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越後・来迎寺
出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-)
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'''来迎寺'''(らいごうじ)は、新潟県十日町市にある[[時宗]]寺院。元は[[時宗の本山寺院|時宗の准檀林]]。新潟県十日町市川原町823甲。(参考:同名寺院[[来迎寺]]) | '''来迎寺'''(らいごうじ)は、新潟県十日町市にある[[時宗]]寺院。元は[[時宗の本山寺院|時宗の准檀林]]。新潟県十日町市川原町823甲。(参考:同名寺院[[来迎寺]]) | ||
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+ | ==歴史== | ||
+ | *1288年(正応1年)8月:一遍が中条村団子島(新潟県十日町市中条)に創建。田川山聖衆院来迎寺と称す。長尾家が帰依した。原村(新潟県十日町市高山?)に移転。(中魚沼郡風土志) | ||
+ | *1491年(延徳3年):守護上杉房定が松龍軒という僧侶を来迎寺住職に任命(長尾能景遵行状)。この時点では「美佐島郷」(新潟県南魚沼市美佐島か。)にあった。 | ||
+ | *1658年(万治1年):13世長玄が現在の河原町に移転。放光山引接院来迎寺と称す。(中魚沼郡風土志では1839年(天保10年)のことで36世長玄とする) | ||
+ | *1679年(延宝7年):本堂再建 | ||
+ | *1682年(天和2年):10石8斗を除地とされた。(中魚沼郡風土志では1682年(天和2年)とする) | ||
+ | *1740年(元文5年)6月21日:19世覚阿泰元が梵鐘を鋳造 | ||
+ | *1782年(天明2年)6月23日:巡教中の善光寺大勧進79世慈薫が来迎寺で病み客死した[https://dl.ndl.go.jp/pid/6070118/1/3][https://dl.ndl.go.jp/pid/2209381/1/90]。 | ||
+ | *1862年(文久2年):現在の本堂などを再建 | ||
+ | *1897年(明治30年)10月:原村の「来迎寺屋鋪」の堂宇にあった阿弥陀仏が奉納された。(中魚沼郡風土志) | ||
+ | *2012年(平成24年):本堂修復 | ||
+ | (ウェブサイト、日本歴史地名大系、中魚沼郡風土志[https://dl.ndl.go.jp/pid/9537695/1/77]) | ||
+ | ==境内== | ||
+ | *本堂 | ||
+ | *鐘楼 | ||
+ | *愛宕堂 | ||
+ | *末社:不動明王、弁財天、稲荷大明神 | ||
+ | ==組織== | ||
+ | ===歴代住職=== | ||
+ | *13長玄()<>: | ||
+ | *19覚阿泰元()<>:1740年(元文5年)6月21日の梵鐘銘文がある[https://dl.ndl.go.jp/pid/3008965/1/177]。 | ||
+ | *20白典()<>: | ||
+ | *22(不詳)()<>:1787年(天明7年)在職[https://dl.ndl.go.jp/pid/4424055/1/128]。 | ||
+ | *23其阿白法()<>:1792年(寛政4年)8月在職[https://dl.ndl.go.jp/pid/4424055/1/123]。 | ||
+ | *28泉徹(生没年不詳)<不詳>:1854年(安政1年)在職[https://dl.ndl.go.jp/pid/4424055/1/125]。1870年(明治3年)6月24日在職[https://dl.ndl.go.jp/pid/4424045/1/86]。 | ||
+ | *30河野察龍(1825-1906)<1888-1890>:其阿。遊行上人62世。藤沢上人45世。他阿尊龍。1879年(明治12年)から1889年(明治22年)まで来迎寺住職[https://dl.ndl.go.jp/pid/4424047/1/80](1888年(明治21年)から1890年(明治23年)までとも[https://dl.ndl.go.jp/pid/4413841/1/18])。30代と称す[https://dl.ndl.go.jp/pid/4424055/1/125]。 | ||
+ | *31稲葉覚道(1833-1911)<1890-1904>:遊行上人63世。藤沢上人46世。他阿尊純。1890年(明治23年)10月から1904年(明治37年)5月まで来迎寺住職[https://dl.ndl.go.jp/pid/2992407/1/321][https://dl.ndl.go.jp/pid/4424047/1/83]。 | ||
+ | *32菊池快住()<1904->:鶴岡長泉寺住職。1904年(明治37年)就任か[https://dl.ndl.go.jp/pid/4424047/1/82]。のち正法寺住職。 | ||
+ | *33河野礼道()<>:福井県出身。堀内家。[https://dl.ndl.go.jp/pid/4424047/1/76]。1891年(明治24年)4月、山形光明寺49世[https://dl.ndl.go.jp/pid/4424047/1/77][https://dl.ndl.go.jp/pid/4424047/1/88]。1913年(大正2年)頃在職[https://dl.ndl.go.jp/pid/4424055/1/125]。桂光院。 | ||
