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金剛証寺

出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-) 最終更新:2023年1月20日 (金)

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本堂

金剛証寺(こんごうしょうじ)は、三重県伊勢市朝熊町岳(伊勢国度会郡)の朝熊山にある虚空蔵信仰臨済宗寺院。天照大神の化身とされる雨宝童子を祀る神社(雨宝童子社)がある。臨済宗南禅寺派。江戸時代は「兼学」だった(伊勢参宮名所図会)。伊勢神宮の鬼門除けの寺院とされる。伊勢神宮式年遷宮の翌年に開帳。伊勢神宮関連旧跡。兜率院。山号は勝峰山。

目次

歴史

朝熊山・神社港からの眺望
金剛証寺の起源に関わる明星堂
天照大神の化身を祀る雨宝童子社
  • 欽明天皇代:暁台が創建。
  • 602年(推古10年):聖徳太子仏舎利を埋納。
  • 聖武天皇代:聖武天皇行幸。勅願所としたという。
  • 825年(天長2年):空海が大和善根寺で求聞持法を修めた時、赤精童子が影向して託宣を下し、朝熊山に修行に赴いたという。この時、天照大神の16歳の姿を写した雨宝童子を感得したという。807年(大同2年)ともいう。真言宗となる。
  • 1156年(保元1年):朝熊山経塚の最古の銘文の例。1186年(文治2年)のものまで確認されている。
  • 1159年(平治1年):平治の乱で平氏の拠点となった伊勢に源氏勢が侵攻。金剛証寺も火を放たれた。
  • 1392年(元中9年/明徳3年):東岳文昱は伊勢神宮に百日参籠で神託を受けて朝熊山に赴き金剛証寺を再興。臨済宗となる。
  • 1585年(天正13年)11月:蒲生氏郷が敵が籠もる朝熊山を一時包囲したが戦火は免れた。
  • 1613年(慶長18年):徳川家康、安堵状。
  • 1616年(元和2年):越後高田藩主松平忠輝(徳川家康六男)、改易となり、朝熊山に配流。
  • 1609年(慶長14年):本堂再建。岡山藩主池田輝政が寄進。
  • 1630年(寛永7年):宍戸藩主秋田実季、改易となり伊勢配流。朝熊山麓の永松庵(金剛証寺末)に蟄居。
  • 1724年(享保9年):碑文に「内宮外宮朝熊岳千日参」とあり、この頃、千日参が盛んとなる。
  • 1803年(享和3年):本堂以外の多くの伽藍を焼失
  • 1894年(明治27年):朝熊山経塚発見
  • 1909年(明治42年)12月2日:経木堂焼失[1]
  • 1925年(大正14年)3月:朝熊山にケーブルカー開通。
  • 1944年(昭和19年):軍の命令でケーブルカー撤去。
  • 1959年(昭和34年):伊勢湾台風、倒木の跡から経塚が多数発見。
  • 1962年(昭和37年):翌年にかけて経塚の発掘調査

伽藍・関連旧跡

巨大な卒塔婆が立ち並ぶ奥之院参道
  • 本堂:本尊は福威智満虚空蔵大菩薩。脇侍として雨宝童子と明星天子を祀る。摩尼殿。
  • 開山堂:本尊は暁台・空海・東岳文昱。
  • 仁王門:本尊は金剛力士
  • 雨宝童子社:祭神は雨宝童子
  • 観音堂:廃絶か。
  • 文殊堂:廃絶か。
  • 釈迦堂:廃絶か。
  • 熊野拝所:廃絶か。
  • 阿弥陀堂:廃絶か。
  • 十三仏:廃絶か。
  • 不動堂:廃絶か。
  • 薬師堂:廃絶か。
  • 大日堂:廃絶か。
  • 経木堂:廃絶か。
  • 明星水:
  • 明星堂:本尊は明星天子。三光天子。
  • 奥之院:本尊は延命子安地蔵。呑海院が管轄。
  • 住職墓地:「方丈墓」。
  • 九鬼嘉隆墓:鳥羽城主九鬼嘉隆は11世明叟有昕に帰依。子の蓬雲有慶が金剛証寺12世となる。
  • 御木本幸吉墓:
  • 慶光院清順墓:慶光院3世。慶光院上人。
  • 慶光院周養墓:慶光院4世。慶光院上人。
  • 小川頼重墓:
  • 経塚:1156年(保元1年)から1186年(文治2年)までの銘文を確認。1894年(明治27年)、老樹の根本から1173年(承安3年)銘の陶製経筒が出土。1959年(昭和34年)9月の伊勢湾台風の倒木から遺物発見。1962年(昭和37年)と1963年(昭和38年)に40基あまりを発掘調査。
  • 八大龍王社:山頂付近にある。
  • 庫蔵寺:三重県鳥羽市河内町。本尊は虚空蔵菩薩。真言宗御室派。空海が金剛証寺創建の翌年に開いたという。金剛証寺の奥之院ともいう。山号は丸興山。
  • 朝熊神社:三重県伊勢市朝熊町。朝熊山の麓にある。伊勢神宮内宮摂社の筆頭。金剛証寺と直接的な関係はないが、朝熊神社の存在は朝熊の地が古くから重視されたことを示す。朝熊御前神社鏡宮神社もある。

