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高巌寺

出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-) 最終更新:2016年6月9日 (木)

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'''高巌寺'''(こうがんじ)は、福島県会津若松市にある、[[浄土宗鎮西派]][[藤田流]]の会津地方の拠点だった寺院。陸奥国会津郡。'''岌天'''が蘆名盛高の要請で創建。[[蘆名氏]]の菩提寺。会津藩主[[蒲生忠郷]]の菩提寺。藤田流は当寺を中心に会津地方に広がり、昭和戦前期の本末解体まで、多くの末寺を擁した。「'''盛道山高巌寺'''」。現在は[[浄土宗知恩院派]]。
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'''高巌寺'''(こうがんじ)は、福島県会津若松市にある、[[浄土宗鎮西派]][[藤田流]](廃絶)の会津地方の拠点だった寺院。陸奥国(岩代国)会津郡。'''岌天'''が蘆名盛高の要請で創建。[[蘆名氏]]の菩提寺。会津藩主[[蒲生忠郷]]の菩提寺。藤田流は当寺を中心に会津地方に広がり、昭和戦前期の本末解体まで、多くの末寺を擁した。「'''盛道山高巌寺'''」。現在は[[浄土宗知恩院派]]。
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藤田流の実質的な本山であった下総[[高声寺]]8世[[岌伝]]が会津黒川(会津若松の古名)で隠棲していた。時期は、応仁2年(1468)以後という(藤本論文)。これがきっかけで領主蘆名氏と交流が生まれたと思われ、蘆名盛高は、岌伝弟子の'''岌天'''を招き、文明6年(1474)、黒川に当寺を創建した。蘆名氏は、越後進出を計画しており、越後に基盤を持つ藤田流との関係を築いておきたかったとも考えられる。
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== 歴史 ==
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藤田流の本拠地の下総[[高声寺]]8世'''岌伝'''が会津黒川(会津若松の旧称)で隠棲していた。時期は、応仁2年(1468)以後という(藤本論文)。これがきっかけで領主蘆名氏と交流が生まれたと思われ、蘆名盛高は、岌伝弟子の'''岌天'''を招き、文明6年(1474)、黒川に当寺を創建した。蘆名氏は、越後進出を計画しており、越後に基盤を持つ藤田流との関係を築いておきたかったとも考えられる。
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当寺開山ののち、岌天は越後津川に[[津川・新善光寺|新善光寺]]を再興している。これは庇護者の蘆名盛高が、息子盛滋と激しく対立し内戦状態であって、永正14年(1517)の盛高の死後、会津を去ったためだと言われる。新善光寺が中興された永正年間末という伝承と符合するという。
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当寺開山ののち、岌天は越後津川に[[越後・新善光寺|新善光寺]]を再興している。これは庇護者の蘆名盛高が、息子盛滋と激しく対立し内戦状態であって、永正14年(1517)の盛高の死後、会津を去ったためだと言われる。新善光寺が中興された永正年間末という伝承と符合するという。
新善光寺があった津川は、会津と新潟を結ぶ阿賀野川(現在のJR磐越西線、国道49号線)沿いにあり、会津若松から西北に60kmの位置にあった。越後進出を図る盛高は津川城を抑えていた。盛高没後、津川にいた盛高の関係者を頼ったのかもしれない。
新善光寺があった津川は、会津と新潟を結ぶ阿賀野川(現在のJR磐越西線、国道49号線)沿いにあり、会津若松から西北に60kmの位置にあった。越後進出を図る盛高は津川城を抑えていた。盛高没後、津川にいた盛高の関係者を頼ったのかもしれない。
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大永2年(1522)、盛高の次男の葦名盛舜が盛高の位牌を当寺に奉安して、葦名家の菩提寺としたと伝えられているが、この年は盛高と対立していた盛滋が亡くなった年の翌年で、蘆名氏の内乱が収まった時期に符合するという。そして岌天も当寺に戻り、この地で亡くなったという。
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大永2年(1522)、盛高の次男の葦名盛舜が盛高の位牌を当寺に奉安して、葦名家の菩提寺としたと伝えられているが(『新編会津風土記』に盛舜が守護不入の特権を認めた同年の文書が掲載されている)、この年は盛高と対立していた盛滋が亡くなった年の翌年で、蘆名氏の内乱が収まった時期に符合するという。そして岌天も当寺に戻り、この地で亡くなったという。
この後、等月、等天、学天、岌庵、岌念と継承し、津川新善光寺とともに蘆名氏の領土とその周辺に藤田流の教線を拡大する拠点となった。岌天の弟子には、当寺住職ではないが、津川新善光寺住職から京都[[知恩寺]]30世に晋山した'''岌州'''がいる。藤田流は、会津郡の西側に隣接する大沼郡・河沼郡に広がった。同じく浄土宗の[[名越流]]の広がった現在の福島県中東部(中通り、浜通り地方)には藤田流の寺院はなく、名越流の会津地方進出は藤田流が衰退した江戸時代以降であることから、中世には両流は住み分けしていたとも見られている。
この後、等月、等天、学天、岌庵、岌念と継承し、津川新善光寺とともに蘆名氏の領土とその周辺に藤田流の教線を拡大する拠点となった。岌天の弟子には、当寺住職ではないが、津川新善光寺住職から京都[[知恩寺]]30世に晋山した'''岌州'''がいる。藤田流は、会津郡の西側に隣接する大沼郡・河沼郡に広がった。同じく浄土宗の[[名越流]]の広がった現在の福島県中東部(中通り、浜通り地方)には藤田流の寺院はなく、名越流の会津地方進出は藤田流が衰退した江戸時代以降であることから、中世には両流は住み分けしていたとも見られている。
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寛永4年には蒲生忠郷(見樹院)を葬り、束帯の木像を祀る影堂を設けたという。現在は忠郷の五輪塔が残る。
寛永4年には蒲生忠郷(見樹院)を葬り、束帯の木像を祀る影堂を設けたという。現在は忠郷の五輪塔が残る。
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(参考:藤本顕通「藤田派の教線域と名越派の交渉」)
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==参考文献==
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*藤本顕通「藤田派の教線域と名越派の交渉」
[[category:福島県]]
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2016年6月9日 (木) 時点における最新版

