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近江・瑞龍寺

出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-)

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'''瑞龍寺'''(ずいりゅうじ)は、滋賀県近江八幡市にある[[日蓮宗]]の[[門跡寺院]]。[[日蓮宗久遠寺派]]。日蓮宗では唯一の門跡寺院。元は京都市上京区竪門前町にあった。'''村雲御所'''と号す。(参考:同名寺院[[瑞龍寺]])
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'''瑞龍寺'''(ずいりゅうじ)は、滋賀県近江八幡市宮内町にある[[日蓮宗]]の[[門跡寺院]]。[[日蓮宗久遠寺派]]の本山・由緒寺院。日蓮宗では唯一の門跡寺院。近世の尼門跡12位。元は京都府京都市上京区竪門前町(現在の西陣織会館の辺り)にあった。'''村雲御所'''と号す。(参考:同名寺院[[瑞龍寺]])
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近世の尼門跡12位。
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[[平等会寺]]を位牌所としたという(本隆寺門末寺院史)。
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==歴史==
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[[豊臣秀吉]]の姉で、秀次と秀勝の母である智の方は秀勝の戦死と秀次の自刃の後、その菩提を弔うために[[本圀寺]]日禎を戒師として出家し瑞龍院日秀と名乗った。[[後陽成天皇]]が日秀に今出川村雲に寺地を与え、寺領1000石を寄進して1596年(慶長1年)創建。
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[[豊臣秀吉]]の姉で、秀次と秀勝の母である智の方は秀勝の戦死と秀次の自刃の後、その菩提を弔うために[[本圀寺]]日禎を戒師として出家し瑞龍院日秀と名乗った。日蓮宗初の尼僧という。[[後陽成天皇]]が日秀に今出川村雲に寺地を与え、寺領1000石を寄進して1596年(慶長1年)創建。瑞龍寺の寺号は天皇が名付けたものといい、書状の文章が伝わる。
[[紫衣]]着用が許可された(国史大辞典)。日秀は1597年(慶長2年)には太秦に本瑞寺を創建し、瑞龍寺の別院としたといい、[[常寂光寺]]、[[墨染寺]]、[[善正寺]]の創建を支援した。
[[紫衣]]着用が許可された(国史大辞典)。日秀は1597年(慶長2年)には太秦に本瑞寺を創建し、瑞龍寺の別院としたといい、[[常寂光寺]]、[[墨染寺]]、[[善正寺]]の創建を支援した。
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徳川家光は二条城の客殿を寄進して移築。また寺領500石を寄進した(『皇室と寺院』にも寺領500石とあるのでこれが近世続いたのだろう)。
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1625年(寛永2年)徳川家光は二条城の客殿を寄進して移築。また寺領500石を寄進した(『皇室と寺院』にも寺領500石とあるのでこれが近世続いたのだろう)。
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1781年(天明1年)、瑞龍寺から日本寺に寄進した8世日照の遺品の釈迦坐像が紛失する事件が発生。
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1724年(享保9年)以降、善正寺東山檀林の能化に能化許状を発給した。
1724年(享保9年)以降、善正寺東山檀林の能化に能化許状を発給した。
1764年(明和1年)12月28日、村雲御所の号が認められた。1788年(天明8年)の天明の大火で焼失。天保年間に再建。
1764年(明和1年)12月28日、村雲御所の号が認められた。1788年(天明8年)の天明の大火で焼失。天保年間に再建。
