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頂法寺池坊
出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-)
頂法寺池坊
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'''池坊'''(いけのぼう)は京都府京都市中京区の[[頂法寺]]にあった[[天台宗]]寺院。頂法寺の本坊。現在の池坊会館の地にあった。華道家元として知られる。[[小野妹子]]の創建と伝える。寺院としての池坊がいつから存在し、どのように頂法寺住職の地位を確立したかは不明確。寺院は現存しないが華道流派として続いている。 == 組織 == ===歴代住職=== *頂法寺住職、華道池坊家元を兼ねる。寺院としての池坊廃絶後の歴代もここに記す。 *[[小野氏]]。[[小野妹子]]の子孫とされ、明治維新以前から僧侶でありながら世襲だった。 *近世の歴代は[[浄土宗]]善想寺に葬られた。 *36専純まで林信充撰「伝授次序」『関東台覧立花砂之物図』所収。「六角堂縁起と池坊いけばな縁起 古代寺院縁起の近世近現代的展開」参照[https://ci.nii.ac.jp/naid/110007046005] {|class="wikitable" |+ !style="width:3%;"|世数 !style="width:6%;"|名 !style="width:8%;"|生没年 !style="width:8%;"|在職年 !style="width:30%;"|略歴 |- |1 |専務 |生没年不詳 | |[[小野妹子]]のこととされる。聖徳太子から頂法寺を託され、初代住職になったという。大阪府太子町に池坊が管理する[[小野妹子墓]]がある。 |- |2 |専能 |生没年不詳 | | |- |3 |専秀 |生没年不詳 | | |- |4 |専和 |生没年不詳 | | |- |5 |専勝 |生没年不詳 | | |- |6 |専照 |生没年不詳 | | |- |7 |専増 |生没年不詳 | | |- |8 |専明 |生没年不詳 | | |- |9 |専承 |生没年不詳 | | |- |10 |専栄 |生没年不詳 | | |- |11 |専誓 |生没年不詳 | | |- |12 |専慶 |生没年不詳 | |池坊流華道の創始者。『碧山日録』1462年(寛正3年)に佐々木高秀が招いて挿し花をさせたところ見事な出来栄えだったため、多くの人々が見に来たという記録がある。近世の1739年(元文4年)の「池坊立花正統系図」では959年(天徳3年)生まれとし、小野妹子12代孫とする。 |- |13 |専慮 |生没年不詳 | | |- |14 |専盛 |生没年不詳 | | |- |15 |専言 |生没年不詳 | | |- |16 |専草 |生没年不詳 | | |- |17 |専来 |生没年不詳 | | |- |18 |専尊 |生没年不詳 | | |- |19 |専曙 |生没年不詳 | | |- |20 |専光 |生没年不詳 | | |- |21 |専倫 |生没年不詳 | | |- |22 |専諱 |生没年不詳 | | |- |23 |専諷 |生没年不詳 | | |- |24 |専琳 |生没年不詳 | | |- |25 |専意初代 |生没年不詳 | | |- |26 |専順 |1411-1476 | |連歌師。1411年(応永18年)生。宗祇の師。連歌七賢の一人に数えられる。『新撰菟玖波集』に108句収録。1476年(文明8年)3月20日死去。66歳。著書『法眼専順連歌』。春楊坊、柳本坊と号す。 |- |27 |専鎮 |生没年不詳 | |将軍足利義政から華道家元を名乗ることを許されたという。 |- |28 |専応 |1482-1543 | |1482年(文明14年)生。専慶から11代目にあたるとも。1525年(大永5年)、[[青蓮院門跡]]尊鎮法親王の御所で生け花を披露し、賞賛された(『二水記』)。1530年(享禄3年)池坊として初めて宮中で花を活ける。著書として1523年(大永3年)の『君台観左右帳記』や1542年(天文11年)に記した『池坊専応口伝』が知られる。1543年(天文12年)死去。 |- |29 |専存初代 |生没年不詳 | | |- |30 |専栄 |1528-1579 | |1528年(享禄1年)生。1549年(天文18年)将軍足利義輝に招かれ花を立てる。1563年(永禄6年)『池坊立花伝書』を著す。1568年(永禄11年)法眼。1579年(天正7年)死去。1589年(天正17年)死去とも。 |- |31 |専好初代 |1541-1621 | |1541年(天文10年)生。専栄の弟という。1599年(慶長4年)[[大雲院]]での百瓶華会が名声を呼んだ。著書に『池坊専好花伝書』。1621年(元和7年)6月24日死去。 |- |32 |専好二代 |1575-1658 | |立花の大成者。1575年(天正3年)生。[[後水尾天皇]]の花会で活躍。華道における池坊の指導的地位を確立した。専好を初代と二代に分けるのは明確な記録がないが活動期間が非常に長いため、名前を継いだと判断されたためらしい。そして二代目は初名「専朝」に当たるとみられているようだ。1658年(万治1年)11月7日死去。弟子にや[[浄土真宗]]僧の安立坊周玉や[[日蓮宗]]僧の大住院以信(日甫、[[本能寺高俊院]]4世)、猪飼三枝がいた。墓所は善想寺。 |- |33 |専存二代 |1622-1661 | |1622年(元和8年)生。1661年(寛文1年)死去。40歳。墓所は善想寺。 |- |34 |専養 |1655-1711 |1661-1701 |1655年(明暦1年)生。専存の子。1661年(寛文1年)7歳で継承。1678年(延宝6年)『永代門弟帳』の作成を始めて門弟の組織化を図る。1701年(元禄14年)隠退。1711年(正徳1年)死去。墓所は善想寺。 |- |35 |専好三代 |1681-1734 |1701-1726 |1681年(天和1年)生。1701年(元禄14年)継承。1715年(正徳5年)知恩院での徳川家康100年忌で立花を供える。1723年(享保8年)『会席法度乃書』を定めて一門の結束を固める。1724年(享保9年)『生花の書』を記す。1734年(享保19年)5月12日死去。55歳。墓所は善想寺。 |- |36 |専純 |1706-1774 |1726-1760 |1706年(宝永3年)生。1726年(享保11年)継承。1739年(元文4年)『池坊立花正統系図』を作成。1746年(延享3年)『伝授次序』を著して池坊の始祖を小野妹子とする系譜を整備し、幕府の公認を受けた。1760年(宝暦10年)に隠退するが、1765年(明和2年)専順が早世したため再任。1774年(安永3年)死去。墓所は善想寺。 |- |37 |専意二代 |1736-1765 |1760-1765 |1736年(元文1年)生。1760年(宝暦10年)継承。1765年(明和2年)死去。30歳。墓所は善想寺。 |- |38 |専純 |1706-1774 |1765-1774 |再任。 |- |39 |専弘 |1761-1787 |1774-1787 |1761年(宝暦11年)生。専純の四男。1774年(安永3年)継承。1776年(安永5年)「関東献上百瓶図」を幕府に提出。1787年(天明7年)死去。26歳。墓所は善想寺。 |- |40 |専定 |1769-1832 |1787-1815 |1769年(明和6年)生。専純の外孫。専弘の甥。1787年(天明7年)継承。家元制度を整備した。1815年(文化12年)隠退。1832年(天保3年)9月7日死去。64歳。墓所は善想寺。著書に『瓶花容導集』『挿花百規』。 |- |41 |専明 |1793-1864 |1815-1861 |1793年(寛政5年)生。専定の弟。1815年(文化12年)継承。1861年(文久1年)隠退。1864年(元治1年)死去。墓所は善想寺。著書『生花株要記』。 |- |42 |池坊専正 |1840-1908 |1861- |1840年(天保11年)生。専明の子。1861年(文久1年)家元を継承。華道の全国的な組織化を図る。1889年(明治22年)東京に池坊華務課出張所を設置。1908年(明治41年)4月23日死去。69歳。墓所は善想寺。 |- |43 |池坊専啓 |1869-1944 | |伯爵油小路隆董の次男。油小路隆定。1869年(明治2年)生。1944年(昭和19年)死去。 |- |44 |池坊専威 |1900-1945 | |伯爵油小路隆元の子。油小路隆久。1900年(明治33年)生。1945年(昭和20年)死去。 |- |45 |池坊専永 |1933- |1945- |1933年(昭和8年)生。専威の長男。同志社大学卒。11歳で得度して1945年(昭和20年)家元を継承。内部抗争を抱えながら、一門の改革を図る。 |- |次期 |池坊専好四代 |1965- | |1965年(昭和40年)生。専永の長女。初の女性家元となる予定。池坊由紀。 |} [[Category:京都府]]
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