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高崎英霊殿

出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-) 最終更新:2020年2月15日 (土)

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英霊殿

高崎英霊殿は群馬県高崎市高松町の高崎公園にあった招魂社。ただし、神霊常在の神殿であったかどうかは不明確である。陸軍歩兵第15連隊衛戌地に隣接し、営内神社の性格もあったといえる。群馬県護国神社の創建と共に廃絶したとみられる。跡地は現在の野外音楽堂のあたりで石碑がある。正式には英霊殿

歴史

英霊殿
英霊殿

江戸時代には高崎公園の場所には大染寺高崎・頼政神社が建てられ、大染寺は藩主の祈願寺であったため、廃藩置県で廃止となった。頼政神社は今もある。1876年(明治9年)に公園が開設され、1900年(明治33年)高崎市市制施行にともない、高崎公園と呼ばれるようになった(高崎市ウェブサイト)。

県内では1869年(明治2年)9月創建の邑楽招魂社や1880年(明治13年)創建の厩橋招魂社があり、高崎では頼政神社境内に1878年(明治11年)11月、「戦死者之碑」が平山省斎(大成教管長)の撰文で建立されていたが、英霊殿がここに建てられたのは陸軍歩兵第15連隊が高崎城跡に衛戍地を構えたからである。

1884年(明治17年)に歩兵第15連隊が編成され、高崎城跡に衛戍地が置かれ、高崎は軍都として発展する。歩兵第15連隊は日清戦争、日露戦争に出征したが、日露戦争では激戦区に投入され、多数の戦没者を出した。全国での戦没者慰霊活動の高まりに歩調を合わせるように、そのころ高崎においても招魂社創建の計画がなされた(「招魂社目論見書」)。そして群馬県犒軍会(のち群馬県招魂会)が設立され(年代不詳)、1909年(明治42年)3月27日、維新以来の群馬県下の戦没者と歩兵第15連隊所属の埼玉・長野出身戦没者の弔魂祭を行って、高崎公園に英霊殿が創建された。連隊衛戍地に隣接するという点では営内神社の性格を持っていたと考えられる。以後、定期的に祭典を行い、事変に当たっては臨時祭を行ったという。ただし、これは神社行政上の招魂社ではなかった。官祭招魂社はもちろん、私祭招魂社としても認められなかった(実際、『神社協会雑誌』の1933年(昭和8年)7月「招魂社調」に記載はない)。制度上の制限が厳しかったため、実現できなかったとされている。


社殿は公園の北端に東面して造営された(1919年(大正8年)『高崎市全図』[1])。社殿は神明造の本殿のみであったが、その規模は神社本殿としては大型の部類に入る。社殿前には前庭が設けられ、冠木門と瑞垣に囲われていた。さらに冠木門前に広場があった。

1941年(昭和16年)9月、群馬県護国神社の鎮座(11月19日)を前に群馬県招魂会は群馬県護国神社奉斎会に改組した。 英霊殿が廃絶した年月は明確ではない。 群馬県護国神社に神霊を遷座した記録はなく、祭祀の継承関係はないという。

(『群馬県護国神社誌』、「桜花の絆!」[2]ほか)

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