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長安・西明寺

出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-) 最終更新:2015年5月15日 (金)

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'''西明寺'''は、唐の都[[長安]]にあった、皇帝が建てた寺院。
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'''西明寺'''(さいみょうじ)は、唐の都[[長安]]延康坊にあった、皇帝創建の寺院。長安の代表的寺院の一つで、[[玄奘]]、[[道宣]]、[[空海]]の旧跡。[[律宗]]と[[法相宗]]を中心とした。インドの[[祇園精舎]]を模したとも言われ、また日本の[[大安寺]]は、当寺を模して建てられたとも伝えられている。訳経所が置かれ、『虚空蔵求聞持法』など重要経典が漢訳された。また日本からの留学生・留学僧の多くが当寺に滞在した。唐末に廃絶したらしい。(参考:同名寺院[[西明寺]])
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==沿革==
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延康坊の面積の四分の一を占め、西南隅にあったという(『大慈恩寺三蔵法師伝』)。顕慶元年(656)2月、[[高宗]]と[[則天武后]]が皇子李賢(章懐太子)の病気平癒を祈願して[[東明観]]と同時に発願。[[玄奘]]が責任者となって造営し、顕慶2年(657)6月、落慶法要が行われた。勅願のため、豪華な伽藍が多数建てられたという。上座に[[道宣]]、寺主に'''神泰'''、維納に'''懐素'''が就任した。寺名の「西」は仏教を意味し、仏教を「明」らかにする、つまり訳経所として計画されていたという。玄奘は完成した西明寺で訳経を続けるが、1年余りで玉華宮に移した。
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永淳2年(683)、'''仏陀波利'''が『仏頂尊勝陀羅尼経』を翻訳。長安3年(703)、[[義浄]]が『金光明最勝王経』を翻訳。開元5年(717)、[[善無畏]]は、子院菩提院で『虚空蔵求聞持法』を翻訳。翌年入唐僧[[大安寺]][[道慈]]がこれをすぐに持ち帰って、日本にも影響を与えた。
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日本の留学生のほとんどがこの寺に止宿したという。道慈のほか、'''永忠'''は貞元21年(805)まで30年間滞在したが、彼が離れた後に入ったのが[[空海]]であった。貞元21年(805)2月10日以降、空海はここを拠点として各所に赴き、密教の修得に励んだのである。
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牡丹が有名で、白居易らが題材としている。
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会昌5年(845)の会昌の廃仏に際しては、[[大慈恩寺]]、[[大薦福寺]]、[[大荘厳寺]]とともに存続を許された。
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唐末、昭宗の時代、朱全忠が実権を握ると、天祐元年(904)、自らの拠点であった[[洛陽]]への遷都を強行。新都建設のために長安の建物がみな解体されて運ばれたという。このとき、西明寺も解体されて廃絶となったと考えられている。
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==関係が深い名僧==
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<>は入唐期間、あるいは長安滞在期間
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*[[玄奘]](602?~664)<657-658?>:渡印僧。訳経僧。西明寺を創建。一年余りで訳経所を玉華宮に移す。
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*[[道宣]](596~667)<657-664>:西明寺初代上座。律宗開祖。57部261巻の著作のうち、律以外の36部224巻のほとんどは当寺で書かれたという。麟徳元年(664)浄業寺に移る。
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*'''神泰'''(生没年不詳):西明寺初代寺主。玄奘の弟子。著書も多い。日本の定恵の師。
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*'''懐素'''(624-697):西明寺初代維納。玄奘・道宣の弟子。のち東塔宗開祖。(書家としても著名な懐素は別人)
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*'''道世''':律僧。道宣の弟弟子。総章元年(668)、『法苑珠林』100巻を著述。『四分律討要』。
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*仏陀波利(7世紀):インド僧。五台山巡礼に中国に来た。永淳2年(683)、当寺で『仏頂尊勝陀羅尼経』を翻訳。
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*'''円測'''(えんじき)(613―696):新羅王族出身の僧。玄奘の弟子。門下は、[[窺基]]の[[慈恩寺]]派に対して'''西明寺派'''と呼ばれ、異端とみなされる。西明円測。
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*[[義浄]](635~713):長安3年(703)、『金光明最勝王経』を翻訳。
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*[[道慈]](?~744)<702~718>:日本の留学僧。当寺に滞在したという確かな記録はないが、定説化している。善無畏に密教を学ぶ。『金光明最勝王経』『虚空蔵求聞持法』を日本にもたらした。
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*[[善無畏]](637~735)<716~724>:インドの僧。当寺で『虚空蔵求聞持法』を漢訳。洛陽で『大日経』を訳し、日本では真言宗伝持八祖の第五とされる。
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*[[般若]](生没年不詳):北インドの僧。[[醴泉寺]]に住す。西明寺での訳経に従事。空海が師事する。
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*[[円照]](719~800):律僧。[[不空]]、道宣の弟子。
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*'''永忠'''(743-816)<777-805>:日本の留学僧。約30年間、長安に滞在。多くの経典を日本に持ち帰った(『梵釈寺目録』)。帰国後、[[梵釈寺]]を開く。
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*[[空海]](774~835)<804-806>:日本の留学僧。日本真言宗開祖。
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*'''円載'''(?-877)<838-877>:日本の留学僧。[[最澄]]の弟子。天台教義の疑義を[[天台山]]に呈し、解答を日本に送った。貞観6年(864)、高岳親王が長安に来た時には世話をした。40年間唐に滞在、帰国途中に遭難死した。
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*[[高岳親王]](799頃~865頃)<864>:日本の留学僧。[[平城天皇]]皇子。空海の弟子。貞観4年(862)入唐。貞観6年(864)長安に到着し、西明寺にいた円載に迎えられた。のちインドに向かったとされる。
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*'''宗叡'''(809-884)<864>:日本の留学僧。高岳親王とともに入唐。貞観7年(865)帰国。
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==訳経==
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*般若『大乗理趣六波羅蜜経』10巻
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*善無畏『虚空蔵求聞持法』
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*仏陀波利・順貞『仏頂尊勝陀羅尼経』
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==参考文献==
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*静慈圓、2003『空海入唐の道』朱鷺書房
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*山崎久雄、2002『長安幻想とシルクロードの旅』文芸社
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*遠藤證圓、2004『鑑真和上―私の如是我聞』文芸社
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[[祇園精舎]]を模して建てられたとも言われている。
 
