社 | 16梅宮大社 | 17吉田神社 | 18広田神社 | 19八坂神社 | 20北野天満宮 | 21丹生川上神社 上社・中社・下社 | 22貴船神社 |