塔頭

江戸時代には真言宗の子院もあった。

  • 望海院:高岳文徳の塔所。
  • 孝源院:逸叟恵俊の塔所。
  • 地福院:
  • 呑海院:東岳文昱の塔所。呑海庵。奥之院を管轄。
  • 普明院:廃絶。
  • 瑞泉院:明仲恵防の塔所。廃絶。
  • 観音院:廃絶。
  • 方広院:明叟有昕の塔所。廃絶。法光院とも。
  • 明王院:廃絶。江戸時代は真言宗。
  • 与楽院:廃絶。
  • 妙光院:廃絶。
  • 才屋院:廃絶。
  • 虎渓院:廃絶。江戸時代は真言宗。
  • 瑞応院:廃絶。

組織

住職

  • 「金剛證寺歴代」[2]
  • 名に「恵」の字がある人物が多い。
世数 名前 生没 在職 略歴
1 東岳文昱 ?-1416 1392-? 建長寺71世。円覚寺61世。大拙文巧の法嗣。寿福寺、円覚寺、建長寺に住す。1339年(暦応2年)茂原応徳寺を創建?。1392年(元中9年/明徳3年)、金剛証寺を再興。1414年(応永21年)、上杉朝宗が建てた鎌倉徳泉寺の開山となる。1416年(応永23年)2月23日、建長寺岱雲庵で死去。金剛証寺では命日を5月28日とする。塔所は金剛証寺呑海院、建長寺岱雲庵、円覚寺富陽庵、東漸寺成願院。諡号は仏地禅師。富陽庵に墓塔と彫像が現存。東嶽文昱。
2 高岳文徳 1362-1431 鳥羽円照寺の開山。1362年(正平17年/貞治1年)生。1431年(永享3年)3月12日死去。70歳。
3 明仲恵防 1397-1444 1444年(文安1年)2月22日死去。48歳。明仲恵昉。
4 日庵恵析 1399-1465 1465年(寛正6年)7月25日死去。67歳。日庵恵圻。
5 思玄恵忖 1404-1486 1486年(文明18年)10月29日死去。83歳。
6 惟鑑恵澄 1451-1504 1504年(永正1年)5月15日死去。54歳。惟鑑恵証。雨宝殿の永正6年9月11日の雨宝童子像の銘文に名が記されている。
7 心空恵有 1480-1527 1527年(大永7年)11月15日死去。48歳。
8 逸叟恵俊 1483-1545 1545年(天文14年)4月12日死去。63歳。逸叟有俊。
9 仁翁有允 ?-1561 1561年(永禄4年)8月4日死去。仁翁有充。
10 忠英有恕 1535-1576 1576年(天正4年)11月6日死去。42歳。
11 明叟有昕 1539-1617 中興。建長寺末から南禅寺末とする。九鬼嘉隆の帰依を受けた。1617年(元和3年)7月7日死去。79歳。
12 蓬雲有慶 1580-1624 九鬼嘉隆の三男。1624年(寛永1年)12月21日死去。45歳。
13 瑞林寿祥 1572-1629 1629年(寛永6年)7月1日死去。58歳。
14 弘叔清忍 1580-1640 1640年(寛永17年)6月22日死去。61歳。
15 大仲寿誕 1615-1681 1681年(天和1年)9月10日死去。67歳。
16 天外恵天 1637-1685 1685年(貞享2年)8月17日死去。49歳。
17 木禅恵真 1645-1724 1724年(享保9年)5月15日死去。80歳。
18 春林文韶 1686-1726 1726年(享保11年)5月11日死去。41歳。
19 乾峰祖龍 1674-1741 1741年(寛保1年)4月12日死去。68歳。
20 玉堂祖珉 1688-1759 1759年(宝暦9年)1月16日死去。72歳。
21 香峰祖薫 ?-1796 南禅寺306世。1796年(寛政8年)5月13日死去。
22 水岩恵暾 ?-1791 1791年(寛政3年)8月6日死去。水巌恵暾。
23 玉潭慧琢 ?-1811 1811年(文化8年)7月13日死去。
24 大器恵成 ?-1830 1830年(天保1年)5月20日死去。
25 聯渓恵芳 ?-1857 1857年(安政4年)1月4日死去。
26 楞山支曇 ?-1868 1868年(明治1年)12月6日死去。
27 大徹道林 1828-1911 南禅寺327世。勝峰大徹。南禅寺派2代管長。1911年(明治44年)3月16日死去。
28 寛宗恵隆 ?-1901 1901年(明治34年)2月26日死去。
29 睿州恵聡 1850-1925 ?-1917 勝峰恵聡。南禅寺執事長。1925年(大正14年)7月1日死去。76歳。
30 静雲 1917-? 勝峰静雲。1917年(大正6年)、金剛証寺住職[3]