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日本の[[大安寺]]は、当寺を模して建てられたとも言われている。
 
[[category:中華人民共和国陝西省]]
[[category:中華人民共和国陝西省]]

2015年5月15日 (金) 時点における最新版

西明寺(さいみょうじ)は、唐の都長安延康坊にあった、皇帝創建の寺院。長安の代表的寺院の一つで、玄奘道宣空海の旧跡。律宗法相宗を中心とした。インドの祇園精舎を模したとも言われ、また日本の大安寺は、当寺を模して建てられたとも伝えられている。訳経所が置かれ、『虚空蔵求聞持法』など重要経典が漢訳された。また日本からの留学生・留学僧の多くが当寺に滞在した。唐末に廃絶したらしい。(参考:同名寺院西明寺

目次

沿革

延康坊の面積の四分の一を占め、西南隅にあったという(『大慈恩寺三蔵法師伝』)。顕慶元年(656)2月、高宗則天武后が皇子李賢(章懐太子)の病気平癒を祈願して東明観と同時に発願。玄奘が責任者となって造営し、顕慶2年(657)6月、落慶法要が行われた。勅願のため、豪華な伽藍が多数建てられたという。上座に道宣、寺主に神泰、維納に懐素が就任した。寺名の「西」は仏教を意味し、仏教を「明」らかにする、つまり訳経所として計画されていたという。玄奘は完成した西明寺で訳経を続けるが、1年余りで玉華宮に移した。

永淳2年(683)、仏陀波利が『仏頂尊勝陀羅尼経』を翻訳。長安3年(703)、義浄が『金光明最勝王経』を翻訳。開元5年(717)、善無畏は、子院菩提院で『虚空蔵求聞持法』を翻訳。翌年入唐僧大安寺道慈がこれをすぐに持ち帰って、日本にも影響を与えた。