高巌寺(こうがんじ)は、福島県会津若松市にある、浄土宗鎮西派藤田流(廃絶)の会津地方の拠点だった寺院。陸奥国(岩代国)会津郡。岌天が蘆名盛高の要請で創建。蘆名氏の菩提寺。会津藩主蒲生忠郷の菩提寺。藤田流は当寺を中心に会津地方に広がり、昭和戦前期の本末解体まで、多くの末寺を擁した。「盛道山高巌寺」。現在は浄土宗知恩院派

歴史

藤田流の本拠地の下総高声寺8世岌伝が会津黒川(会津若松の旧称)で隠棲していた。時期は、応仁2年(1468)以後という(藤本論文)。これがきっかけで領主蘆名氏と交流が生まれたと思われ、蘆名盛高は、岌伝弟子の岌天を招き、文明6年(1474)、黒川に当寺を創建した。蘆名氏は、越後進出を計画しており、越後に基盤を持つ藤田流との関係を築いておきたかったとも考えられる。

当寺開山ののち、岌天は越後津川に新善光寺を再興している。これは庇護者の蘆名盛高が、息子盛滋と激しく対立し内戦状態であって、永正14年(1517)の盛高の死後、会津を去ったためだと言われる。新善光寺が中興された永正年間末という伝承と符合するという。

新善光寺があった津川は、会津と新潟を結ぶ阿賀野川(現在のJR磐越西線、国道49号線)沿いにあり、会津若松から西北に60kmの位置にあった。越後進出を図る盛高は津川城を抑えていた。盛高没後、津川にいた盛高の関係者を頼ったのかもしれない。

大永2年(1522)、盛高の次男の葦名盛舜が盛高の位牌を当寺に奉安して、葦名家の菩提寺としたと伝えられているが(『新編会津風土記』に盛舜が守護不入の特権を認めた同年の文書が掲載されている)、この年は盛高と対立していた盛滋が亡くなった年の翌年で、蘆名氏の内乱が収まった時期に符合するという。そして岌天も当寺に戻り、この地で亡くなったという。

この後、等月、等天、学天、岌庵、岌念と継承し、津川新善光寺とともに蘆名氏の領土とその周辺に藤田流の教線を拡大する拠点となった。岌天の弟子には、当寺住職ではないが、津川新善光寺住職から京都知恩寺30世に晋山した岌州がいる。藤田流は、会津郡の西側に隣接する大沼郡・河沼郡に広がった。同じく浄土宗の名越流の広がった現在の福島県中東部(中通り、浜通り地方)には藤田流の寺院はなく、名越流の会津地方進出は藤田流が衰退した江戸時代以降であることから、中世には両流は住み分けしていたとも見られている。

寛永4年には蒲生忠郷(見樹院)を葬り、束帯の木像を祀る影堂を設けたという。現在は忠郷の五輪塔が残る。

参考文献

  • 藤本顕通「藤田派の教線域と名越派の交渉」
http://shinden.boo.jp/wiki/%E9%AB%98%E5%B7%8C%E5%AF%BA」より作成

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