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鎌倉法華堂
出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-)
法華堂は神奈川県鎌倉市西御門あたりにあった真言宗寺院。源頼朝墓があり、その菩提寺。寺院の名称としての法華堂と、墓廟の建物として法華堂と、両方の意味があるようだ。故将軍法華堂、右大将家法華堂とも。(参考:同名寺院法華堂)
歴史
1189年(文治5年)が良暹を招いて御所の後方の丘陵に持仏堂を創建。現在の源頼朝墓の場所のあたりと考えられている。当初は観音菩薩を祀ったという。 頼朝は1199年(正治1年)1月13日に死去。持仏堂に葬られた。 『吾妻鏡』によると1200年(正治2年)1月13日の一周忌には「法華堂」で「仏事」が営まれ、北条時政らが参列した。 2月2日には北条政子の発願で法華懺法を営んだ。 1203年(建仁3年)10月13日、将軍源実朝が参拝。 11月15日、右大将家法華堂奉行が設置され、安達景盛ら3人が任命された。 1211年(建暦1年)10月13日、鴨長明が参拝。 1247年(宝治1年)6月5日には三浦泰村ら一族500人が法華堂に立て籠もり、源頼朝像の前で自刃して果てた。 1284年(弘安7年)12月13日、鎌倉幕府は田畑4町などを法華堂に寄進。翌年にも追加で寄進している。 1363年(正平18年/貞治2年)5月16日、関東公方足利基氏が武蔵国榛沢郡や秩父郡の地を寄進。
室町時代中頃から鶴岡八幡宮相承院の管理となった。 徳川家康が相承院に法華堂料・別当料を寄進したという。 場所が移動した時期は分からないが江戸時代には丘陵の麓に堂宇があった。 「鶴岡一山拾四箇所由緒写書上」によると本尊は阿弥陀三尊だった。 1779年(安永8年)、鹿児島藩主島津重豪が源頼朝の墓を現在の形に整備した。 明治初年の廃仏毀釈で廃絶し、跡地には1872年(明治5年)に鎌倉・白旗神社が建てられた。
1969年(昭和44年)に丘陵下の発掘調査が行われている。
鎌倉・来迎寺にある如意輪観音坐像・地蔵菩薩坐像・跋陀婆羅尊者像は鎌倉法華堂から神仏分離の時に移されたものと伝わる。
組織
別当
- 1良暹()<1189->:専光坊。
- 公朝
- 顕弁()<1320->:園城寺長吏
- 房朝
- 尊範
- 良助()<1417->:1417年6月19日別当。
- 澄助
- 随心院
- 三宝院