日本の留学生のほとんどがこの寺に止宿したという。道慈のほか、永忠は貞元21年(805)まで30年間滞在したが、彼が離れた後に入ったのが空海であった。貞元21年(805)2月10日以降、空海はここを拠点として各所に赴き、密教の修得に励んだのである。

牡丹が有名で、白居易らが題材としている。

会昌5年(845)の会昌の廃仏に際しては、大慈恩寺大薦福寺大荘厳寺とともに存続を許された。

唐末、昭宗の時代、朱全忠が実権を握ると、天祐元年(904)、自らの拠点であった洛陽への遷都を強行。新都建設のために長安の建物がみな解体されて運ばれたという。このとき、西明寺も解体されて廃絶となったと考えられている。

関係が深い名僧

<>は入唐期間、あるいは長安滞在期間

  • 玄奘(602?~664)<657-658?>:渡印僧。訳経僧。西明寺を創建。一年余りで訳経所を玉華宮に移す。
  • 道宣(596~667)<657-664>:西明寺初代上座。律宗開祖。57部261巻の著作のうち、律以外の36部224巻のほとんどは当寺で書かれたという。麟徳元年(664)浄業寺に移る。
  • 神泰(生没年不詳):西明寺初代寺主。玄奘の弟子。著書も多い。日本の定恵の師。
  • 懐素(624-697):西明寺初代維納。玄奘・道宣の弟子。のち東塔宗開祖。(書家としても著名な懐素は別人)
  • 道世:律僧。道宣の弟弟子。総章元年(668)、『法苑珠林』100巻を著述。『四分律討要』。
  • 仏陀波利(7世紀):インド僧。五台山巡礼に中国に来た。永淳2年(683)、当寺で『仏頂尊勝陀羅尼経』を翻訳。
  • 円測(えんじき)(613―696):新羅王族出身の僧。玄奘の弟子。門下は、窺基慈恩寺派に対して西明寺派と呼ばれ、異端とみなされる。西明円測。
  • 義浄(635~713):長安3年(703)、『金光明最勝王経』を翻訳。
  • 道慈(?~744)<702~718>:日本の留学僧。当寺に滞在したという確かな記録はないが、定説化している。善無畏に密教を学ぶ。『金光明最勝王経』『虚空蔵求聞持法』を日本にもたらした。
  • 善無畏(637~735)<716~724>:インドの僧。当寺で『虚空蔵求聞持法』を漢訳。洛陽で『大日経』を訳し、日本では真言宗伝持八祖の第五とされる。
  • 般若(生没年不詳):北インドの僧。醴泉寺に住す。西明寺での訳経に従事。空海が師事する。
  • 円照(719~800):律僧。不空、道宣の弟子。
  • 永忠(743-816)<777-805>:日本の留学僧。約30年間、長安に滞在。多くの経典を日本に持ち帰った(『梵釈寺目録』)。帰国後、梵釈寺を開く。
  • 空海(774~835)<804-806>:日本の留学僧。日本真言宗開祖。
  • 円載(?-877)<838-877>:日本の留学僧。最澄の弟子。天台教義の疑義を天台山に呈し、解答を日本に送った。貞観6年(864)、高岳親王が長安に来た時には世話をした。40年間唐に滞在、帰国途中に遭難死した。
  • 高岳親王(799頃~865頃)<864>:日本の留学僧。平城天皇皇子。空海の弟子。貞観4年(862)入唐。貞観6年(864)長安に到着し、西明寺にいた円載に迎えられた。のちインドに向かったとされる。
  • 宗叡(809-884)<864>:日本の留学僧。高岳親王とともに入唐。貞観7年(865)帰国。

訳経

  • 般若『大乗理趣六波羅蜜経』10巻
  • 善無畏『虚空蔵求聞持法』
  • 仏陀波利・順貞『仏頂尊勝陀羅尼経』

参考文献

  • 静慈圓、2003『空海入唐の道』朱鷺書房
  • 山崎久雄、2002『長安幻想とシルクロードの旅』文芸社
  • 遠藤證圓、2004『鑑真和上―私の如是我聞』文芸社
http://shinden.boo.jp/wiki/%E9%95%B7%E5%AE%89%E3%83%BB%E8%A5%BF%E6%98%8E%E5%AF%BA」より作成

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