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毘沙門天信仰
出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-)
毘沙門天信仰
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{|class="wikitable" style="width:800px;margin:0 auto;" |- | style="text-align:center;background-color:#ededed"|'''毘沙門天信仰 ''' |- | *[[目次#日本編|日本編]] >> [[目次#仏教|仏教]] >> [[目次#信仰系譜^2|信仰系譜]] >> [[毘沙門天信仰]] <!-- |- |style="text-align:center;"| [[ファイル:|300px]] [[ファイル:|300px]]<br> 左: 右: --> <!-- |- | <googlemap version="0.9" lat="34.488448" lon="132.824707" type="map" zoom="6" width="800" height="500" controls="large"> http://maps.google.co.jp/maps/ms?hl=ja&ie=UTF8&vps=1&jsv=327b&brcurrent=h3,0x34674e0fd77f192f:0xf54275d47c665244&msa=0&output=nl&msid=208806612508013451037.00049d0477a8ef1823383 </googlemap> --> |} ==概要== 毘沙門天に対する信仰である。 毘沙門天は、北方を守護する神で、財宝の神、武神。多聞天。[[四天王]]の一神。インド神話の神のクベーラ、ヴァイシュラヴァナが起源とされる。[[十二天]]、[[十六善神]]、[[七福神]]の一神。 独尊として信仰されるときは毘沙門天、四天王の一神として信仰されるときは、多聞天と呼ぶのが通例である。 中国や日本では軍神として信仰を集め、日本では[[聖徳太子]]、[[坂上田村麻呂]]、[[上杉謙信]]、[[楠木正成]]らが崇敬したことが歴史上知られている。また代表的な福神でもある。 夜叉、羅刹、寅、ムカデ、鼠などを眷属とする。 護法神として、天台宗、融通念仏宗、浄土真宗、日蓮宗などの各宗で信仰される。勝手明神、えびす神、榎本神社などを垂迹とした。 <!-- ==由緒== --> ==歴史== === 起源=== 紀元前1500〜1000年ころに成立したインド神話ヴェーダでは、邪悪な夜叉の首長とされていた。叙事詩の神話では富と財宝を司り、[[カイラーサ山]]に住んで、北方を守護するものとされた。護法神として仏教に導入されてからも、須弥山の北面に住んで夜叉や羅刹を従えるとされた。 インドのバールフトの前2世紀の仏塔跡から四天王像が発見され、多聞天の銘があった。これが毘沙門天信仰の最古の遺物で、現在はカルカッタの博物館にあるという。 === 西域 === [[玄奘三蔵]]の『大唐西域記』(646年)によると、タクラマカン砂漠南部のクスターナ国(現在のホータン、コータン)で、国王が子供を授かるように毘沙門天に祈ったところ、像が割れて子供が生まれたという伝説があり、王は毘沙門天の子孫とされたという。その後、唐の支配下に置かれても、毘沙郡と呼ばれた。 === 中国=== 中国では安西城の霊験譚が知られる。唐の天宝元年(742)、現在のウイグル地区にあった安西城が敵国に包囲され、救援要請が玄宗皇帝のもとに届く。皇帝は不空に祈祷を命じ、不空は毘沙門天に祈る。すると皇帝の前に天兵が出現。やがて安西城から「天から兵が現れ、敵を撃退させた」と報告が入った。金の鼠が現れ、敵兵の弓を食いちぎった。逃げ遅れた敵の老兵を殺そうとすると門の上に毘沙門天が現れ、それを諌めたという。『毘沙門儀軌』による伝説であるが、天宝元年に安西城で戦いがあったとの記録は史料に残っていない。 ただこの伝説により、中国では軍神、護国神として毘沙門天が信仰され、城門や政庁などに毘沙門天を祀ったという。 日本で'''兜跋毘沙門天'''と呼ばれる異国風の鎧をまとった姿は、この安西城に現れたときの様相を表したものとされる。