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越後・本誓寺

出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-) 最終更新:2023年6月18日 (日)

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本誓寺(ほんせいじ)は、新潟県上越市(越後国頸城郡)越後高田にある、蓮如旧跡の伝統を継承する浄土真宗寺院。「笠原御坊」として知られる。真宗大谷派。「笠原本誓寺」「笠原山本誓寺」。磯部六寺の一つ。浄興寺真宗大谷派高田別院とともに越後高田城下の寺町を代表する寺院。真宗大谷派の別院寺院だった。別格別院だった(大谷派寺院録)。(参考:同名寺院本誓寺


目次

由緒

井上満政という武士が出家し、下総国相馬郡布川(現・茨城県北相馬郡利根町布川)(現在の利根川左岸・北岸)で寺院を創建。教念と名乗った。当初は真言宗真宗寺だったが、教念は稲田の草庵で親鸞に会い、帰依した。教念は、親鸞の高弟二十四輩第9番の善性房の縁者とされ、そのため、当寺は北信上越地方にある善性房(磯部御坊勝願寺)系統のいわゆる磯部六寺(磯部六カ寺)の一つとされる。


歴史

7世性順のとき、信濃国高井郡笠原(現・長野県中野市笠原)に移り、ここで蓮如が訪ねてきて「本誓寺」に改称した。「笠原御坊」と呼ばれるようになる。旧地は「散法院」という地にあったといい、現在の式内笠原神社の近くと思われ、一般的に神祇信仰を否定する浄土真宗寺院にも関わらず、同神社の神宮寺であったという。

第10世超賢上杉謙信に協力したため、越後布教を許可され、加賀国小山(尾山、現在の石川県金沢市)を経て、上杉家居城の越後国頸城郡高田の春日山城下に移転した。超賢は、川中島合戦にも上杉軍として従軍し、また大坂の石山合戦では、上越地方の門徒から徴収した金品を送ったり、門徒を徴兵し戦地に送り込んだりして、石山本願寺軍を大きく支えた。

越後高田では当初、春日山城東麓にあった。上杉家のあとに入った堀家が直江津港近くに築城しようとすると寺地を求められて譲ったという伝承があり(「越後本誓寺由緒鑑」)、このときには旧福島城の位置(現・市立古城小学校の地)にあったことになる。「旧・本誓寺町」(現・東本町4丁目)に移転し、松平忠輝の高田開府に当って元寺町に移り、寛文年間に高田城の西北1.8kmにある下寺町の現在地に移った。

宝暦10年(1760)の寺町大火で被災した。 「川越の名号」を所蔵。

当寺の門徒が集団移住した栃木県真岡市(下野国芳賀郡真岡郷)に当寺より別れた同名の寺院がある。

組織

歴代住職

真宗年表より。同書には空白の部分がある。 本誓寺系譜[1]

