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逢鹿瀬寺

出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-)

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逢鹿瀬寺(おうかせでら)は三重県多気郡多気町相鹿瀬(伊勢国多気郡)にあった伊勢神宮ゆかりの古代寺院。伊勢神宮の神宮寺。内宮の真西15kmに位置する。熊野街道沿いにある。廃絶。「逢鹿瀬寺跡」の石碑が立つ。奈良時代の伊勢国分尼寺式の瓦や鎌倉時代の瓦が出土している。続日本紀には度会郡にも神宮寺があったとの記述がある。度会郡の神宮寺と多気郡の神宮寺の二つがあったという説、両寺は同一とする説がある。また史料上の逢鹿瀬寺が、遺跡として残る相鹿瀬廃寺に相当するのか確証はない。

  • 766年(天平神護2年)7月23日:朝廷、使者を派遣し、「伊勢大神宮寺」に「丈六仏像」を造立した(続日本紀)。一説には「伊勢大神宮寺」が逢鹿瀬寺に当たる
  • 767年(神護景雲1年)10月3日:宣旨をもって太神宮寺(伊勢神宮の神宮寺)に定められた(太神宮諸雑事記)。12月には月次祭に合わせて伊勢神宮に勅使が派遣され、逢鹿瀬寺を太神宮寺に定めたことを奉告した(太神宮諸雑事記)。
  • 772年(宝亀3年)8月6日:月読神の祟りなどで「度会郡神宮寺」を「飯高郡渡瀬山房」に移転(続日本紀)。逢鹿瀬は当時は度会郡であったという。移転したのは「神宮寺」の機能だけで逢鹿瀬寺の建物はそのまま存続したとも。
  • 773年(宝亀4年)9月23日:瀧原宮祭使と逢鹿瀬寺の僧が寺の前で口論・乱闘となった(太神宮諸雑事記)。
  • 774年(宝亀5年)7月23日:太政官符をもって神郡(多気郡・度会郡)内にある寺田を廃止し、神郡外に移転するように命じる(勘注)。
  • 775年(宝亀6年)6月5日:逢鹿瀬寺の僧が、鮎を取る神民に乱暴し、神饌を穢す(太神宮諸雑事記)。
  • 776年(宝亀7年)2月3日:宣旨により前年の寺僧乱暴事件で神宮寺の認定は取り消されたという(太神宮諸雑事記)。神宮寺は飯野郡に移転(太神宮諸雑事記)。
  • 780年(宝亀11年)2月1日:大神宮寺が飯野郡から郡外に移転(続日本紀)。

資料

  • 『伊勢名勝志』「逢鹿瀬寺趾」
  • 『神都名勝誌』「逢鹿瀬寺旧趾」[1](限定送信)
  • 岡田登1986「伊勢大神宮寺としての逢鹿瀬寺について」『皇學館大學研究開発推進センター史料編纂所報―史料』85[2](限定送信)
  • 大西源一1908「伊勢国逢鹿瀬寺廃址」『考古界』6-10[3](限定送信)
  • 鈴木敏雄1933「逢鹿瀬寺跡」『三重県古瓦図録』[4](限定送信)
  • 岡田登2008「伊勢大神宮寺(逢鹿瀬寺)の移転先をめぐって」『皇學館大學研究開発推進センター史料編纂所報―史料』218
  • 多田實道2017「伊勢大神宮寺について」『伊勢神宮神仏習合史の研究』[5](限定送信)
http://shinden.boo.jp/wiki/%E9%80%A2%E9%B9%BF%E7%80%AC%E5%AF%BA」より作成

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