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金峰山寺

出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-)

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円実
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後醍醐天皇を迎えた吉水院宗信は金峰山寺「執行」だったというが不詳。
===江戸時代の学頭===
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|自坊は[[延暦寺願王院]]。1683年(天和3年)就任。1691年(元禄4年)退任。
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|自坊は[[延暦寺願王院]]。1683年(天和3年)就任。1691年(元禄4年)退任。三諦院と号す。
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|自坊は[[延暦寺恵心院]](横川学頭)。1692年(元禄5年)就任。
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|自坊は[[延暦寺恵心院]](横川学頭)。1692年(元禄5年)就任。証浄院と号す。
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|自坊は延暦寺恵心院(横川学頭)。成道院と号す。
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|自坊は[[延暦寺正覚院]](東塔学頭)。1722年(享保7年)就任。
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|自坊は[[延暦寺正覚院]](東塔学頭)。1722年(享保7年)就任。大常院と号す。
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|自坊は延暦寺正覚院(東塔学頭)。1739年(元文4年)就任。
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|自坊は延暦寺正覚院(東塔学頭)。1739年(元文4年)就任。妙禅房と号す。
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|自坊は延暦寺行光坊、[[延暦寺竹林院]]。1739年(元文4年)就任。
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|自坊は延暦寺行光坊、[[延暦寺竹林院]]。1739年(元文4年)就任。一性院と号す。
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|比叡山の[[延暦寺正観院]](西塔学頭)、正覚院(東塔学頭)を歴任。1746年(延享3年)就任。
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|比叡山の[[延暦寺正観院]](西塔学頭)、正覚院(東塔学頭)を歴任。1746年(延享3年)就任。非生院と号す。
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|学頭11
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|自坊は延暦寺恵心院(横川学頭)。1752年(宝暦2年)就任。1767年(明和4年)退任。のち[[寛永寺凌雲院]]に転任。
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|自坊は延暦寺恵心院(横川学頭)。1752年(宝暦2年)就任。1767年(明和4年)退任。のち[[寛永寺凌雲院]]に転任。心浄院と号す。
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|学頭12
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|?-1768
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|自坊は延暦寺恵心院(横川学頭)。1768年(明和5年)就任。同年死去。
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|自坊は延暦寺恵心院(横川学頭)。1768年(明和5年)就任。同年死去。証道院と号す。
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|1713-1803
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|自坊は延暦寺恵心院(横川学頭)。1768年(明和5年)就任。
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|自坊は延暦寺恵心院(横川学頭)。1768年(明和5年)就任。到地院と号す。
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|学頭14
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|1749-1823
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|大慧明院と号す。
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|学頭16
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|1782-1857
|1782-1857
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|正定聚院と号す。
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|学頭18
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(『金峯山寺史』)
(『金峯山寺史』)
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===江戸時代の学頭代===
===明治以後の住職===
===明治以後の住職===

2020年7月3日 (金) 時点における版

金峰山寺(きんぷせんじ)は、奈良県吉野郡吉野町にある修験道の根本道場の寺院。金峰山修験本宗総本山。本尊は蔵王権現役小角が創建。大峰山寺は元々は金峰山寺の一部だった。中世までは興福寺の支配下にあり、江戸時代は天台宗輪王寺宮の支配下にあった。明治初年には強行な神仏分離で一時廃絶となった。戦後、独立宗派を立てた。鎮守は勝手神社吉野水分神社吉野・金峰神社など。金峯山寺大峰山も参照。山号は国軸山。

目次

歴史

草創

天武2年(673)、役小角が山上ケ岳で蔵王権現を感得して涌出岩の上に祀ったのが起源。 行基創建説もあるという。

古代

角乗が天武天皇離宮の日雄殿を寺院として桜本坊を創建

弘仁9年(818)、空海が入峰し竹林院を創建。 聖宝が中興。如意輪観音、多聞天、蔵王権現を祀ったという。 さらに牟田の渡しを設けたとされる。 承和年間、円珍が入峰した時に喜蔵院を創建。 日蔵が入峰。如意輪寺を開いたという。 相応安禅寺を創建。


昌泰元年(898)、宇多上皇が登拝 以来、平安京の貴族に御嶽精進と称して参拝が流行した。 天暦年間には中国にまで金峰山の名が伝わっていた。 白河上皇が登拝 [[藤原道長{{、頼通、師通 永承4年(1049)、興福寺僧の円縁が金峰山検校になり、興福寺の支配下に置かれるようになる。 白河上皇の信任を得た高算が中興。[[安禅寺]{に宝塔を建てた([[報恩]{の建立とも)。また高算が花供懺法会を始めたとされる。

中世

興福寺一乗院末となる。 塔頭寺院は天台宗の寺僧方(衆徒方)と真言宗の満堂方(禅徒方)に分かれる。 嘉禄2年(1226)、吉野衆徒が勝手明神子守明神の神輿を奉じて平安京に強訴。 南北朝時代の延元元年(1336)12月には後醍醐天皇が行幸。 最初は吉水院を行在所としたが、ついで実城寺を行宮として金輪王寺とした。 行宮が置かれた。

貞和4年(1348)、高師直の攻撃で焼失。南朝の行宮は賀名生に移された。


天文3年(1534)、浄土真宗飯貝御坊本善寺が山上蔵王堂を焼き討ち。

織田信長に寺領を没収されるが、文禄4年(1595)9月、豊臣秀吉が853石を改めて寄進。 天正20年、山下蔵王堂(現在の本堂)が再建?

近世

輪王寺宮の管轄下に置かれ、天台宗真言宗兼学になる?

慶長19年11月、大坂冬の陣で交戦中の徳川家康が天海を金峰山寺学頭に任命。 金輪王寺の名は日光に移され、実城寺と称した。

正保元年(1644)、勝手明神焼失。翌年再建。

近代

明治7年、神仏分離。全国的にみればかなり遅い。 明治12年、東南院が復興。

明治19年、山上蔵王堂の仏堂復帰が認められた 明治21年、金峰山寺復興

現代

昭和23年、天台宗から離脱。大峰修験宗を設立。 昭和27年、金峰山修験本宗と改名した。 昭和32年、南朝妙法殿を建立

組織

古代の金峰山検校

興福寺別当が金峰山検校を兼務した。一乗院門跡が多く、大乗院門跡もいる。 このリストはかなり不完全なものらしい

名前 生没 在職 備考
1 懐実 ?-?
2 尋範 1101-1174 興福寺別当。大乗院門跡。藤原師実の子。
3 恵信(慧信) 1124-1171 興福寺別当。一乗院門跡。大覚寺門跡。藤原忠通の子。九条兼実の兄。覚継。
4 信円 1153-1224 興福寺別当。一乗院門跡と大乗院門跡を兼務。大覚寺門跡。藤原忠通の四男。慈円の兄。
5 実尊 1180-1236 興福寺別当。大乗院門跡。藤原基房の子。
6 円実 1214-1272 興福寺別当。大乗院門跡。九条道家の子。
7 実信 1199-1256 興福寺別当。一乗院門跡、大乗院門跡。大覚寺門跡。
8 円実 (再任) (再任)
9 信昭 1253-1286 興福寺別当。一乗院門跡。大覚寺門跡。近衛兼経の子。
10 尊信 1226-1283 興福寺別当。大乗院門跡。九条教実の子。円実の弟子。
11 慈信 1257-1324 興福寺別当。大乗院門跡。
12 覚昭 ?-1308 興福寺別当。一乗院門跡。大覚寺門跡。近衛基平の子
13 良信 1278-1329 興福寺別当。一乗院門跡。大覚寺門跡。鷹司基忠の子。
14 良覚 1292-1333 興福寺別当。一乗院門跡。
15 覚実 1310-1351 興福寺別当。一乗院門跡。近衛家平の子。
16 実玄 ?-1387 一乗院門跡。近衛経忠の子。後醍醐天皇に従い流罪。
17 良昭 1363-1402 興福寺別当。一乗院門跡。近衛道嗣の子。
18 良兼 1385-1414 興福寺別当。一乗院門跡。近衛兼嗣の子。
19 昭円 1408-1472 興福寺別当。一乗院門跡。
20 雄玄 ?-?

(『日本仏家人名辞書』。これは「金峯山検校次第」(『修験道章疏』)[1]によるか)

『金峯山寺史』では 助憲 蔵算 金昭 元昭 澄円 円縁 貞禅 宗賢 懐真 貞禅 行俊 頼実 禅仁 隆寛 尋範 慧信 信円 実尊 良円 範円 実信 信昭 円実 をあげる。

後醍醐天皇を迎えた吉水院宗信は金峰山寺「執行」だったというが不詳。

江戸時代の学頭

天台座主や輪王寺宮を住職とする見方もあるが、学頭を住職とみなしている。幕府から任命されるため公儀学頭とも呼ばれる。学頭は比叡山の高僧が兼任するのが一般的で、吉野にいることは少なかったと思われる。実務は吉野の一山寺院(寺僧方)から選ばれた学頭代が行った。