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江戸時代後期に入ると地方の寺院に瑞龍寺門跡の祈願所の許状を出している。他の尼門跡や宮家にもみられる動きで、乏しい財源を補う手段だったのだろう。
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*1796年(寛政8年)9月、長崎本蓮寺を祈願所とする(長崎市史)。
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*1807年(文化4年)7月、佐渡妙経寺を祈願所とする(畑野村志)。
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*1846年(弘化3年)11月、藤枝益津妙法寺を瑞龍寺の祈願所とする(藤枝町誌)。
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*1861年(文久1年)10月、法華経寺遠寿院を祈願所とする(日蓮宗各本山名所図会)。
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*1866年(慶応2年)4月、法華経寺遠寿院出張所の筑後法華寺を祈願所とする(日蓮宗各本山名所図会)。
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門流が異なるが、『本隆寺門末寺院史』に[[平等会寺]]を位牌所としたとあるのも同様の趣旨かもしれない。年代は不明だが、[[妙成寺]]に緋紋白の袈裟と「ひわ色かご」の輿を許可している(妙成寺の栞)。
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1861年(文久1年)9月、遠寿院の鬼子母神の禁裏内拝を取り次ぐ。瑞龍寺もこれを拝んだという。
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明治維新で門跡制度は廃止されるが、1876年(明治9年)から下賜金(日本歴史地名大系)。1888年(明治21年)に「御由緒寺院」として門跡寺院同様の待遇となった(『皇室と寺院』)。1885年(明治18年)、東京小伝馬町に別院を設け、天拝子育鬼子母尊神を祀った(瑞法光寺。1987年(昭和62年)に茨城県取手市に移転)。
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1905年(明治38年)7月2日、瑞龍寺内に本部を置いて護国婦人教会(村雲婦人会?)が設立される。
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1960年(昭和35年)、日蓮宗久遠寺派からの離脱を表明。しかし瑞龍寺財産の不当処分が発覚し、住職罷免問題にまで発展するが、瑞龍寺と宗派は和解するに至る。(「近代教団史にみられる尼僧たち」[https://genshu.nichiren.or.jp/publications/post-1477/id-1428/])
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明治維新で門跡制度は廃止されるが、1876年(明治9年)から下賜金(日本歴史地名大系)。1888年(明治21年)に「御由緒寺院」として門跡寺院同様の待遇となった(『皇室と寺院』)。1885年(明治18年)、東京小伝馬町に別院を設け、天拝子育鬼子母尊神を祀った(瑞法光寺。1987年(昭和62年)に茨城県取手市に移転)。1962年(昭和37年)に現在地に移転。八幡山は豊臣秀次の居城の八幡城の跡地である。
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1962年(昭和37年)に現在地に移転。八幡山は豊臣秀次の居城の八幡城の跡地である。
(日本歴史地名大系ほか)
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|1534-1625
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|[[豊臣秀吉]]の姉。豊臣秀次の生母。日蓮宗初の尼僧という。1534年(天文3年)生。1625年(寛永2年)4月24日死去。92歳。墓は[[善正寺]]の[[瑞龍寺宮墓地]]。
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2020年1月27日 (月) 時点における版

瑞龍寺(ずいりゅうじ)は、滋賀県近江八幡市宮内町にある日蓮宗門跡寺院日蓮宗久遠寺派の本山・由緒寺院。日蓮宗では唯一の門跡寺院。近世の尼門跡12位。元は京都府京都市上京区竪門前町(現在の西陣織会館の辺り)にあった。村雲御所と号す。(参考:同名寺院瑞龍寺

歴史

豊臣秀吉の姉で、秀次と秀勝の母である智の方は秀勝の戦死と秀次の自刃の後、その菩提を弔うために本圀寺日禎を戒師として出家し瑞龍院日秀と名乗った。日蓮宗初の尼僧という。後陽成天皇が日秀に今出川村雲に寺地を与え、寺領1000石を寄進して1596年(慶長1年)創建。瑞龍寺の寺号は天皇が名付けたものといい、書状の文章が伝わる。 紫衣着用が許可された(国史大辞典)。日秀は1597年(慶長2年)には太秦に本瑞寺を創建し、瑞龍寺の別院としたといい、常寂光寺墨染寺善正寺の創建を支援した。

1625年(寛永2年)徳川家光は二条城の客殿を寄進して移築。また寺領500石を寄進した(『皇室と寺院』にも寺領500石とあるのでこれが近世続いたのだろう)。

1781年(天明1年)、瑞龍寺から日本寺に寄進した8世日照の遺品の釈迦坐像が紛失する事件が発生。

1724年(享保9年)以降、善正寺東山檀林の能化に能化許状を発給した。 1764年(明和1年)12月28日、村雲御所の号が認められた。1788年(天明8年)の天明の大火で焼失。天保年間に再建。

江戸時代後期に入ると地方の寺院に瑞龍寺門跡の祈願所の許状を出している。他の尼門跡や宮家にもみられる動きで、乏しい財源を補う手段だったのだろう。

  • 1796年(寛政8年)9月、長崎本蓮寺を祈願所とする(長崎市史)。
  • 1807年(文化4年)7月、佐渡妙経寺を祈願所とする(畑野村志)。
  • 1846年(弘化3年)11月、藤枝益津妙法寺を瑞龍寺の祈願所とする(藤枝町誌)。
  • 1861年(文久1年)10月、法華経寺遠寿院を祈願所とする(日蓮宗各本山名所図会)。
  • 1866年(慶応2年)4月、法華経寺遠寿院出張所の筑後法華寺を祈願所とする(日蓮宗各本山名所図会)。

門流が異なるが、『本隆寺門末寺院史』に平等会寺を位牌所としたとあるのも同様の趣旨かもしれない。年代は不明だが、妙成寺に緋紋白の袈裟と「ひわ色かご」の輿を許可している(妙成寺の栞)。

1861年(文久1年)9月、遠寿院の鬼子母神の禁裏内拝を取り次ぐ。瑞龍寺もこれを拝んだという。

明治維新で門跡制度は廃止されるが、1876年(明治9年)から下賜金(日本歴史地名大系)。1888年(明治21年)に「御由緒寺院」として門跡寺院同様の待遇となった(『皇室と寺院』)。1885年(明治18年)、東京小伝馬町に別院を設け、天拝子育鬼子母尊神を祀った(瑞法光寺。1987年(昭和62年)に茨城県取手市に移転)。

1905年(明治38年)7月2日、瑞龍寺内に本部を置いて護国婦人教会(村雲婦人会?)が設立される。

1960年(昭和35年)、日蓮宗久遠寺派からの離脱を表明。しかし瑞龍寺財産の不当処分が発覚し、住職罷免問題にまで発展するが、瑞龍寺と宗派は和解するに至る。(「近代教団史にみられる尼僧たち」[1]

1962年(昭和37年)に現在地に移転。八幡山は豊臣秀次の居城の八幡城の跡地である。

(日本歴史地名大系ほか)

組織

住職

  • 初代から9世の日尊まで本圀寺貫首を戒師として出家した。ただし日寿を除く。
  • 九条家の猶子となってから入寺した。
  • 歴代の墓が東山檀林善正寺にある。瑞龍寺宮墓地と仮称。8世・9世については治定墓。
  • 15世で男性が初めて貫首に就いた。
  • 小笠原日英まで主に『日蓮宗事典』を参照。『比丘尼御所諡号考』[2]、「陵墓 陵印 掲示板」[3]ほかも参照。
世数 法諱 生没年 在職年 略歴
1 日秀 瑞龍寺殿 妙慧 1534-1625 豊臣秀吉の姉。豊臣秀次の生母。日蓮宗初の尼僧という。1534年(天文3年)生。1625年(寛永2年)4月24日死去。92歳。墓は善正寺瑞龍寺宮墓地
2 日怡 瑞円院 1625-1664 1641-1664 1641年(寛永18年)7月23日就任。1664年(寛文4年)2月3日死去。40歳。墓は善正寺の瑞龍寺宮墓地。
3 日通女王 瑞照院 1653-1672 1664-1672 伏見宮貞建親王王女。九条輔嗣猶子。1664年(寛文4年)1月30日就任。1672年(寛文12年)7月17日死去。20歳。墓は善正寺の瑞龍寺宮墓地(治定外)。(1665年(寛文5年)死去とも)
4 日寿 瑞法院 1647-1691 1672-1691 1672年(寛文12年)8月29日就任。1691年(元禄4年)4月29日死去。45歳。墓は善正寺の瑞龍寺宮墓地。(『比丘尼御所諡号考』にある1691年(元禄4年)4月6日死去の日義はこの人物か)
加歴5 日顕 瑞現院 ?-1690 加歴 日寿の弟子。得度をしないまま、1690年(元禄3年)7月2日死去。日寿の意向で加歴。瑞源院とも。墓は善正寺の瑞龍寺宮墓地。
6 日慈 瑞応院 1699-1716 1713-1716 鷹司政平の娘。1713年(正徳3年)12月21日就任。1716年(享保1年)4月6日死去。18歳。墓は善正寺の瑞龍寺宮墓地。
7 日護 瑞妙院 1717-1746 1724-1746 1724年(享保9年)4月21日就任。1746年(延享3年)2月24日死去。30歳。
8 日照女王 常孝院 1753-1778 1762-1778 有栖川宮家出身。音仁親王の王女。九条尚実猶子。1762年(宝暦12年)4月13日就任。1778年(安永7年)7月21日死去。26歳。墓は善正寺の瑞龍寺宮墓地(治定)。
9 日尊女王 瑞世文院 1807-1868 1816-1868 伏見宮貞敬親王王女。1812年(文化9年)九条輔嗣の猶子。1816年(文化13年)6月28日就任。1868年(明治1年)11月12日死去。62歳。墓は善正寺の瑞龍寺宮墓地(治定)。
10 村雨日栄 瑞法光院 1855-1920 1862-1920 伏見宮邦家親王王女。1862年(文久2年)5月16日就任。1920年(大正9年)3月22日死去。66歳。墓は善正寺の瑞龍寺宮墓地(治定外)。
11 九条日浄 瑞珠院 1896-1962 1920-1962 子爵仙石政敬の娘。公爵九条道実の養女。1913年(大正2年)学習院女学部中等科卒。1920年(大正9年)11月6日就任。村雲婦人会総裁。1962年(昭和37年)近江八幡への移転を実施。1962年(昭和37年)9月20日死去。66歳。墓は善正寺の瑞龍寺宮墓地。
12 小笠原日英 瑞興院 1914-1988 1965-1988 小笠原長幹の娘。1960年(昭和35年)出家。1965年(昭和40年)就任。1988年(昭和63年)3月29日死去。74歳。墓は善正寺の瑞龍寺宮墓地。
13 小笠原日凰 瑞華院 英法 1914-2002 1988-2002 女優の桜緋紗子。1929年(昭和4年)宝塚音楽学校卒。同年、宝塚歌劇団に入団。翌年、初舞台。1940年(昭和15年)退団。1951年(昭和26年)の交通事故を機に仏門に入る。1965年(昭和40年)瑞龍寺の僧侶となる。小笠原長幹の養女となる。1988年(昭和63年)義姉の跡を継ぎ住職就任。2002年(平成14年)3月20日死去。88歳。墓は善正寺の瑞龍寺宮墓地。
14 鷲津日澄 ?-2011 ?-2011 2011年(平成23年)に退任。同年3月死去。
15 鷲津日英 瑞仙院 恵得 ?-2019 2011-2019 初の男性住職。鷲津日澄の長男。大阪府最妙寺住職を経て2011年(平成23年)に瑞龍寺門跡貫首に就任。2019年(令和1年)死去。
16
http://shinden.boo.jp/wiki/%E8%BF%91%E6%B1%9F%E3%83%BB%E7%91%9E%E9%BE%8D%E5%AF%BA」より作成

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