中国にならって、日本でも平安京羅城門に兜跋毘沙門天が祀られたとされ、東寺に残る兜跋毘沙門天像は羅城門火災で移されたものとの伝承がある。 <!-- ==制度== --> <!-- ==信仰== --> ==系譜== {|class="wikitable" |+ !style="width:20%"|名称 !style="width:30%"|所在地 !style="width:30%"|コメント !style="width:20%"|宗派・格式 |- |[[毘沙門堂]] |京都府京都市山科区安朱稲荷山町18 |703年(大宝3年)、行基が創建。最澄自作の毘沙門天という。 |天台宗・門跡寺院 |- |[[朝護孫子寺|信貴山朝護孫子寺]] |奈良県生駒郡平群町信貴山2280-1 |聖徳太子が創建。物部氏との戦いにおいて勝利したら一寺を創建すると誓願したことに基づく。覚鑁が納めた宝珠がある。命蓮が中興。聖徳太子創建四十六寺院の一つともいう。 |信貴山真言宗総本山 |- |[[鞍馬寺]] |京都府京都市左京区鞍馬本町1074 |770年(宝亀1年)、鑑禎が創建。元天台宗。鞍馬弘教。 |鞍馬弘教総本山 |- |[[神峯山寺]] |大阪府高槻市大字原3301-1 |「日本最初の毘沙門天」を称す。役行者が創建。開成皇子が中興。 |天台宗 |- |[[本山寺]] |大阪府高槻市大字原3298 |696年(持統10年)、役行者が創建。開成皇子が中興。 |天台宗 |- |[[下野・最勝寺|大岩山最勝寺]] |栃木県足利市大岩町264 |745年(天平17年)、行基が創建。悪態祭りが有名。「大岩毘沙門天」。 |真言宗豊山派 |- |[[達谷西光寺]] |岩手県西磐井郡平泉町平泉北沢16 |801年(延暦20年)、坂上田村麻呂が創建。田村麻呂信仰。『吾妻鑑』に源頼朝が参拝したとあるという。「達谷窟毘沙門堂」。 |天台宗 |- |[[越後・普光寺|吉祥山普光寺]] |新潟県南魚沼市浦佐2495 |807年(大同2年)、坂上田村麻呂が創建。「浦佐毘沙門堂」。上杉氏が崇敬した。 |真言宗豊山派 |- |[[千勝院]] |山形県米沢市城西1丁目6-10 |上杉謙信崇敬の刀八毘沙門天を祀る。 |真言宗醍醐派 |- |[[伽耶院]] |兵庫県三木市志染町大谷410 |大化年間に法道が創建。 |聖護院院家・本山修験宗 |} *[[春日山城毘沙門堂]]:上杉謙信が信仰した泥足毘沙門天を祀る。江戸時代、[[米沢城御堂]]に遷され、明治以後、[[米沢・法音寺]]に遷された。 *[[錦織寺]] *[[華光寺]] <!-- ==組織== --> <!-- ==古典籍== --> ==本地垂迹== 法華経によると、毘沙門天は観音の化身とされる。観音の脇侍になる要因の一つと考えられる。 大和吉野の[[勝手明神]]は毘沙門天の垂迹とされた。毘沙門天は融通念仏宗の護法神とされたので、同宗では勝手明神も信仰された。開祖良忍ゆかりの大原三千院?にも勝手明神が祀られている。また吉野勝手神社奥の院として多聞院がある。 大和春日野の地主神である榎本神社([[春日大社]]境内社)の本地仏とされ、春日毘沙門天とも言われる。 [[深沙大王]]の本地仏ともされる。 エビス神も垂迹とされる。 讃岐の[[金刀比羅宮]]では本地仏を十一面観音、毘沙門天、不動明王としていた。この毘沙門天と不動明王は[[備前・西大寺]]に遷された。 ==眷属== 元来[[ヒンドゥー教]]では、毘沙門天は夜叉の首長とされ、多くの夜叉や羅刹を眷属とするという。そのうち主だったものとして八大夜叉がいる。 聖徳太子が祈願し、毘沙門天が現れたのが寅の年の寅の月の寅の日とされることから、寅の日が毘沙門天の縁日とされ、寅が神使とされる。 またムカデも神使とされるが、由来は不詳。鉱山の坑道をムカデ穴と呼び、その守護神とされ、従事する者はムカデを殺してはならないという民間信仰もあったという。 脇侍を[[吉祥天]]と'''禅に師童子'''とし、三尊形式で祀ることが多い。吉祥天は毘沙門天の妃あるいは妹といい、童子は子とされる。あるいは鞍馬寺のように千手観音と魔王尊を脇侍とする場合もある。 子供の神として、禅に師童子のほか、ナタ太子などがいる。 ==画像== ==参考文献== ==脚注== <references/> [[category:系譜記事]]
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