+ | *34河野文乗(1877-)<1924->:其阿文乗。福井県出身。河野礼道の子。1877年(明治10年)生。1909年(明治42年)早稲田大学哲学科卒。同年山形光明寺住職。時宗宗学林教師。1922年(大正11年)以前に十日町来迎寺執事[https://dl.ndl.go.jp/pid/918817/1/39]。1924年(大正13年)来迎寺住職[https://dl.ndl.go.jp/pid/1213936/1/314]。宗議会議長。十日町教育会長[https://dl.ndl.go.jp/pid/1186291/1/287]。34世と称す[https://dl.ndl.go.jp/pid/4424055/1/124]。 | ||
+ | *35竹田賢随()<>:法阿賢随。[https://dl.ndl.go.jp/pid/4424055/1/124]。1971年(昭和46年)時点で95歳[https://dl.ndl.go.jp/pid/4424055/1/128]。 | ||
+ | *36小林賢秀()<>:其阿賢秀 | ||
+ | *37小林賢有()<>: | ||
+ | *38小林弘明()<>: | ||
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+ | ==資料== | ||
+ | *「平成七年度時宗文化財調査報告・絵画・来迎寺」[https://dl.ndl.go.jp/pid/4424055/1/123] | ||
+ | *「平成七年度時宗文化財調査報告・書跡・来迎寺」[https://dl.ndl.go.jp/pid/4424055/1/126] | ||
[[category:新潟県]] | [[category:新潟県]] |
2024年1月13日 (土) 時点における版
来迎寺(らいごうじ)は、新潟県十日町市にある時宗寺院。元は時宗の准檀林。新潟県十日町市川原町823甲。(参考:同名寺院来迎寺)
目次 |
歴史
- 1288年(正応1年)8月:一遍が中条村団子島(新潟県十日町市中条)に創建。田川山聖衆院来迎寺と称す。長尾家が帰依した。原村(新潟県十日町市高山?)に移転。(中魚沼郡風土志)
- 1491年(延徳3年):守護上杉房定が松龍軒という僧侶を来迎寺住職に任命(長尾能景遵行状)。この時点では「美佐島郷」(新潟県南魚沼市美佐島か。)にあった。
- 1658年(万治1年):13世長玄が現在の河原町に移転。放光山引接院来迎寺と称す。(中魚沼郡風土志では1839年(天保10年)のことで36世長玄とする)
- 1679年(延宝7年):本堂再建
- 1682年(天和2年):10石8斗を除地とされた。(中魚沼郡風土志では1682年(天和2年)とする)
- 1740年(元文5年)6月21日:19世覚阿泰元が梵鐘を鋳造
- 1782年(天明2年)6月23日:巡教中の善光寺大勧進79世慈薫が来迎寺で病み客死した[1][2]。
- 1862年(文久2年):現在の本堂などを再建
- 1897年(明治30年)10月:原村の「来迎寺屋鋪」の堂宇にあった阿弥陀仏が奉納された。(中魚沼郡風土志)
- 2012年(平成24年):本堂修復
(ウェブサイト、日本歴史地名大系、中魚沼郡風土志[3])
境内
- 本堂
- 鐘楼
- 愛宕堂
- 末社:不動明王、弁財天、稲荷大明神
組織
歴代住職
- 13長玄()<>:
- 19覚阿泰元()<>:1740年(元文5年)6月21日の梵鐘銘文がある[4]。
- 20白典()<>:
- 22(不詳)()<>:1787年(天明7年)在職[5]。
- 23其阿白法()<>:1792年(寛政4年)8月在職[6]。
- 28泉徹(生没年不詳)<不詳>:1854年(安政1年)在職[7]。1870年(明治3年)6月24日在職[8]。
- 30河野察龍(1825-1906)<1888-1890>:其阿。遊行上人62世。藤沢上人45世。他阿尊龍。1879年(明治12年)から1889年(明治22年)まで来迎寺住職[9](1888年(明治21年)から1890年(明治23年)までとも[10])。30代と称す[11]。
- 31稲葉覚道(1833-1911)<1890-1904>:遊行上人63世。藤沢上人46世。他阿尊純。1890年(明治23年)10月から1904年(明治37年)5月まで来迎寺住職[12][13]。
- 32菊池快住()<1904->:鶴岡長泉寺住職。1904年(明治37年)就任か[14]。のち正法寺住職。
- 33河野礼道()<>:福井県出身。堀内家。[15]。1891年(明治24年)4月、山形光明寺49世[16][17]。1913年(大正2年)頃在職[18]。桂光院。
- 34河野文乗(1877-)<1924->:其阿文乗。福井県出身。河野礼道の子。1877年(明治10年)生。1909年(明治42年)早稲田大学哲学科卒。同年山形光明寺住職。時宗宗学林教師。1922年(大正11年)以前に十日町来迎寺執事[19]。1924年(大正13年)来迎寺住職[20]。宗議会議長。十日町教育会長[21]。34世と称す[22]。
- 35竹田賢随()<>:法阿賢随。[23]。1971年(昭和46年)時点で95歳[24]。
- 36小林賢秀()<>:其阿賢秀
- 37小林賢有()<>:
- 38小林弘明()<>: