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歓喜光寺
出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-)
歓喜光寺
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[[file:726070C3-57FD-45D0-BCC6-2054D3D167CC.jpeg|thumb|500px|本堂(旧法国寺本堂)]] '''歓喜光寺'''(かんきこうじ)は、京都府京都市山科区大宅奥山田にある[[時宗]]寺院。かつての[[時宗六条派]]の拠点寺院。現在の本尊は[[阿弥陀如来]]だが、江戸時代の本尊は[[十一面観音]]であった。[[聖戒]]が山城八幡に'''善導寺'''として創建。[[八幡信仰]]・[[天満信仰]]ゆかりの寺院。現在の[[真宗本廟]]枳殻邸のあたりに移り、のち寺町に遷った。[[錦天満宮]]を鎮守とした。'''河原院'''。'''六条道場'''。山号は紫苔山。(参考:同名寺院[[歓喜寺]]・[[善導寺_(同名)]]) == 歴史 == [[file:Kokudo0297.jpg|thumb|300px|歓喜光寺(国土地理院空中写真より)]] [[聖戒]]は[[一遍]]の弟で、一遍の廻国遊行に同行した。一遍が[[石清水八幡宮]]に参詣したとき、神託を得た。 1291年(正応4年)、その縁で聖戒は石清水八幡宮の近くに善導寺を創建。 1299年(正安1年)、関白九条忠教の寄進で善導寺を[[河原院]]跡地に移転。 この時、同時に菅原院([[菅原道真]]邸)跡から[[錦天満宮|天満宮]]とその神宮寺であった歓喜寺を移転、合併して歓喜光寺と称したという。あるいは先に歓喜寺と天満宮が河原院の地に移転していたともいう。 江戸時代の記録で本尊とされる十一面観音は一般に天満宮の本地仏とされる。神宮寺としての性格が強かったか。 のち六条堀川の東南に移転。中昔京師地図に描かれる。このころ、六条道場の呼称が定まったとみられる。 六条風呂が名物だった。歌人が集まり、連歌会がたびたび開かれた。 1379年(天授5年/康暦1年)焼失。1419年(応永26年)焼失。1428年(正長1年)焼失。1434年(永享6年)焼失。1436年(永享8年)焼失。1437年(永享9年)9月6日、将軍足利義教が参詣。1490年(延徳2年)焼失。 1552年(天文21年)頃、高辻烏丸に移転。 六条東洞院にも寺地があり、そこで刑死者に十念を授けていたという。 天正年間、京極錦小路に移転。 1652年(承応1年)焼失。 1676年(延宝4年)、[[清浄光寺]]末寺となり、[[遊行派]]となる。この時点で六条派としての実態は失われていたと思われる。 1788年(天明8年)焼失。1864年(元治1年)焼失。 1872年(明治5年)、神仏分離で錦天満宮を分離。 1907年(明治40年)5月15日、東山五条の[[法国寺]]に移転し、同寺を併合した。錦天満宮は旧地に残った。 1975年(昭和50年)、山科の現在地に移転。 (『日本歴史地名大系』) <gallery> file:A184954E-5145-4C66-9C19-E9A5887843DA.jpeg|門 file:2DBE3C7B-686F-4F40-90FB-156A56C94A55.jpeg|官報本文を刻む碑文 file:22DED97B-B045-4E82-ACDA-EE84000E9613.jpeg|鎮守社 file:E1462480-CF30-4FA0-96D0-9EFCCC4687CC.jpeg|地蔵堂 file:21391196-25DE-4AA9-BDDD-B46C05DDBB73.jpeg|大日尊 file:A2B860DD-3CB7-4464-8654-7415637FF9FB.jpeg|大日尊(富岡鉄斎揮毫) file:3112D897-6B8D-411C-BF78-D70A6D42FE6A.jpeg|住職墓地(歓喜光寺および法国寺の歴代) file:C0C7D568-9B34-4667-BD6F-74304EE96B6F.jpeg|「歓喜光寺歴代弥阿上人塔」 file:C8C35869-05E3-4988-8509-8649AFA037BF.jpeg|「伊予河野氏〓先碑」 file:7DDCEBC7-7313-4F6E-A231-5598773DDAD9.jpeg|「伊予河野氏〓先碑」題 file:7D29059A-9304-4B24-A250-2C641909D89B.jpeg|「伊予河野氏〓先碑」本文 </gallery> ==組織== *歴代住職が「弥阿」を名乗った。 === 歴代住職 === *1[[聖戒]](1261-1323)<1299-1323>:一遍の弟。甥という説もある。越智氏。河野通定。六条派の祖とみなされる。鳥辺山の草庵で死去。『一遍聖絵』を編纂。伝記『開山弥阿上人行状』。弥阿。 *2一色()<>: *3瑞光()<>:『開山弥阿上人行状』を記す。 *4正道()<>: *5心静()<>: *6徳山()<>: *7住定()<>: *8常然()<>: *9浄安()<>: *10成厳()<>: *11如山()<>: *12安住()<>: *13常清()<>: *14善念()<>: *15上善()<>: *16了幻()<>: *17観空()<>: *18 *19 *20文閑()<>:中興。連歌師として活躍。 *21 *22仙厳()<>:連歌師として活躍。 *23 *24 *25 *26 *27超眼()<>: *28 *29 *30輪山()<>: *31智寛()<>:寛政7年在職。 *32 *33 *34良随()<>: *35 *36 *37河野良心()<>:時宗執事長。[[一蓮寺]]64世。龍華院。法阿。 == 子院 == 江戸時代には以下の子院があった。 *満願寺: *覚恩寺: *金台寺: *与願寺: *行福寺: *安念寺:鳥辺野にあった聖戒の隠居地か。 *清浄心院: *長寿院: *芳泉院: *端月院: *玉林院: *正面庵: *道照庵: (日本歴史地名大系) ==資料== 歓喜光寺に関するまとまった研究はないようだ。 *「一遍上人絵伝」(勅修御伝、六条縁起)[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1014969] *「歓喜光寺絵図」(2002『社寺境内図資料集成2』所収) *大橋俊雄『一遍と時宗教団』 *金井清光1970「六条道場歓喜光寺歴代世譜」『時衆研究』41 *河野憲善1982「史料紹介 現歓喜光寺碑と甲府一蓮寺碑読解と解説」『時宗教学年報』10[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/4424041](送信館限定) *祢冝田成然1991「歓喜光寺弥阿より大浜愍冏への書簡」『時宗教学年報』19[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/4424050](送信館限定) *大槻洋二1998「京都・新京極の成立母胎としての寺町:伝統都市の近代における歓楽街形成に関する史的研究 その1」[https://doi.org/10.3130/aija.63.199_4] [[Category:京都府]]
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