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霧島神宮
出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-) 最終更新:2022年10月19日 (水)
霧島神宮 きりしま じんぐう | |
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概要 | 天孫降臨の地に鎮座する神社。 |
奉斎 | 天饒石国饒石天津日高彦火瓊々杵尊 (土岐昌訓論文) |
所在地 | 鹿児島県霧島市霧島田口2608-5 |
所在地(旧国郡) | 日向国諸県郡 |
所属(現在) | 神社本庁 |
格式など | 式内社・官幣大社・別表神社 |
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目次 |
概要
霧島神宮(きりしま・じんぐう)は、鹿児島県霧島市の霧島山にある、瓊瓊杵命を祀る神社。天孫降臨の地とされる。霧島六社権現の筆頭。性空旧跡。式内社・官幣大社・別表神社。山中に天孫降臨神籬斎場がある。瓊瓊杵命の陵墓の可愛山陵は、西54kmにある薩摩川内市の新田神社にある。
歴史
- 欽明天皇代:慶胤が社殿と華林寺を創建
- 788年(延暦7年)3月4日:「大隅国曽於郡曽乃峰」が噴火。
- 837年(承和4年)8月1日:日向国諸県郡の「霧嶋岑神」が官社となる。(続日本後紀)
- 858年(天安2年)10月22日:日向国霧島神に従五位上から従四位下。(三代実録)
- 天暦年間:性空、瀬多尾越(現在の古宮の地)に社殿と華林寺を造営。以後、天台宗。
- 1178年(治承2年):藤原成経、平康頼、俊寛が参詣
- 1234年(文暦1年)12月28日:噴火で焼失。東の長尾山に社殿を復興し、東霧島神社と称する
- 1484年(文明16年):島津忠昌、社を東西に分け、東社を瀬戸尾に遷座(現在の霧島東神社)、西社が現在の霧島神宮となる。兼慶に命じて造営。以後、真言宗。
- 1615年(元和1年):この時点で1806石。
- 1705年(宝永2年):火災で焼失。
- 1715年(正徳5年):藩主島津吉貴、現在の社殿を造営。
- 1866年(慶応2年)9月:鹿児島藩、神仏分離を命じる。
- 1874年(明治7年)2月15日:霧島神宮と改称。官幣大社となる。
- 1874年(明治7年)6月15日:勅使
- 1877年(明治10年)3月11日:野上神社・霧島岑神社・東霧島神社・霧島東神社の4社、霧島神宮摂社となる。1880年(明治13年)とも。
- 1935年(昭和10年)11月16日:昭和天皇参拝
- 1940年(昭和15年):古宮を整備。
境内
- 本社:
- 勅使殿:
- 門守神社:末社。
- 門守神社:末社。
- 税所神社:末社。
- 野上神社:鹿児島県霧島市霧島田口。1877年(明治10年)3月11日、境外摂社。村社。
- 斎田:
- 天孫降臨神籬斎場:古宮跡
- 背門丘元宮:
- 性空墓:
- 兼慶墓:
- 鎮守神社:末社。
- 若宮神社:末社。
- 山神社
- 亀石
- 風穴
- 神楽殿
- 霧島岑神社:宮崎県小林市細野。日向国諸県郡。1877年(明治10年)3月11日、境外摂社。1873年(明治6年)、県社。現在は独立神社とみられる。
- 東霧島神社:宮崎県都城市高崎町。日向国諸県郡。1877年(明治10年)3月11日、境外摂社。1935年(昭和10年)10月、県社に昇格。現在は独立神社とみられる。
- 霧島東神社:宮崎県西諸県郡高原町蒲牟田。日向国諸県郡。1877年(明治10年)3月11日、境外摂社。明治13年、霧島神宮摂社兼郷社。1934年(昭和9年)9月、県社に昇格。現在は独立神社とみられる。
- 薩摩・華林寺:廃絶。
- 本地堂:廃絶。
- 持仏堂:不動明王・愛染明王
- 歴代住職墓地
- 仁王門:廃絶
- 多宝塔:廃絶
- 護摩堂:廃絶
- 不動明王石像:廃絶
- 十一面観音堂:廃絶
- 鎮守堂:廃絶
- 曼荼羅堂:廃絶
- 天子神社:境外末社。明治4年、村社を兼ねる。
- 七社神社:境外末社。明治4年、村社を兼ねる。
- 飯富神社:境外末社。明治4年、村社を兼ねる。
組織
大宮司・宮司
