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飯豊天皇陵
出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-)
飯豊天皇陵
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奈良県葛城市北花内にある[[飯豊青皇女]]の[[天皇陵|陵墓]]。飯豊青皇女(いいとよのあおのひめ)は、清寧天皇の崩御後に一時政務を見たとされ、後世、「飯豊天皇」(いいとよてんのう)とも呼ばれる。現在の日本政府・皇室の見解では正式な天皇ではないはずだが、陵墓は天皇陵として位置づけてられている。'''葛城埴口丘陵'''。'''埴口墓'''(はにくちのはか)。現在の陵名は'''埴口丘陵'''(はにぐちのおかのみささぎ)。'''北花内大塚古墳'''('''三歳山古墳''')に比定される。 ==歴史== 『日本書紀』に清寧5年11月、皇女が「崩」じ、「葛城埴口丘陵」に葬ったとあり、天皇ではないが、天皇に準じた表現を使っている。「飯豊天皇」の表記は『扶桑略記』(平安時代後期)が初出。ただし『延喜式』では「埴口墓」としている。1864年(元治1年)に『日本書紀』に従い、「陵」とされたという。 北花内大塚古墳は全長約90mの前方後円墳。三歳山とも呼ばれていた。1680年(延宝8年)(1681年(天和1年)とも)、新庄藩主桑山一尹が桑山家の氏神の諸鍬神社を三歳山に遷座し、[[葛木御県神社]]など村内の神社を合併して社殿を造営。この時の工事で当初の墳丘は損なわれたという。諸鍬神社は桑山家本貫地の尾張[[諸鍬神社]]の分社で、桑山家は領地を変えるにつけ出石や和歌山などその地に祀ってきた。1864年(元治1年)、「文久の修陵」の際に諸鍬神社は御旅所であった西宮神社に遷座し、その後現在地に遷座して現存。 (国史大辞典、日本歴史地名大系、文久山陵図) [[category:奈良県]]
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