ようこそ『神殿大観』へ。ただいま
試験運用中
です。
霊明神社
出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-)
霊明神社
のソース
移動:
案内
,
検索
以下に示された理由により、このページの編集を行うことができません:
この操作は、
利用者
のグループに属する利用者のみが実行できます。
ページ
名前空間にあるページを編集する権限がありません。
このページのソースを閲覧し、コピーすることができます:
[[file:Kokudo0143.jpg|thumb|300px|霊明神社と霊山正法寺(国土地理院空中写真より)]] '''霊明神社'''は、京都府京都市東山区の霊山(りょうぜん)にある神社。祭神は[[天御中主尊]]・[[熊野大神]](菊理媛尊・速玉男命・事解男命)。相殿は[[天照皇大神]]・[[猿田彦大神]]・[[天鈿女命]]・[[武甕槌命]]・[[経津主命]]。 [[神葬祭]]のための神社。[[京都霊山護国神社]]や[[霊山官修墳墓]]の母体となった。[[霊山正法寺]]の境内の一画に開かれた。村社だった[https://dl.ndl.go.jp/pid/950471/1/329] '''霊明舎'''。 ==歴史== *1807年:猿田彦神石を譲り受ける *1809年:村上都愷、正法寺清林庵の一画の500坪を購入して神葬祭墓地として霊明舎を開設。8月3日付の証文が残る。 *1809年11月:村上都愷、天御中主神と熊野三神を勧請 *1812年5月:さらに500坪購入 *1849年2月:社務所兼住居竣工 *1849年9月:正法寺子院往生院の土地900坪を入手。後の西墓地。 *1855年:吉田家より神葬祭の永世許状を1843年12月の日付で得る。 *1856年11月:清林庵からも神葬祭の永代許可を得る *1862年4月13日:山口藩の松浦亀太郎が行方不明となり死体で発見された。久坂玄瑞によって霊山墓地に神葬された。志士の埋葬は初。 *1862年11月18日:8月8日に絵堂で死去した長門清末藩の船越清蔵の招魂祭を霊明舎で、曇華院に仕える吉田玄蕃の依頼により山口藩50人が参列して執行(参列者の名前は不明)。以後、山口藩との関係を深める。 *1862年12月14日:霊明舎に勤王志士ら66人が集まり、古川み行を斎主として招魂祭を執行。[https://dl.ndl.go.jp/pid/991735/1/452][https://dl.ndl.go.jp/pid/816146/1/16][https://dl.ndl.go.jp/pid/897813/1/17][https://dl.ndl.go.jp/pid/1685064/1/59] *1863年3月8日:伊藤博文の依頼で内乱で死した4人の藩士を埋葬。 *1864年7月19日:禁門の変。山口藩が賊軍となったため、霊明舎の活動に嫌疑を掛けられる。 *1867年11月15日:坂本龍馬暗殺。霊山墓地に埋葬。 *1868年1月16日:山口藩士の祭典 *1933年:社殿改築 *1934年:室戸台風で社殿倒壊。 *2009年:本殿再建。 ==境内== *本社 *猿田彦神石:源融の河原院の邸内に祀られていた道祖神という。 *御霊屋 *西墓地 *南墓地 <Gallery widths="200" heights="150" perrow="3"> File:霊明神社_(1).JPG|霊明神社 File:霊明神社_(2).JPG|霊明神社 File:霊明神社・西墓地_(1).JPG|西墓地 File:霊明神社・西墓地_(2).JPG|西墓地 File:霊明神社・西墓地_(3).JPG|西墓地 File:霊明神社・西墓地_(4).JPG|西墓地 File:霊明神社・西墓地_(5).JPG|西墓地 File:霊明神社・西墓地_(6).JPG|西墓地 File:霊明神社・西墓地_(7).JPG|西墓地 File:霊明神社・西墓地_(8).JPG|西墓地 </Gallery> == 組織 == [[file:Kokudo0139.jpg|thumb|300px|霊山観音・京都霊山護国神社・霊明神社・霊山正法寺(国土地理院空中写真より)]] [[file:Kokudo0140.jpg|thumb|300px|霊山周辺(国土地理院空中写真より)]] ===歴代神主=== 宮司に当たる職として「神主」の称を現在も用いている。