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霊仙寺
出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-)
霊仙寺
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'''霊仙寺'''(りょうせんじ)は、福岡県田川郡添田町(豊前国田川郡)の[[英彦山]]にあった[[天台]][[修験]]の[[修験道の本山寺院|本山級寺院]]。本尊は釈迦如来。(参考:同名寺院[[霊山寺]]) == 組織 == ===歴代座主(古代)=== *善正:開山。 *忍辱:2世。藤原恒雄 *木練()<>:阿蘇山 *蔵慶()<>:建暦年間(1211-1213)に[[博多・善導寺]]を創建。 ===歴代座主(中世~近世)=== 歴代の名は華族編入の際に政府に提出された「英彦山高千穂家系」[https://www.digital.archives.go.jp/das/image/M0000000000000089992]に基づくが、実際のところ、13世連忠のあたりまでの経歴はよく分からない。6世有厳の史料に現れる年代が特に不自然。有謙は就任前に早世したのでここでは含めていない。また「家系」には昌千代は含まれていないが、座主を称していたので含めた。経歴は広渡正利『英彦山信仰史の研究』を参考にした。(未見『彦山修験伝法嗣法譜』[http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/952663/162]、『彦山修験伝法血脈譜』[http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/952663/163]) {|class="wikitable" |+ !style="width:5%;"|世数 !style="width:10%;"|名 !style="width:10%;"|生没年 !style="width:10%;"|在職年 !style="width:40%;"|略歴 |- |1 |助有法親王 |1320-1349 |1333-1349 |[[後伏見天皇]]第六皇子と伝える。[[円満院門跡]]・[[園城寺]]長吏を務めた長助法親王とみなされるが実際は違うとみられる。室は宇都宮信勝の娘。1333年(元弘3年/正慶2年)12月、[[黒川院]]に入り座主となる。以後、世襲。1349年(正平4年/貞和5年)10月14日死去。 |- |2 |浄有 |生没年不詳 | |助有の子。室は一条経通の娘。正平年間(1346-1370)に在職か。 |- |3 |有忠 |?-1413 |?-1413 |浄有の子。室は今出川公直の娘。1413年(応永20年)9月21日死去。 |- |4 |有俊 |生没年不詳 |1414-1421- |有忠の子。室は一条兼良の娘。1414年(応永21年)5月8日就任。「有俊」の名がある1421年(応永28年)の[[高木神社]]棟札がある。 |- |5 |有依 |生没年不詳 | |有俊の子。室は勧修寺経豊の娘。 |- |6 |有厳 |生没年不詳 |?-1503-? |有依の弟。室は高辻長則の娘。1503年(文亀3年)在職?? |- |7 |頼有 |生没年不詳 |?-1468-? |有厳の子。室は花山院持忠の娘。1468年(応仁2年)、黒川院藤原俊幸と名乗って朝鮮に修好を求めている。 |- |8 |堯有 |生没年不詳 | |頼有の子。室は久我通尚の娘。 |- |9 |興有 |生没年不詳 | |堯有の子。早世。黒川に墓。 |- |10 |有胤 |生没年不詳 | |柳原量光の次男。室は堯有の娘。 |- |11 |有信 |生没年不詳 |?-1520-? |有胤の子。室は大蔵種資の娘。1520年(永正17年)在職。 |- |12 |連有 |生没年不詳 |?-1544-? |有信の子。室は福井弾正の娘。1544年(天文13年)在職。 |- |13 |連忠 |?-1569 |?-1569 |連有の子。室は宇都宮奥房の娘。1569年(永禄12年)3月、大友家に対し佐田岳で挙兵。5月7日死去。 |- |14 |舜有 |?-1587 |1569-1587 |連忠の弟(蓮有の弟とも)。室は坂本随鴎の娘。1569年(永禄12年)8月1日就任。黒川院に住んだ最後の座主。黒川に墓2所。1587年(天正15年)6月5日死去。 |- | |昌千代 |生没年不詳 |1587-? |舜有の孫娘。女性座主。歴代に数えないことが多い。 |- |15 |忠有 |?-1626 |1601-1626 |日野輝資の次男。室は秋月種長の娘(舜有の外孫)。元は[[相国寺]]の僧で玄賀と称した。1601年(慶長6年)4月22日就任決定。9月15日入山。1626年(寛永3年)8月6日死去。 |- |16 |有清 |?-1653 |1626-? |久我晴道の子。岩倉具堯の猶子。室は忠有の娘。1626年(寛永3年)就任。1653年(承応2年)2月18日死去(1654年(承応3年)とも)。有憲? |- |17 |亮有 |1629-1674 |1653-1674 |有清の長男。室は花山院安好の娘。1653年(承応2年)3月就任。1674年(延宝2年)4月27日死去。霊鷲院と号す。 |- |18 |広有 |1652-1679 |1674-1679 |亮有の長男。1674年(延宝2年)6月1日就任。1675年(延宝3年)4月29日参内。1679年(延宝7年)1月28日、江戸で死去。 |- |19 |相有 |1654-1714 |1679-? |英彦山中興。亮有の次男。室は清閑寺照房の娘。1679年(延宝7年)4月就任。1694年(元禄7年)、英彦山は[[聖護院]]配下ではないと幕府に訴える。1706年(宝永3年)退任。1714年(正徳4年)12月28日死去。詩歌を得意とし、文人と交わった。厳王院と号す。 |- |20 |保有 |1685-1743 |1706-? |相有の子。室は堀川康綱の娘。1706年(宝永3年)就任。1711年(正徳1年)、病気で退任。1743年(寛保3年)10月16日死去。 |- |21 |有誉 |1687-1765 |1711-1755 |相有の次男。最初は桜井主馬と称す。室は綾小路有胤の娘。1711年(正徳1年)12月就任。1728年(享保13年)参内して霊元法皇に謁見。1755年(宝暦5年)退職。1765年(明和2年)9月21日死去。 |- |22 |孝有 |?-1772 |1755-1772 |有誉の子。室は清閑寺秀忠の娘。1755年(宝暦5年)就任。1772年(安永1年)7月18日死去。 |- |23 |韶有 |1755-1773 |1772-1773 |中山愛親の次男。花山院常雅の猶子となる。1768年(明和5年)、男子なき孝有の養子に入る。1772年(安永1年)7月就任。1773年(安永2年)6月19日死去。早世。 |- |24 |妙有 |1759-1811 |1774-1811 |持明院宗時の次男。花山院常雅の猶子となる。室は孝有の五女。1774年(安永3年)10月28日就任。1806年(文化3年)嫡子有謙が死去。1811年(文化8年)12月22日死去。 |- |25 |有宣 |1781-1829 |1811-1829 |鷹司政煕の子。室は一条忠良の娘。1806年(文化3年)妙有の養子に入る。1811年(文化8年)12月就任。1829年(文政12年)9月24日死去。 |- |26 |教有 |1825-1872 |1831-1868 |最後の英彦山座主。有宣の子。鷹司政通の猶子。1829年(文政12年)に父が死去するが、幼年につき院代が代務。1831年(天保2年)就任。通綱。1863年(文久3年)英彦山事件を起こす。1868年(明治1年)9月還俗。1869年(明治2年)2月2日高千穂姓を与えられた。同年[[英彦山神社]]宮司。1872年(明治5年)8月11日死去。甘露明王院と号す。 |} [[Category:福岡県]]
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