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越後・来迎寺
出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-)
越後・来迎寺
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'''来迎寺'''(らいごうじ)は、新潟県十日町市川原町(越後国魚沼郡)にある[[時宗]]寺院。元は[[時宗の本山寺院|時宗の准檀林]]。引接院と号す。山号は放光山。'''小森沢来迎寺'''、'''中条来迎寺'''、'''十日町来迎寺'''、'''妻有来迎寺'''。(参考:同名寺院[[来迎寺]]) ==歴史== *1288年(正応1年)8月:[[一遍]]が中条村団子島(新潟県十日町市中条)に創建。田川山聖衆院来迎寺と称す。長尾家が帰依した。原村(新潟県十日町市高山?)に移転。(中魚沼郡風土志) *1491年(延徳3年):守護上杉房定が松龍軒という僧侶を来迎寺住職に任命(長尾能景遵行状)。この時点では「美佐島郷」(新潟県南魚沼市美佐島か。)にあった。 *1658年(万治1年):13世長玄が現在の河原町に移転。放光山引接院来迎寺と称す。(中魚沼郡風土志では1839年(天保10年)のことで36世長玄とする) *1679年(延宝7年):本堂再建 *1682年(天和2年):10石8斗を除地とされた。(中魚沼郡風土志では1682年(天和2年)とする) *1740年(元文5年)6月21日:19世覚阿泰元が梵鐘を鋳造 *1782年(天明2年)6月23日:巡教中の[[善光寺大勧進]]79世慈薫が来迎寺で病み客死した[https://dl.ndl.go.jp/pid/6070118/1/3][https://dl.ndl.go.jp/pid/2209381/1/90]。 *1862年(文久2年):現在の本堂などを再建 *1897年(明治30年)10月:原村の「来迎寺屋鋪」の堂宇にあった阿弥陀仏が奉納された。(中魚沼郡風土志) *2012年(平成24年):本堂修復 (ウェブサイト、日本歴史地名大系、中魚沼郡風土志[https://dl.ndl.go.jp/pid/9537695/1/77]) ==境内== *本堂 *鐘楼 *愛宕堂 *末社:不動明王、弁財天、稲荷大明神 ==組織== ===歴代住職=== {|class="wikitable" |+ !style="width:5%;"|世数 !style="width:10%;"|名 !style="width:10%;"|生没 !style="width:10%;"|在職 !style="width:65%;"|略歴 |- |1 |[[一遍]] |1234-1289 |1288 | |- |2 | |生没年不詳 |不詳 | |- |3 | |生没年不詳 |不詳 | |- |4 | |生没年不詳 |不詳 | |- |5 | |生没年不詳 |不詳 | |- |6 | |生没年不詳 |不詳 | |- |7 | |生没年不詳 |不詳 | |- |8 | |生没年不詳 |不詳 | |- |9 | |生没年不詳 |不詳 | |- |10 | |生没年不詳 |不詳 | |- |11 | |生没年不詳 |不詳 | |- |12 |覚阿 |生没年不詳 |不詳 |1618年(元和4年)10月3日死去? |- |13 |長玄 |生没年不詳 |~1658~ |1658年(万治1年)現在地に移転。1679年(延宝7年)死去。 |- |14 | |生没年不詳 |不詳 | |- |15 |其阿玄茂 |生没年不詳 |不詳 |興徳院。1719年(享保4年)12月17日死去? |- |16 | |生没年不詳 |不詳 | |- |17 | |生没年不詳 |不詳 | |- |18 | |生没年不詳 |不詳 | |- |19 |覚阿泰元 |生没年不詳 |~1740~ |1740年(元文5年)6月21日の梵鐘銘文がある[https://dl.ndl.go.jp/pid/3008965/1/177]。 |- |20 |白典 |生没年不詳 |~1769~ |1769年(明和6年)伽藍再建[https://kojyosikyo.main.jp/Tookamati-C/Jonokosi-Jo/Jonokosi-Jo.htm] |- |21 |其阿祐善 |生没年不詳 |不詳 |桂光院。1792年(寛政4年)10月10月死去? |- |22 |梵阿忍了 |生没年不詳 |~1787~ |等覚庵。1787年(天明7年)在職[https://dl.ndl.go.jp/pid/4424055/1/128]。1791年(寛政3年)3月15日死去? |- |23 |其阿白法 |生没年不詳 |~1792~ |1792年(寛政4年)8月在職[https://dl.ndl.go.jp/pid/4424055/1/123]。 |- |24 | |生没年不詳 |不詳 | |- |25 | |生没年不詳 |不詳 | |- |26 | |生没年不詳 |不詳 | |- |27 | |生没年不詳 |不詳 | |- |28 |泉徹 |生没年不詳 |~1854~ |1854年(安政1年)在職[https://dl.ndl.go.jp/pid/4424055/1/125]。1870年(明治3年)6月24日在職[https://dl.ndl.go.jp/pid/4424045/1/86]。 |- |29 | |生没年不詳 |不詳 | |- |30 |河野察龍 |1825-1906 |1888-1890 |他阿尊龍。