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足利学校
出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-)
足利学校
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'''足利学校'''は、下野国足利郡(栃木県足利市)にあった[[儒教]]学校・[[孔子廟]]。 [[建長寺]]178世の龍派禅珠が中興。[[日本の孔子廟]]も参照。 大阪の[[道明寺天満宮]]の孔子像と関連か。 近くに[[鑁阿寺]]がある。 ==歴史== *839年:一説に小野篁が創設。(鎌倉大草紙) *鎌倉時代初期:一説に足利義兼が創設。(分類年代記) *室町時代初期:一説に上杉憲実が創設。 *永享年間:上杉憲実、[[円覚寺]]快元を招く。 *1439年:上杉憲実、宋版典籍を寄進 *1467年:長尾景人、足利庄政所から現在地に移転。(鎌倉大草紙) *1590年:北条氏滅亡。豊臣秀吉が足利学校の所領を没収。 *1602年:足利学校再建 *1617年:徳川秀忠、朱印地100石寄進。 *1668年:聖廟建立 *1754年:落雷で火災 *1868年:足利学校内に足利藩校求道館を設置。 *1872年:学校廃止。 *1876年:足利町に移管。 *1882年:釈奠を神式で復興。 *1897年:足利学校遺跡保存会、成立 *1903年:足利学校遺跡図書館、開館 ==施設== <gallery widths="300" heights="300" perrow="3"> file:足利学校・聖廟・背面 (2).jpg| file:足利学校・聖廟・背面 (1).jpg| file:足利学校・聖廟・正面 (5).jpg| file:足利学校・聖廟・正面 (4).jpg| file:足利学校・聖廟・正面 (3).jpg| file:足利学校・聖廟・正面 (2).jpg| file:足利学校・聖廟・正面 (1).jpg| file:足利学校・聖廟・内部 (8).jpg| file:足利学校・聖廟・内部 (7).jpg| file:足利学校・聖廟・内部 (6).jpg| file:足利学校・聖廟・内部 (5).jpg| file:足利学校・聖廟・内部 (4).jpg| file:足利学校・聖廟・内部 (3).jpg| file:足利学校・聖廟・内部 (2).jpg| file:足利学校・聖廟・内部 (1).jpg| file:足利学校・聖廟・側面 (6).jpg| file:足利学校・聖廟・側面 (5).jpg| file:足利学校・聖廟・側面 (4).jpg| file:足利学校・聖廟・側面 (3).jpg| file:足利学校・聖廟・側面 (1).jpg| file:足利学校・稲荷社.jpg| file:足利学校・祭具 (6).jpg| file:足利学校・祭具 (5).jpg| file:足利学校・祭具 (4).jpg| file:足利学校・祭具 (3).jpg| file:足利学校・祭具 (2).jpg| file:足利学校・祭具 (1).jpg| file:足利学校・方丈・位牌所・位牌 (2).jpg| file:足利学校・方丈・位牌所・位牌 (1).jpg| file:足利学校・方丈・位牌所 (2).jpg| file:足利学校・方丈・位牌所 (1).jpg| file:足利学校・方丈・仏間・位牌 (3).jpg| file:足利学校・方丈・仏間・位牌 (2).jpg| file:足利学校・方丈・仏間・位牌 (1).jpg| file:足利学校・方丈・仏間 (3).jpg| file:足利学校・方丈・仏間 (2).jpg| file:足利学校・方丈・仏間 (1).jpg| file:足利学校・方丈-01.jpg| file:足利学校・方丈 (7).jpg| file:足利学校・方丈 (6).jpg| file:足利学校・方丈 (5).jpg| file:足利学校・方丈 (4).jpg| file:足利学校・方丈 (3).jpg| file:足利学校・方丈 (2).jpg| file:足利学校・方丈 (1).jpg| file:足利学校・弁天社.jpg| file:足利学校・墓地-23.jpg| file:足利学校・墓地-22.jpg| file:足利学校・墓地-21.jpg| file:足利学校・墓地-20.jpg| file:足利学校・墓地-19.jpg| file:足利学校・墓地-18.jpg| file:足利学校・墓地-17.jpg| file:足利学校・墓地-16.jpg| file:足利学校・墓地-15.jpg| file:足利学校・墓地-14.jpg| file:足利学校・墓地-13.jpg| file:足利学校・墓地-12.jpg| file:足利学校・墓地-11.jpg| file:足利学校・墓地-10.jpg| file:足利学校・墓地-09.jpg| file:足利学校・墓地-08.jpg| file:足利学校・墓地-07.jpg| file:足利学校・墓地-06.jpg| file:足利学校・墓地-05.jpg| file:足利学校・墓地-04.jpg| file:足利学校・墓地-03.jpg| file:足利学校・墓地-02.jpg| file:足利学校・墓地-01.jpg| file:足利学校・参道 (9).jpg| file:足利学校・参道 (8).jpg| file:足利学校・参道 (7).jpg| file:足利学校・参道 (5).jpg| file:足利学校・参道 (4).jpg| file:足利学校・参道 (2).jpg| file:足利学校・参道 (14).jpg| file:足利学校・参道 (13).jpg| file:足利学校・参道 (11).jpg| file:足利学校・参道 (10).jpg| file:足利学校・参道 (1).jpg| file:足利学校・全景.jpg| file:足利学校・その他 (9).jpg| file:足利学校・その他 (6).jpg| file:足利学校・その他 (5).jpg| file:足利学校・その他 (4).jpg| file:足利学校・その他 (3).jpg| file:足利学校・その他 (2).jpg| file:足利学校・その他 (10).jpg| file:足利学校・その他 (1).jpg| File:足利学校・その他_(7).jpg| File:足利学校・その他_(8).jpg| File:足利学校・参道_(12).jpg| File:足利学校・参道_(3).jpg| File:足利学校・参道_(6).jpg| File:足利学校・聖廟・扁額.jpg| </gallery> ==組織== ===庠主=== *足利学校の長官を庠主(しょうしゅ)と呼ぶ。能化と呼ばれることもあった。 *[[臨済宗]]の僧侶が就任した。[[京都]]では[[南禅寺]]、[[鎌倉]]では[[建長寺]]と関係を持っていたようだ。 *「足利学校歴代庠主一覧」[https://www.city.ashikaga.tochigi.jp/site/ashikagagakko/syousyuitiran.html]、『足利学校年譜』[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1072279]、『足利学校年譜』「庠主表」[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1072279/10]、『栃木県誌』「足利学校」[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/764270/321]などを典拠とした。 {|class="wikitable" |+足利学校の歴代庠主一覧 !style="width:5%" |世数 !style="width:10%" |名 !style="width:10%" |生没年 !style="width:10%" |在職年 !style="width:65%" |略歴 |- |1 |快元 |?-1469 |?-1469 |[[鎌倉円覚寺]]の僧。略歴不詳。永享の頃、上杉憲実に招かれ足利学校初代庠主。1446年(文安3年)学則を定めた。1469年(文明1年)4月21日死去。 |- |2 |天矣 |生没年不詳 |~1490~ |略歴不詳。肥後出身。1490年(延徳2年)に京都[[建仁寺]]の一牛という僧が立ち寄り寄贈した『礼記集説』(元天暦元年刊本、現存)に「能化肥後之産天矣」とある。延徳年間(1491年(延徳3年)とも)の2月16日に死去。 |- |3 |南計 |生没年不詳 | |略歴不詳。南斗とも。 |- |4 |九天 |生没年不詳 |~1506~ |略歴不詳。在職中の1506年(永正3年)に「児玉党吾那式部少輔」という人物が『文公家礼纂図集註』を寄附した記録に「能化九天」とある。没年は不詳だが、命日は6月2日という。 |- |5 |東井 |生没年不詳 |~1526~ |略歴不詳。吉川氏。之好。1526年(大永6年)に上杉憲房が寄付した『十八史略』(明初刊本、現存)に「能化安芸州山県郡之好叟述東井」とある。大永年間(1526年(大永6年)とも)の3月5日に死去。 |- |6 |日新文伯 |生没年不詳 |享禄 |略歴不詳。月舟寿桂の『幻雲稿』によれば京都東山の僧だったが、遊学に懇請され、一度戻った後に東下して就任したという。享禄年間に火災で学校被災。没年は不詳だが命日は7月16日(1549年(天文18年)とも)という。 |- |7 |九華瑞〓 |1500-1578 |1550-1578 |大隅出身。1500年(明応9年)生。伊集院家。[[東福寺]]の彭叔守仙に参禅。鎌倉[[禅興寺]]で玉隠英〓に師事したとみられ、同寺に住す。1550年(天文19年)(1549年(天文18年)とも)足利学校庠主。[[後北条家]]の北条氏政の帰依を受けた。1578年(天正6年)8月10日死去。79歳。玉崗瑞〓とも。九華老人と号す。〓は「王與」。 |- |8 |古月宗銀 |生没年不詳 |1578-1586 |略歴不詳。日向出身。1586年(天正14年)、閑室元佶に譲る。没年は不詳だが命日は10月20日(1586年(天正14年)とも)。 |- |9 |閑室元佶 |1548-1612 |1586-1602 |幻住派の僧。[[京都・円光寺]]開山。肥前小城郡出身。1548年(天文17年)生。金庭〓菊の法嗣。天正初年、足利学校で九華の講義を受けた。1586年(天正14年)、足利学校庠主。[[徳川家康]]の信任を得て江戸時代初期の寺社行政に携わった。