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長安・太清宮

出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-)

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太清宮は、唐代長安大寧坊にあった、唐の道教の中心となった、老子を祀る国家的な道観。玄宗が長安洛陽と諸州に設置した玄元皇帝廟の一つで、各地の太清宮の主要な一つでもある。道士を要請する国立大学だった崇玄学(崇玄館)も設置された。唐朝が滅亡してからも北宋の時代まで存続した。

天宝元年(742)、田同秀(でんどうしゅう)という者が、大明宮の正門である丹鳳門の前で老子に出会ったと玄宗に報告。さらに老子がインドの仏陀に説教するために旅に出たという関所に護符が埋蔵してあるので探せ、というのである。果たして護符は発見され、これを受けて、玄元皇帝廟太上玄元皇帝宮)が創建されたという。ただし、既に前年の開元29年(741)、両京諸州に玄元皇帝廟を設置せよとの命令を下していた。

長安の廟は天宝2年(743)に太清宮となった。荘厳な社殿を持ち、南門の正門を瓊華門、東門を九霊門、西門を三清門という。500人の衛兵が守っていた。本殿の三清殿の東には皇帝用の御斎院があり、西には公卿のための斎院があった。

本殿には霊山太白山の石で彫られた老子像が奉安された。左右には玄宗の像や李林甫、陳希烈、楊国忠などの大臣・高官の像が祀られた。政変などによって改廃があった。また道教で重視された荘子文子列子庚桑子のほか、道教では老子の弟子とされた孔子の像も置かれた。呉道子の老子肖像画も掲げられていた。


崇玄学では宰相が責任者となり、2人の教師と100人の学生、さらに20人写経生がいた。洛陽太徴宮にも同様の学館があった。上元(1/15)、中元(7/15)、下元(10/15)の三元の日には、公卿を対象とした講義が行われた。地位の高い家の子弟が入学し、3年間学んだ。玄宗のお気に入りだった尹愔(いいん)のほか、李琪(りき)、劉玄静、劉崇政らが教壇に立った。


(土屋昌明、2002『神仙幻想』春秋社)

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