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長門・阿弥陀寺
出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-)
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[[File:Akama-jingu_012.JPG|安徳天皇陵 拝所(御影堂跡)|thumb|250px]]'''阿弥陀寺'''(あみだじ)は、山口県下関市にある[[安徳天皇]]菩提寺の寺院。明治維新の際に廃絶し、境内'''御影堂'''が独立して[[赤間神宮]]となった。(参考:同名寺院[[阿弥陀寺]]) == 歴史 == [[File:Akama-jingu_004.jpg|赤間神宮 鎮守八幡宮|thumb|250px]] 縁起によると[[石清水八幡宮]]を創建した'''[[行教]]'''が、[[八幡信仰|八幡神]]より西海を鎮護すべしとの神託を受けて、859年(貞観1年)に創建したとされる。[[阿弥陀信仰|阿弥陀三尊]]を本尊とし、鎮守として八幡宮を創建したという。1185年(文治1年)の壇ノ浦の戦いで、安徳天皇は入水して崩御したが、縁起によると、その後、海中より尊骸を引き上げて、当山に埋葬し、陵の上に御影堂を建てて、安徳天皇木像を奉安したという。建礼門院女官の少将局というものが命阿尼と称して尼となったという。 実際の創建は、やはり朝廷が安徳天皇の菩提寺創建を議したときに始まると思われる。史料上においては、その創建の事情が『玉葉』に詳しく述べられている。 1191年(建久2年)閏12月に朝廷で崇徳天皇と安徳天皇の菩提を弔うための堂宇創建の議が持ち上がった。崇徳天皇については、すでに頓証寺殿があることから寺領に官符を下すことになったが、安徳天皇については、新たに一堂が創建されることになった。ただし崇徳院と同様に、神社に擬さないので奉幣のことはないとされた。 中世には、[[浄土宗]]西山派本山流となっていた。近世初期までに[[真言宗]]となったという。 たびたび焼失したが、1615年(元和1年)に伽藍造営が行われた。 江戸時代には境内に朝鮮通信使の迎接施設が設置されていた。1748年(寛延1年)の来日の際には、鎮守八幡宮が遷座させて迎接施設が建設された。 崩御日とされる毎年3月24日に先帝会が行われていた。これは現在も赤間神宮において先帝祭として行われている。 1870年(明治3年)、廃絶となり、安徳天皇社([[赤間神宮]])となった。 ついで、御影堂跡が[[安徳天皇陵]]に定められた。 ==組織== ===歴代住職=== *行教 *50瑞泉()<>:還俗。大司盛親。 ==伽藍== 本堂、鎮守八幡宮、御影堂があった。本堂には阿弥陀三尊が祀られていたという。鎮守八幡宮は行教が創建したとされる八幡宮である。御影堂は安徳天皇陵の伝承地の上に建てられた堂宇で、安徳天皇像が祀られていた。御影堂の障子絵が「安徳天皇縁起」として現存している。 ==参考文献== *伊藤久子・三宅理一・渡辺洋子 2000「江戸期港町における迎接施設に関する研究 : その1 下関(赤間関)の阿弥陀寺に関する考察」『学術講演梗概集2000』 *牛山佳幸1990年(平成2年)「続・中世の尼寺ノート(その1)」『信州大学教育学部紀要』70 [[category:山口県]]
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