源氏を称す。 *1村上都愷(1752-1819)<1809-1819>:彦根藩士小倉貫仲の子。1852年生。金森藩村上家に預けられた。1756年、京都博多町の長谷川家の養子となる。1808年11月9日、白川家から神拝式作法を伝授される(霊明神社記録)。1809年、霊明舎を創設。1811年閏2月1日、白川家に正式に入門(白川家門人帳)。また文化年間、吉田家からも神葬祭の許状を得た。1819年閏4月26日死去。68歳。日向目。「くにやす」。 *2村上美平(1790-1843)<1820-1843>:村上都愷の子。1790年生。1820年8月、吉田家より神葬祭許状(詳細な式次第を記す)。1823年11月、吉田家より風折烏帽子狩衣着用許可。1825年前後、土御門家に仕えていた。1843年7月死去。54歳。丹波。「よしひら」。 *3村上都平(1821-1879)<1843-1878>:霊明神社祠掌。村上美平の次男。1821年生。初名は都栄。勤王志士と交流。1855年、吉田家より神葬祭の永世許状を1843年12月の日付で得る。1864年禁門の変で山口藩が賊軍となり、嫌疑が掛かる。一旦、霊明舎を離れ、市井を転々とする。1878年(明治11年)9月16日退任。1879年(明治12年)5月12日死去。59歳。主税のち、丹波、常陸。「くにひら」。 *4村上歳太郎(1842-1920)<1878-1884>:村上都平の長男。1842年(天保13年)生。1869年(明治2年)、新貞老の仲介で佐渡県庁に勤務。1872年(明治5年)2月退職。1877年(明治10年)6月、教導職所属。1878年(明治11年)9月16日、霊明神社祠掌。10月、「招魂社社務」となる。1879年(明治12年)10月10日教導職試補。31日、養正社に招魂社勤務の願書を提出。1884年(明治17年)2月9日家督を譲る。1920年(大正9年)8月2日死去。村上都順とも。 *5村上市次郎(1867-1923)<1884-1923>:村上歳太郎の長男。黒住教に入る。宗忠神社社掌。1923年10月8日死去。57歳。 *6村上春一()<1923->:村上市次郎の長男。 *7村上寿延(1921-2015)<1962-2007>:1921年(大正10年)生。1941年(昭和16年)京都国学院卒。平安神宮、伏見稲荷大社、安井金比羅宮などに奉職。1951年(昭和26年)、霊明神社「社家」。1962年代表役員・神主。94歳。 *8村上繁樹(1948-)<>: ==資料== *村上繁樹2022『幕末勤王志士と神葬』 *『霊明神社神名帳』:『幕末勤王志士と神葬』所収 *「猿田彦命神石略伝」:村上都愷著。1811年。 *1868「霊明神社記録」 *1888「霊明神社記録」 *1926『霊明誌1』 *1927『霊明誌2』 *1969『霊明誌3』 *1868『隠玖兔岐集』[https://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html/ru04/ru04_03504/index.html][https://doi.org/10.20730/100264241]:正続2巻。 *「霊明神社文書」[https://dl.ndl.go.jp/pid/9576297/1/200][https://dl.ndl.go.jp/pid/9576297/1/206]。解題[https://dl.ndl.go.jp/pid/9576297/1/328]。 *『平安通志』[https://dl.ndl.go.jp/pid/765930/1/167] *『京都神社誌』[https://dl.ndl.go.jp/pid/1028022/1/14] *『京都坊目誌』[https://dl.ndl.go.jp/pid/1241196/1/190] [[Category:京都府]]
霊明神社
に戻る。
表示
ページ
議論
ソースを表示
履歴
個人用ツール
案内
神殿大観 メイン
神殿大観 総目次
おまかせ表示
検索
ツールボックス
リンク元
関連ページの更新状況
ファイルをアップロード
特別ページ