其阿。遊行上人62世。藤沢上人45世。1879年(明治12年)から1889年(明治22年)まで来迎寺住職[https://dl.ndl.go.jp/pid/4424047/1/80](1888年(明治21年)から1890年(明治23年)までとも[https://dl.ndl.go.jp/pid/4413841/1/18])。30代と称す[https://dl.ndl.go.jp/pid/4424055/1/125]。 |- |31 |稲葉覚道 |1833-1911 |1890-1904 |他阿尊純。遊行上人63世。藤沢上人46世。1890年(明治23年)10月から1904年(明治37年)5月まで来迎寺住職[https://dl.ndl.go.jp/pid/2992407/1/321][https://dl.ndl.go.jp/pid/4424047/1/83]。 |- |32 |菊地快住 |生没年不詳 |1904- |其阿。鶴岡長泉寺住職。教導職権中講義[https://dl.ndl.go.jp/pid/6072474/1/82]。のち中講義[https://dl.ndl.go.jp/pid/9538548/1/464。1904年(明治37年)来迎寺住職に就任か[https://dl.ndl.go.jp/pid/4424047/1/82]。1908年(明治41年)3月15日、臨時に院代に命じられる[https://dl.ndl.go.jp/pid/4424047/1/83]。1917年(大正6年)以前に正法寺住職[https://dl.ndl.go.jp/pid/1913792/1/129]。桂光院。 |- |33 |河野礼道 |生没年不詳 |不詳 |福井県出身。俗姓は堀内。[https://dl.ndl.go.jp/pid/4424047/1/76]。1891年(明治24年)4月、山形光明寺49世[https://dl.ndl.go.jp/pid/4424047/1/77][https://dl.ndl.go.jp/pid/4424047/1/88]。1913年(大正2年)頃在職[https://dl.ndl.go.jp/pid/4424055/1/125]。桂光院。 |- |34 |河野文乗 |1877- |1924- |其阿文乗。福井県出身。河野礼道の子。1877年(明治10年)生。1909年(明治42年)早稲田大学哲学科卒。同年山形光明寺住職。時宗宗学林教師。1922年(大正11年)以前に十日町来迎寺執事[https://dl.ndl.go.jp/pid/918817/1/39]。1924年(大正13年)来迎寺住職[https://dl.ndl.go.jp/pid/1213936/1/314]。宗議会議長。十日町教育会長[https://dl.ndl.go.jp/pid/1186291/1/287]。34世と称す[https://dl.ndl.go.jp/pid/4424055/1/124]。 |- |35 |竹田賢随 |1877-? |不詳 |法阿賢随。福井県出身。1877年(明治10年)生[https://dl.ndl.go.jp/pid/1914413/1/309](1882年(明治15年)生[https://dl.ndl.go.jp/pid/2976935/1/36]は誤りか)。1889年(明治22年)時宗宗学林卒業(第3期)。1902年(明治35年)山形市遍照寺住職。1914年(大正3年)時宗教務院執事、総本山役員。宗議会議員。1915年(大正4年)11月、財団法人時宗総本山護持会理事[https://dl.ndl.go.jp/pid/2953117/1/18]。[https://dl.ndl.go.jp/pid/4424055/1/124]。1971年(昭和46年)時点で95歳[https://dl.ndl.go.jp/pid/4424055/1/128]。35世と記す[https://dl.ndl.go.jp/pid/4424055/1/124]。 |- |36 |小林賢秀 |生没年不詳 |不詳 |其阿賢秀。友松円諦の真理運動に参加[https://dl.ndl.go.jp/pid/2315505/1/8]。十日町市教育委員会副委員長[https://dl.ndl.go.jp/pid/1692758/1/317]。保護司。1983年(昭和58年)勲五等瑞宝章[https://dl.ndl.go.jp/pid/12285611/1/82]、この時点で70歳[https://dl.ndl.go.jp/pid/9539267/1/34]。 |- |37 |小林賢有 |1946-2021 |不詳 |1946年(昭和21年)生。東洋大学法学部卒。2021年(令和3年)死去。75歳。著書『収と放を繰り返す宇宙と私たち』『包み文化の日本人』。 |- |38 |小林弘明 | | | |} ==資料== *「平成七年度時宗文化財調査報告・絵画・来迎寺」[https://dl.ndl.go.jp/pid/4424055/1/123] *「平成七年度時宗文化財調査報告・書跡・来迎寺」[https://dl.ndl.go.jp/pid/4424055/1/126] *1987『市史リポートとおかまち3』 *小林賢有1996「来迎寺略縁起」 *2003『社寺史料研究5』 *1992『十日町市史・古代中世』 *1995『十日町市史・通史編』 [[category:新潟県]]
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