世数 法号 法諱 院号 生没年 在職年 略歴
1 教念 1168-1256 1256年(康元1年)12月18日死去。89歳。
2 教順 1215-1292 教念の子。1292年(正応5年)3月5日死去。78歳(58とも)。
3 顕順 1248-1329 教順の子。1329年(元徳1年)6月2日死去。82歳(89とも)。
4 順恵 1287-1367 顕順の子。1367年(貞治6年)2月19日死去。81歳。
5 玄隆 1319-1388 順恵の子。1388年(嘉慶2年)5月21日死去。70歳。
6 誠円 1340-1403 玄隆の子。1403年(応永10年)1月9日死去。64歳。
7 性順 1377-1440 誠円の子。1440年(永享12年)9月7日(10日とも)死去。64歳(59とも)。
8 性善 1405-1467 性順の子。1467年(応仁1年)4月11日死去。63歳。
9 性祐 1453-1546 性善の子。1546年(天文15年)8月3日死去。94歳。
10 超賢 1511-1603 性祐の子。上杉謙信、上杉景虎に仕える。加賀を経て越後高田に移る。1603年(慶長8年)5月19日死去。93歳。15世とも。
11 賢乗 覚乗院 1568-1616 超賢の孫。父の賢性は早世した。1616年(元和2年)1月19日死去。49歳。覚乗院。覚蔵院。
12 宣英 理明院 1599-1652 賢乗の子。室は教如娘の玄耀院宣由。1599年(慶長4年)生。1637年(寛永14年)巡讃。1652年(承応1年)3月6日死去。54歳。理明院。
13 宣継 常称院 1623-1706 四条家出身。宣英の婿養子。四辻季継の子。1623年(元和9年)生。1640年(寛永17年)2月11日得度、同月素絹、巡讃。6月3日法橋。1706年(宝永3年)10月6日死去。84歳。知足。常称院と号す。
14 一祐 清浄院 ?-1702 宣継の子。室は白川照蓮寺琢心娘(琢晴の娘とも。琢恵の娘とも)。1683年(天和3年)3月5日得度。即座。民部卿。御連枝。1702年(元禄15年)5月26日死去。清浄院。著書『本誓寺由緒鑑』。
15 一円 普照院 ?-1711 一祐の長男。1697年(元禄10年)得度。即座。1711年(正徳1年)3月2日死去。普照院。民部卿。
16 真祐 信樹院 ?-1724 一祐の次男。室は教行寺一誓の娘。1712年(正徳2年)得度。即座。1724年(享保9年)助音。宰相。1724年(享保9年)12月18日死去。信樹院。
17 真慧 性〓 誠諦院 1720-1766 井波瑞泉寺13世。従如の実弟。真祐の娘婿。性〓または性継。貫騰。大和教行寺出身。1745年(延享2年)2月15日、連枝となる。1750年(寛延3年)井波瑞泉寺入院。1766年(明和3年)7月19日死去。47歳。誠諦院と号す。(〓は「糸貴」)(略歴は真宗大谷派井波別院#組織を参照)
18 〓〓 真宗年表では空白。
19 従祐 超継 誠心院 1746-1793 井波瑞泉寺14世。大和教行寺を兼務。真慧の子。1746年(延享3年)生。1793年(寛政5年)8月7日死去。48歳。超継。誠心院、蘭台と号す。(略歴は真宗大谷派井波別院#組織を参照)
20 乗円 遍祐 演暢院 1766-? 従祐の長男。遍祐。1766年(明和3年)生。幼名は於佐丸。1778年(安永7年)得度。即座。二字を賜う。1784年(天明4年)導師。1792年(寛政4年)2月29日から1797年(寛政9年)12月29日までと1801年(享和1年)7月1日から1806年(文化3年)9月21日まで本山の役を務めた。演暢院と号す。菩山、冬日堂とも号す。民部卿。
21 朗継 達昭 誠言院 生没年不詳 乗円の子。達昭。達照。誠言院。准連枝。春昭と号す。
藤原朗開 誠浄院 1822-1896 船場本徳寺達照(朗継とは別人か)の七子。1822年(文政5年)生。室は浄興寺娘。1834年(天保5年)得度。金沢専光寺に寄寓し法嗣となるが本誓寺住職となる。寺務を勝尊に譲るも越後に滞在。1876年(明治9年)金沢光徳寺別邸に隠居。時計の収集家。1894年(明治27年)11月27日准上座。12月14日、巡讃・裹頭。1896年(明治29年)3月25日死去。75歳。誠浄院と号す。(真宗年表になし)[2]
22 大谷勝尊 厳性 摂光院 1858-1913 大谷光勝の七男。朝鮮開教に尽力。連枝。八尾別院住職。1858年(安政5年)生。1913年(大正2年)3月24日死去。厳性。摂光院。(真宗年表では空白)
23 〓〓 真宗年表では空白。
24 月見覚了 1864-1923 白川党の一人。1864年(元治1年)生。1895年(明治28年)東京帝国大学漢文科卒。1896年(明治29年)清沢満之や稲葉昌丸らと共に京都白川村に籠居。教界時言社を設立。1897年(明治30年)本山改革を唱えて除名。1914年(大正3年)真宗大谷大学教授。1915年(大正4年)阿部恵水内局に入局。1920年(大正9年)稲葉昌丸内局で参務となる。1923年(大正12年)4月7日死去。60歳。直心院。
北方穆 生没年不詳 兼務。金沢常福寺住職。(真宗年表になし)
25 月見崇 1905-1968 1905年(明治38年)生。1930年(昭和5年)大谷大学文学部人文科卒。1968年(昭和43年)1月死去。
26 岡本賢栄 生没年不詳

資料

  • 「本誓寺記」[3]
  • 「本誓寺由緒鑑」[4]
  • 本誓寺文書[5]
  • 大場厚順1979「笠原本誓寺について」[6]
  • 由谷裕哉2008「磯部六ヶ寺の伝承」

ほか

http://shinden.boo.jp/wiki/%E8%B6%8A%E5%BE%8C%E3%83%BB%E6%9C%AC%E8%AA%93%E5%AF%BA」より作成

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