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鑑真旧跡

出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-) 最終更新:2023年11月30日 (木)

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鑑真(がんじん)(688-763)は、律宗の渡来。日本律宗の開祖。律宗南山派の開祖道宣の孫弟子。中国揚州江陽県の出身。淳于氏。東大寺戒壇院唐招提寺を創建。天台宗の典籍を請来したことから天台宗第四祖とされることもある。著作は残していない。弟子に法進、思託、如宝がいる。墓所は唐招提寺にある。御影像が同寺御影堂、同寺開山堂、東大寺戒壇院千手堂などに祀られている。鑑真和上。通称は、過海大師唐大和上

目次

略歴

在唐時代

688年(唐の垂拱4年、日本の持統2年)に誕生。揚州・大雲寺智満に師事し出家。道宣弟子の道岸に菩薩戒を受け、長安実際寺戒壇で荊州南泉寺の弘景(恒景)から具足戒を受ける。弘景は章安灌頂の弟子でもあり、天台宗を教わる。長安と洛陽を行き来し、同門の融済だけでなく相部宗の義威や遠智にも学ぶ。 713年(開元元年)、26歳で故郷の揚州に戻り、大明寺に住す。742年(唐の天宝元年、日本の天平14年)、戒師を探しに日本から入唐した栄叡と普照の請願を受け、訪日を決意。5度の失敗を経て、753年(天平勝宝5年)、6度目の渡海で成功する。失敗の間でも教化活動に励み、在唐中に多数の仏像を造立し、大蔵経を3部も写経、4万回に渡り授戒を行ったという。

6度の渡海

  • 743年(唐の天宝2年、日本の天平15年)6月(56歳):弟子21人一同が盟約して準備をしていたが、弟子の道航が素行不良の如海は連れて行かないように進言したところ、如海が「道航は海賊に通じている」と官庁に讒訴。道航、栄叡、普照は捉えられた。4カ月で釈放されたが、海には実際に海賊が多く、建造した船を没収されたことから停止。
  • 743年(唐の天宝2年、日本の天平15年)12月(56歳):軍船を購入し、出港するが、狼溝浦(根溝浦)という地で暴風雨に会い遭難。寒波に苦しんだという。
    • 年が明けて船を修理して、大坂山に至るが、停船できず、下嶼山に至る。1カ月の風待ちの後、出航して桑名山に向かうが、暴風に会い、船が大破する。水米が尽きて3日間飢える。
  • 744年(唐の天宝3年、日本の天平16年)(57歳):阿育王寺に滞在し、請われて越州、杭州、湖州、宣州などを巡教する。越州の僧侶が渡海計画を官庁に密告。官庁は栄叡を逮捕。栄叡は死んだと偽って脱獄。
  • 744年(唐の天宝3年、日本の天平16年)(57歳):法進らを福州に遣わし、船を買い、渡海の準備をさせる。台州に入り、黄厳県の禅林寺に滞在。しかし、ここで官吏に止められる。弟子の霊祐が鑑真の出国を惜しんで密告したのであった。
  • 748年(唐の天宝7年、日本の天平20年)(61歳):揚州・崇福寺に滞在中、栄叡、普照が来訪。6月27日、寺をたち、新河から出航。常州界狼山を経て越州三塔山で1カ月滞在。暑風山でまた1カ月滞在の後、出航するが、暴風雨に阻まれる。皆、死を覚悟したが、沈没を免れた。水や食料が尽き、2カ月の漂流の後、陸地を発見。14日して岸に着き、3日後に摂州江にたどり着く。現地で州城に迎えられる。
    • 大雲寺に滞在。万安州に行き、岸州に至る。開元寺に入る。悟州を経て、端州に着くが、端州龍興寺で栄叡が死去。詔州で法泉寺、開元寺に入るが、天宝9年、ここで普照と離別する。鑑真は明州の阿育王寺に向かう。この頃、失明する。吉州で祥彦が死去。揚州に帰り、龍興寺、崇福寺、大明寺、近光寺などで講じる。
  • 753年(唐の天宝12年、日本の天平勝宝5年)(66歳):前年に到着した藤原清河を大使とする日本の遣唐使(大伴古麻呂、吉備真備ら)は皇帝に正式に鑑真の渡日を請願していたが、皇帝から「道教の道士も連れて行け」と言われ困惑。申請を取り下げた。10月15日、揚州近光寺滞在中、鑑真を日本の遣唐使一行が訪問。19日、龍興寺を出て乗船。蘇州黄〓津に向かう。出航直前で発覚を恐れて大使が下船を命じるが、11月10日夜半、副使の大伴古麻呂は、密かに鑑真を乗船させる。13日、普照が吉備真備の船に乗船。15日、4船で出航。3船は暴風に会うが、鑑真の乗った船のみが無事に12月20日に薩摩国に至った。普照の乗った吉備真備の船は翌年、紀伊国の牟呂崎(潮岬)に漂着した。大使の船は唐に引き返していたという。

来日後

僧14人、尼3人、在家信者(優婆塞)らの計24人は、薩摩国坊津に上陸。大宰府で年を越し、翌年2月1日、難波津に到着。3日には河内国府に入る。そして翌4日に迎えの勅使と共に平城京に入り、東大寺を滞在所とした。同年4月、東大寺大仏殿前に設けられた仮設の戒壇聖武上皇光明皇后孝謙天皇らに受戒。続いて440人が受戒した。日本で初めての三師七証の授戒となった。翌年9月、東大寺戒壇院を創建。756年(天平勝宝8年)、大僧都に任命されたが、老齢のため退任。大和上となる。759年(天平宝字3年)、平城京右京五条二坊の地を与えられ、唐招提寺を創建した。

一覧

典籍

  • 『大唐伝戒師僧名記大和上鑑真伝』:没後まもなく編纂された伝記。3巻。鑑真に随行して来日した思託が記した伝記。『大和上伝』『大和尚伝』ともいう。淡海三船の著作に対して『広伝』ともいう。現存せず、逸文しか伝わらない。
  • 『唐大和上東征伝』:淡海三船が思託の著作を元に再編集した伝記。779年(宝亀10年)。1巻。『鑑真和尚東征伝』『鑑真過海大師東征伝』『過海大師東征伝』『東征伝』ともいう。思託の著作に対して『略伝』ともいう。
  • 『延暦僧録』:788年(延暦7年)成立の平安時代初頭までの多数の僧俗を記した伝記集。作者は思託。現存せず、逸文が伝わるのみ。
  • 『鑑真和上三異事』:831年(天長8年)、孫弟子にあたる唐招提寺5世豊安が記した伝記。平安時代の抄本が現存。
  • 『東征伝絵巻』:戒律復興に尽力した忍性が制作した伝記絵巻。1298年(永仁6年)成立。『唐大和上東征伝』と『鑑真和上三異事』を元に制作された。唐招提寺に奉納。同寺に現存して重文。『東征絵巻』『東征絵伝』ともいう。


参考文献

  • 『日本仏家人名辞書』
  • 東野治之、2009『鑑真』岩波新書
http://shinden.boo.jp/wiki/%E9%91%91%E7%9C%9F%E6%97%A7%E8%B7%A1」より作成

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