名前 生没 在職 備考
中興 天海 1536-1643 1614-? 興福寺支配から吉野を切り離し、輪王寺宮の支配下に置く。1614年(慶長19年)金峰山寺学頭に就任。
学頭01 豪俔 ?-1654 1641-? 初代学頭。自坊は延暦寺双厳院。1641年(寛永18年)学頭に就任。学頭の住房として実城寺を再興。
学頭02 最順 1593-1677 1661-? 自坊は延暦寺明王院。1661年(寛文1年)就任。
学頭03 義道(義胤) ?-1706 1683-1691 自坊は延暦寺願王院。1683年(天和3年)就任。1691年(元禄4年)退任。三諦院と号す。
学頭04 章海 1636-1713 1692-? 自坊は延暦寺恵心院(横川学頭)。1692年(元禄5年)就任。証浄院と号す。
学頭05 智周 1659-1743 自坊は延暦寺願王院。『台宗二百題』を執筆。
学頭06 厳覚 ?-1720 自坊は延暦寺恵心院(横川学頭)。成道院と号す。
学頭07 豪禅 ?-1726 1722-? 自坊は延暦寺正覚院(東塔学頭)。1722年(享保7年)就任。大常院と号す。
学頭08 豪雲 ?-1750 ?-1739 自坊は延暦寺正覚院(東塔学頭)。1739年(元文4年)就任。妙禅房と号す。
学頭09 貫統 ?-1744 1739-? 自坊は延暦寺行光坊、延暦寺竹林院。1739年(元文4年)就任。一性院と号す。
学頭10 豪忠 ?-1752 1746-? 比叡山の延暦寺正観院(西塔学頭)、正覚院(東塔学頭)を歴任。1746年(延享3年)就任。非生院と号す。
学頭11 忍達 1694-1780 1752-1767 自坊は延暦寺恵心院(横川学頭)。1752年(宝暦2年)就任。1767年(明和4年)退任。のち寛永寺凌雲院に転任。心浄院と号す。
学頭12 孝賢 ?-1768 1768-1768 自坊は延暦寺恵心院(横川学頭)。1768年(明和5年)就任。同年死去。証道院と号す。
学頭13 良諶 1713-1803 1768-? 自坊は延暦寺恵心院(横川学頭)。1768年(明和5年)就任。到地院と号す。
学頭14 詮栄 1744-1823 1806-? 自坊は延暦寺法満院、延暦寺恵心院(横川学頭)。1806年(文化3年)就任。
学頭15 韶栄 1749-1823 大慧明院と号す。
学頭16 光〓 1771-1841 自坊は延暦寺恵恩院
学頭17 豪順 1782-1857 正定聚院と号す。
学頭18 真洞 ?-1863 1858-? 自坊は延暦寺恵心院(横川学頭)。1858年(安政5年)就任。
学頭19 慈悛 ?-? 1864-1870 自坊は延暦寺正観院(西塔学頭)。1864年(元治1年)就任。1870年(明治3年)退任。
学頭20 藤本道盈 1807-1885 1871-1873? 延暦寺恵心院、延暦寺正覚院を歴任。1873年(明治6年)、妙法院門跡門主42世。(略歴は妙法院#組織を参照)

(『金峯山寺史』)

江戸時代の学頭代

明治以後の住職

20年近く廃絶。復興後、住職は天台宗の「修験道管領」という役職を兼任。戦後の独立後は住職を「管領」と称す。

名前 生没 在職 備考
出雲路順観 1840-1918 1889年(明治22年)10月24日~1897年(明治30年)5月24日 桜本坊住職。
尾上慈純 ?-? 比叡山覚林坊から晋山。
山岡観澄 1844-1911 1900年(明治33年)6月27日~1904年(明治37年)10月19日 曼殊院門跡が本務。天台座主に転任。
薗光轍 1846?-1923 1904年(明治37年)11月~? 妙法院門跡に転任。
稗貫亮算 1852?-1925 1915年(大正4年)4月~1917年(大正6年)8月1日 廬山寺毘沙門堂に転任。
長尾智泉 1869?-1936 1918年(大正7年)7月~1934年(昭和9年)秋 平泉寺鰐淵寺を経て晋山。海外布教を推進。寺院経営を立て直す。
長尾寂泉 1890-1943 1934年(昭和9年)8月28日~1941年(昭和16年)9月5日 智泉の弟子。廬山寺から晋山。1939年(昭和14年)、後醍醐天皇600年忌。宗派合同。
三崎良泉 1892-1976 1941年(昭和16年)9月5日~1947年(昭和22年)9月10日 妙法院門跡門主47世に転任。大無礙光院。(略歴は妙法院#組織を参照)
管領27 五条覚澄 ?-? 1947年(昭和22年)10月~ 東南院住職。金峯山修験本宗初代管長。父は五条順海。近江・西明寺で得度。延暦寺安祥院で学ぶ。大正14年、24歳で東南院住職。昭和22年10月、金峰山寺住職就任。天台宗延暦寺派を離脱。昭和26年、脳天大神を感得。
管領28 五条順教 1926-2009 1971年(昭和46年)~2009年(平成21年) 覚澄の子。2代管長。大正15年11月9日生。大正大学卒。昭和13年得度。昭和44年副住職副管長。昭和46年管領管長。昭和49年、四無行を満行。脳天大神を感得。平成21年5月16日死去。著書に『修験道のこころ』『修験道に学ぶ』など。(『奈良県人物人材情報リスト2017』)
管領29 五条覚堯 ?-? 2009年(平成21年)~2013年(平成25年)7月31日 覚澄の子。3代管長。
管領30 五条覚照 ?-? 2013年(平成25年)8月1日~2015年(平成27年) 覚澄の子。4代管長。
管領31 五条良知 1964- 2015年(平成27年)6月~ 5代管長。五条順教の娘婿。

(『金峯山寺史』ほか)

http://shinden.boo.jp/wiki/%E9%87%91%E5%B3%B0%E5%B1%B1%E5%AF%BA」より作成

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