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青巌寺
出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-)
青巌寺
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'''青巌寺'''(せいがんじ)は、[[高野山]][[金剛峰寺]]にあった学侶方の拠点寺院。本尊は[[東照大権現]](紀伊続風土記[https://dl.ndl.go.jp/pid/2531055/1/31])。行人方[[興山寺]]と聖方[[大徳院]]と共に金剛峰寺の本坊の一つだった。[[真然廟]]が最初にあった地で、[[大伝法院]]の跡地。明治維新後は、隣接の[[興山寺]]と合併し、現在の[[金剛峰寺本坊]]となる。初名は'''剃髪寺'''。'''菩提心院'''と号す。 ==歴史== *1592年(文禄1年):[[豊臣秀吉]]、[[木食応其]]に命じて[[大政所]]の菩提寺を造営。剃髪寺と称した。 *1592年(文禄1年)8月4日:造営料1万石を寄進。また剃髪寺3000石を含む1万石を高野山に寄進した。 *1593年(文禄2年)7月22日:落慶法要。曼荼羅供。導師は親王院空鑁。 *1594年(文禄3年)3月3日:豊臣秀吉が参拝して大政所3回忌法要。徳川家康も供奉している。この頃、青巌寺と改称。 *1595年(文禄4年)7月10日:豊臣秀次、高野山に追放される。11日、青巌寺で剃髪。 *1595年(文禄4年)7月15日:豊臣秀次、青巌寺柳の間で自刃。 *1599年(慶長4年)頃:木食応其、青巌寺・興山寺を勢誉に譲与。 *1601年(慶長6年)6月3日:徳川家康、青巌寺を検校職の坊舎とし、学侶方の支配寺院と定めた。寺務検校の北室院頼旻が青巌寺に移る。 *1608年(慶長13年)10月1日:木食応其、死去。 *1612年(慶長17年)3月23日:勢誉、死去。 *1617年(元和3年):主殿に徳川家康(東照大権現)像を奉安し、本尊となった。 *1630年(寛永7年)10月:壇上伽藍の大塔に落雷。青巌寺も炎上。 *1634年(寛永11年)11月:幕府が再建。 *1640年(寛永17年)8月11日:真然堂再建(現存)。 *1642年(寛永19年)9月11日:検校弘翁、真然堂に真然像を寄進。 *1647年(正保4年):検校叟遍、十三仏画像を寄進。 *1650年(慶安3年)3月10日:五の室谷から出火した火災で類焼。 *1665年(寛文5年)9月11日:検校懐宣、仮堂に愛染明王を寄付。 *1677年(延宝5年)11月:再建。 *1680年(延宝8年)3月:備前国の松浦元隆、銅像大日如来を寄進(のち三昧堂に移す)。 *1681年(天和1年)11月21日:検校文啓、空海像を造立し、神像の左に奉安する。 *1683年(天和3年)3月:検校実秀、逆修のため阿弥陀如来画像を寄進。 *1758年(宝暦8年):和歌山藩主徳川宗将の院号から菩提心院と号す。 *1868年(明治1年)9月:三方を廃止 *1869年(明治2年)3月:興山寺と合併して金剛峰寺となる。 ==組織== ===歴代住職=== *1応其()<>: *2勢誉()<>: 以降、寺務検校が住す。 ==資料== *『紀伊続風土記』「寺務青巌寺所司」[https://dl.ndl.go.jp/pid/2531055/1/54] *『紀伊続風土記』「青巌寺」[https://dl.ndl.go.jp/pid/2531055/1/170] [[category:和歌山県]]
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