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陽成天皇陵

出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-) 最終更新:2020年6月28日 (日)

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949年(天暦3年)9月20日に崩御した。神楽岡の東に葬られたが、近くに母藤原高子が創建した東光寺があったからだという。
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[[file:Kokudo0088.jpg|thumb|300px|陽成天皇神楽岡東陵(国土地理院空中写真より)]]
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所在不明となり、江戸時代には諸説あったが、文久の修陵に際して、現在地の塚が比定された。八角墳のかたちに造営された。文久山陵図229
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'''陽成天皇陵'''は、京都府京都市左京区神楽岡にある[[陽成天皇]]の[[陵墓]]。949年(天暦3年)9月20日に崩御した。神楽岡の東に葬られたが、近くに母藤原高子が創建した岡崎[[京都・東光寺|東光寺]]があったからだという。のち所在不明となり、江戸時代には諸説あったが、文久の修陵に際して、現在地の塚が比定された。八角墳のかたちに造営された。文久山陵図229
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[[file:Kokudo0084.jpg|thumb|300px|大元宮周辺(国土地理院空中写真より)]]
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[[file:Kokudo0080.jpg|thumb|300px|吉田山周辺(国土地理院空中写真より)]]

2020年6月28日 (日) 時点における最新版

陽成天皇神楽岡東陵(国土地理院空中写真より)

陽成天皇陵は、京都府京都市左京区神楽岡にある陽成天皇陵墓。949年(天暦3年)9月20日に崩御した。神楽岡の東に葬られたが、近くに母藤原高子が創建した岡崎東光寺があったからだという。のち所在不明となり、江戸時代には諸説あったが、文久の修陵に際して、現在地の塚が比定された。八角墳のかたちに造営された。文久山陵図229

大元宮周辺(国土地理院空中写真より)
吉田山周辺(国土地理院空中写真より)


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