歴代 | 名 | 生没年 | 在職年 | 略歴 |
---|---|---|---|---|
1 | 田尻務 | 1829-1884 | 1874-1877 | 日置島津家当主の島津久風の子。1829年(文政12年)生。1874年(明治7年)12月5日、霧島神宮大宮司兼少教正。1875年(明治8年)2月24日、正七位。1877年(明治10年)6月11日、官職位記を剥奪。西南戦争で西郷隆盛軍を支援したためという。1884年(明治17年)4月24日死去。田尻種賢。 |
2 | 福崎季連 | 1833-1910 | 1877-1898 | 鹿児島藩士。1833年(天保4年)生。川上久美の子。福崎季修の養子。国学者後醍院真柱に師事。1872年(明治5年)琉球在番奉行。外務省九等出仕。1877年(明治10年)9月6日、霧島神宮大宮司(のち宮司)。1898年(明治31年)9月18日退任。。1893年(明治26年)従六位。1900年(明治33年)11月30日、大和神社宮司。1901年(明治34年)10月31日から1908年(明治41年)まで白峰宮宮司。1910年(明治43年)6月1日死去。著書『朝風舍歌集』。 |
3 | 税所篤 | 1827-1910 | 1898-1900 | 子爵。鹿児島藩出身の内務官僚。1827年(文政10年)生。大阪府判事、河内県知事、堺県知事、奈良県知事を歴任。1887年(明治20年)5月、華族。1890年(明治23年)6月、宮中顧問官。1898年(明治31年)9月18日から1900年(明治33年)5月30日まで霧島神宮宮司。1910年(明治43年)6月21日死去。 |
1 | 税所篤人 | 1836-1910 | 1900-1910 | 岡山藩士。1836年(天保7年)生。1900年(明治33年)5月30日、霧島神宮宮司。1910年(明治43年)2月22日死去。税所信篤。元太郎。 |
大久保利貞 | 1846-1918 | 1910-1918 | 鹿児島藩出身の陸軍中将。1846年(弘化3年)生。大久保利通のいとこ。1876年(明治9年)海軍中尉。1877年(明治10年)陸軍大尉。日清戦争では歩兵第5旅団長、第2師団参謀長を務めた。日露戦争では陸軍少将となった。1905年(明治38年)陸軍中将。1910年(明治43年)4月11日、霧島神宮宮司。1918年(大正7年)9月30日、在職で死去。73歳。正四位。 | |
河野主一郎 | 1846-1922 | 1918-1922? | 鹿児島藩士。1846年(弘化3年)生。西南戦争で西郷隆盛軍に参加し、捕らえられる。出獄後、民権運動に加わる。のち内務省に入り、1897年(明治30年)11月13日から1899年(明治32年)1月21日まで青森県知事。1918年(大正7年)12月18日、霧島神宮宮司。1922年(大正11年)2月12日死去。77歳。 | |
能勢靖一 | 1861-? | 1922-1932 | 鹿児島藩出身。1861年(文久1年)生。1906年(明治39年)11月24日、台北庁警視。1911年(明治44年)10月28日から1916年(大正5年)11月13日まで台東庁長。1922年(大正11年)5月12日から1932年(昭和7年)まで霧島神宮宮司。没年不詳。 | |
占部真一 | 1884-? | 1932-1935 | 福岡県出身。国学院大学卒。八代宮宮司、照国神社宮司、丹生都比売神社宮司を経て1932年(昭和7年)8月23日、霧島神宮宮司。1935年(昭和10年)8月6日、伊弉諾神社宮司。没年不詳。(経歴は照国神社#組織を参照) | |
阪本作之助 | 1881-1946 | 1936-1946 | 熊本県菊池郡大津町の出身。1881年(明治14年)生。大津町日吉神社の坂本経長の次男。正院厳島神社の阪本武の婿養子。1898年(明治31年)小学校教諭。1904年(明治37年)社司社掌試験合格。1907年(明治40年)正院厳島神社社掌。1909年(明治42年)二等司業。1910年(明治43年)9月2日、菊池神社主典。1917年(大正6年)5月2日、菊池神社禰宜。1924年(大正13年)3月15日、貫前神社宮司。1931年(昭和6年)3月31日、白山比咩神社宮司。1936年(昭和11年)6月17日、霧島神宮宮司。1946年(昭和21年)1月18日退任。同年死去。 | |