資料

古典籍・史料

  • 『朝熊山儀軌』:空海仮託。1448年成立か。龍谷大学本。神宮文庫本(神道大系)。金剛三昧院本。『朝熊岳儀軌』、『朝熊嶽儀軌』、『金剛証寺儀軌』ともいう。『朝熊嶽儀範』とする写本もあるが「範」は「軌」の誤写とみられる。上下巻から成り、上巻は『朝熊山縁起』の書名で知られている(続群書類従本[4]。『日本思想大系寺社縁起』)。
  • 『雨宝童子啓白』:空海仮託。
  • 『朝熊山明王院伝来伝法灌頂記』:天正2年書写。神宮文庫蔵。
  • 『朝熊岳略縁起』:大仲寿誕著。1662年成立。『朝熊山縁起』を基に『先代旧事大成経』で潤色したもの。
  • 『伊勢朝熊岳開帳目録』:寛延3年。
  • 『朝熊岳金剛證寺開帳幟神号並略縁起差留一件』:寛延4年頃。神宮文庫所蔵。
  • 『伊勢朝熊岳勝峰山金剛證寺本記儀軌抜書』:慶安4年刊行。『朝熊岳儀軌』に基づく。神宮文庫蔵。
  • 『朝熊岳虚空蔵縁起』:1745年。
  • 『弘化三年三月朝熊岳金剛證寺差出縁起絵図差留一件』:神宮文庫蔵。
  • 川口素道1994『朝熊岳金剛證寺典籍古文書』

近世地誌など

  • 『神都名勝誌』「金剛証寺」[5]、朝熊神社と朝熊山の絵[6]
  • 『伊勢参宮名所図会』「朝熊岳』[7]
  • 常誉摂門『南勢雑記』「朝熊岳」[8]
  • 「朝熊嶽真景図」:池大雅筆。『大和文華』[9]

文献

  • 野間圀彦1911『朝熊山小史』[10]
  • 田辺三郎助1963「金剛証寺地蔵菩薩像についてー着装像の一例として」[11]
  • 萩原龍夫1963「中世における禅密一致と伊勢神宮」(『神々と村落』)
  • 西田長男1966「雨宝童子像管見1」『神道及び神道史』1[12]
  • 西田長男1966「雨宝童子像管見2」『神道及び神道史』2
  • 奥出賢治1974「伊賀における雨宝童子影像」[13]
  • 奥出賢治1982「雨宝童子像三躯について」[14]
  • 児玉允1975「山嶽信仰における虚空蔵菩薩」[15]
  • 成瀬不二雄1979「池大雅筆『朝熊嶽真景図』について」[16]
  • 成瀬不二雄1980「池大雅筆『朝熊嶽真景図』について(補遺)」[17]
  • 稲神和子1987『大和路・いせ路道標の旅』[18]
  • 川口素道1988『朝熊岳概観史―金剛証寺の歩み』
  • 川口素道1994『朝熊岳金剛證寺典籍古文書』
  • 佐野賢治2000「山中他界観の成立―伊勢朝熊山タケマイリを中心に」『虚空蔵信仰の仏教民俗学的研究―日本的仏教受容と土着化』[19]
  • 志村恭子他2000「伝統薬の継承2ー萬金丹」『三重県保健環境研究所年報』[20]

経塚

  • 高橋健自1910「伊勢国朝熊山発掘の経筒」[21]
  • 岩出斎三郞1916「朝熊岳の経塚と家蔵の遺物」『考古学雑誌』[22]
  • 和田千吉1916「朝熊岳経塚に就て」『考古学雑誌』[23]
  • 佐藤虎雄1935「伊勢国の経塚」[24]
  • 萩原龍夫1969「伊勢神宮と仏教」[25](『神々と村落』)
  • 奥村秀雄1969「朝熊山経塚出土の線刻阿弥陀三尊来迎鏡像をめぐって」[26]
  • 稲垣晋也1988「三重県伊勢市朝熊山経塚発掘ノート―経塚の構造と造営次第」[27]
  • 荒木伸子1997「朝熊山経塚出土の扇―平安時代後期の扇の復元的考察」[28]
http://shinden.boo.jp/wiki/%E9%87%91%E5%89%9B%E8%A8%BC%E5%AF%BA」より作成

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