1600年(慶長5年)[[南禅寺]]住持の坐公文を拝領。1612年(慶長17年)5月20日死去。三要元佶とも。 |- |10 |龍派禅珠 |1549-1636 |1602-1628 |[[建長寺]]178世。幻住派の僧。相模国出身。1549年(天文18年)生。円覚寺奇文禅才の法嗣。天正初年、足利学校で九華の講義を受けた。武蔵長徳寺の中興開山となる。徳川家康に従い富士見亨文庫に携わる。1602年(慶長7年)11月、足利学校庠主となるが、普段は長徳寺におり、足利に行き来したようである。1610年(慶長15年)建長寺住職。1628年(寛永5年)足利学校庠主退任。1636年(寛永13年)4月20日死去。88歳。墓所は長徳寺。寒松と号す。著書『寒松日記』。 |- |11 |明徹祖徳 |?-1672 |1655-1662 |建長寺182世。幻住派の僧。武蔵国出身(甲斐とも)。1628年(寛永5年)足利学校看坊。1655年(明暦1年)、足利学校庠主。1662年(寛文2年)退任。1672年(寛文12年)4月27日死去。睦子と号す。 |- |12 |沢雲祖兌 |?-1690 |1662-1665 |幻住派の僧。下野国足利郡出身。[[禅興寺]]に住す。1662年(寛文2年)、足利学校庠主。1665年(寛文5年)退任。円光寺3世に引退という。1690年(元禄3年)10月8日死去。 |- |13 |伝英元教 |?-1687 |1665-1675 |南禅寺で学び、禅興寺住職。1665年(寛文5年)、足利学校庠主。孔子廟など再建。1675年(延宝3年)退任。1687年(貞享4年)3月2日死去。外子と号す。 |- |14 |久室元要 |?-1713 |1675-1711 |下野国足利郡出身。茂木氏。建長寺に位(?)。1675年(延宝3年)(1678年(延宝6年)とも)、足利学校庠主。1711年(正徳1年)退任。1713年(正徳3年)12月21日死去。琢子と号す。 |- |15 |天叔元倫 |1664-1725 |1711-1725 |山城国桂出身。1664年(寛文4年)生。栗原氏。1711年(正徳1年)3月2日、足利学校庠主。1725年(享保10年)1月21日死去。62歳。墓所は足利学校裏。篤子と号す。 |- |16 |月江元澄 |?-1755 |1725-1755 |武蔵国八王子出身。天叔元倫の弟子。天叔元倫が病気になった時から代理を務める。1725年(享保10年)4月4日、足利学校庠主。1755年(宝暦5年)9月8日死去。墓所は足利学校裏。淳子と号す。 |- |17 |千渓元泉 |1722-1795 |1755-1787 |下野国足利郡出身。1722年(享保7年)生。禅興寺、建長寺(?)。1755年(宝暦5年)12月12日、足利学校庠主。鎮守の稲荷社を再建。1787年(天明7年)8月18日、66歳で引退。1795年(寛政7年)12月25日死去。墓所は足利学校裏。悦子と号す。 |- |18 |青郊元牧 |1744-1810 |1787-1804 |武蔵国八王子出身。1744年(延享1年)生。千渓元泉の弟子。1787年(天明7年)8月18日、足利学校庠主。1804年(文化1年)12月18日退任。1810年(文化7年)12月25日死去。67歳。墓所は足利学校裏。建長寺前住。成子と号す。 |- |19 |実巌宗和 |1755-1821 |1804-1821 |[[建長寺]]216世。自坊は足利市久保田町本源寺。周防国玖珂郡出身。1755年(宝暦5年)生。1804年(文化1年)12月18日、足利学校庠主。1821年(文政4年)8月4日死去。67歳。墓所は足利学校裏。誠子(純子)と号す。 |- |20 |大梁周廓 |1782-1824 |1822-1823 |自坊は足利市久保田町本源寺。周防国玖珂郡出身。1782年(天明2年)生。実巌宗和の弟子。1822年(文政5年)1月23日、足利学校庠主。1823年(文政6年)4月26日、病気のため引退。本源寺に隠居。1824年(文政7年)12月4日死去。43歳。墓所は足利市久野。 |- |21 |太嶺元諄 |1784-1845 |1823-1843 |越後国長岡出身。1784年(天明4年)生。1823年(文政6年)4月26日、足利学校庠主。1843年(天保14年)8月9日退任。1845年(弘化2年)10月5日死去。62歳。墓所は足利学校裏。 |- |22 |松齢元初 |1805-1857 |1843-1857 |美濃国中島郡出身。1805年(文化2年)生。[[南禅寺]]瑞雲庵の退耕阿称に師事し得度。[[金地院]]僧録の(?)太嶺元諄に師事し、法嗣となる。1843年(天保14年)8月9日、足利学校庠主。1857年(安政4年)1月7日死去。53歳。墓所は足利学校裏。東魯と号す。 |- |23 |謙堂元益 |1823-1875 |1857-1868 |名古屋出身。1823年(文政6年)生。信濃龍門寺迦陵のもとで得度。美濃東禅寺、永田宝林寺で学び、金地院僧録惟叢に出会い、師事。1857年(安政4年)9月22日、足利学校庠主。1868年(明治1年)(1869年(明治2年)とも)退任。1875年(明治8年)2月13日、常陸で死去。53歳。墓所は茨城県東茨城郡城里町下古内の清音寺。鯤海と号す。 |} [[category:栃木県]]
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