佐伯芳彦 | 1895-1970 | 1946-1950 | 北海道神社庁長。奈良県神社庁長。山口県の防府天満宮の社家の出身。皇典講究所神職養成部教習科卒。内務省神社局勤務。赤間宮宮司、豊栄神社・野田神社宮司、三島神社宮司を経て1946年(昭和21年)2月から1950年(昭和25年)9月14日まで霧島神宮宮司。その後、函館八幡宮宮司、北海道神宮宮司、橿原神宮宮司などを務めた。(略歴は北海道神宮#組織を参照) | |
後藤幸平 | 1899-1966 | 1954-1966 | 兵庫県神社庁長。愛知県出身。国学院大学卒。貫前神社宮司、佐嘉神社宮司、鹿児島神宮宮司、湊川神社宮司、鵜戸神宮宮司を経て1954年(昭和29年)8月11日、霧島神宮宮司。1966年(昭和41年)5月29日、在職で死去。76歳。(略歴は鹿児島神宮#組織を参照) | |
小久保光雄 | 1908-1991 | 1966-1991 | 愛知県出身。1908年(明治41年)生。国学院大学高等師範部卒。1939年(昭和14年)赤間宮主典。1940年(昭和15年)田島神社禰宜。1942年(昭和17年)鹿児島神宮禰宜。1953年(昭和28年)鹿児島神宮権宮司。1958年(昭和33年)、鹿児島神宮宮司。1964年(昭和39年)鹿児島県神社庁長。1966年(昭和41年)9月1日、霧島神宮宮司。1970年(昭和45年)鹿児島県神社庁長。1983年(昭和58年)6月9日から1989年(平成1年)6月1日まで枚聞神社宮司を兼務。1983年(昭和58年)鹿児島県神社庁長再任。1986年(昭和61年)神社本庁長老。1991年(平成3年)10月31日退任。同年11月20日死去。 | |
浄見守 | 1916-1991 | 1991-1991 | 福岡県出身。1916年(大正5年)生。1950年(昭和25年)から1979年(昭和54年)まで風浪宮宮司。1982年(昭和57年)、霧島神宮権宮司。1991年(平成3年)11月、霧島神宮宮司。1991年(平成3年)12月23日死去。75歳。阿曇守。 | |
足立明 | 1933-1993 | 1992-1993 | 鹿児島県神社庁長。京都府出身。国学院大学卒。1984年(昭和59年)照国神社宮司。1992年(平成4年)3月31日、霧島神宮宮司を兼務。1993年(平成5年)6月5日死去。(略歴は照国神社#組織を参照) | |
高橋弘平 | 1933- | 1994-2014 | 岩手県北上市出身。1933年(昭和8年)生。1957年(昭和32年)国学院大学宗教学科卒。寒川神社、岩手諏訪神社、常磐神社、岩手白髭神社に奉職。1976年(昭和51年)志波彦神社・塩竈神社禰宜。1982年(昭和57年)3月31日、志波彦神社・塩竈神社権宮司。1984年(昭和59年)8月、北海道神社庁参事。1993年(平成5年)3月20日、霧島神宮権宮司。1994年(平成6年)8月1日から2014年(平成26年)9月30日まで霧島神宮宮司。 | |
慶光院利致 | 1947- | 2014- | 1947年(昭和22年)生。1970年(昭和45年)国学院大学卒。明治神宮に奉職し、1999年(平成11年)明治神宮禰宜。2002年(平成14年)伊勢神宮権禰宜。2005年(平成17年)伊勢神宮禰宜。2008年(平成20年)神宮司庁総務部長。2014年(平成26年)10月1日、霧島神宮宮司。 |
少宮司・権宮司
- 村山松根(1822-1882)<1874-1875>:薩摩・大穴持神社祠官。樺山資満の三男。1869年(明治2年)鹿児島神社祠官。1874年(明治7年)2月22日、霧島神宮少宮司。1875年(明治8年)宮内省出仕。
- 緒方万()<1950-1981>:忌宮神社宮司。1950年(昭和25年)6月12日、霧島神宮権宮司。1981年(昭和56年)3月19日まで。
- 浄見守(1916-1991)<1982-1991>:1982年(昭和57年)、霧島神宮権宮司。1991年(平成3年)11月、霧島神宮宮司。
- 高橋弘平(1933-)<1993-1994>:1993年(平成5年)3月20日、霧島神宮権宮司。1994年(平成6年)8月1日、霧島神宮宮司。
- 谷川清人()<>:
画像
資料
- 1939『神代並神武天皇聖蹟顕彰資料3官幣大社霧島神宮』[3]