ようこそ『神殿大観』へ。ただいま
試験運用中
です。
西長島護国神社
出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-)
西長島護国神社
のソース
移動:
案内
,
検索
以下に示された理由により、このページの編集を行うことができません:
この操作は、
利用者
のグループに属する利用者のみが実行できます。
ページ
名前空間にあるページを編集する権限がありません。
このページのソースを閲覧し、コピーすることができます:
'''西長島護国神社'''は鹿児島県出水郡長島町城川内(薩摩国出水郡)にある[[招魂社]]。[[官祭招魂社]]。[[指定外護国神社]]。'''西長島招魂社'''。[[鹿児島藩の官祭招魂社と官修墳墓]]も参照。 ==祭神== ===官祭祭神=== 靖国神社誌[https://dl.ndl.go.jp/pid/816146/1/27]によれば1柱。 *宮内静次:「千城魁雄命」の神号が与えられているらしい。招魂社では異例。[[鹿児島藩招魂社]]祭神。[[高田官修墳墓]]。宮内静次郎茂直。 ==歴史== ==画像== ==資料== *『靖国神社百年史 資料篇 下』[https://dl.ndl.go.jp/pid/12267910/1/260] *『出水風土誌』[https://dl.ndl.go.jp/pid/954767/1/346?keyword=%E8%A5%BF%E9%95%B7%E5%B3%B6%25E3%2580%2580%E6%8B%9B%E9%AD%82%E7%A4%BE] ===記念碑=== 『出水風土誌』[https://dl.ndl.go.jp/pid/954767/1/346?keyword=%E8%A5%BF%E9%95%B7%E5%B3%B6%25E3%2580%2580%E6%8B%9B%E9%AD%82%E7%A4%BE]、『幕末維新史跡観光』[https://meiji-ishin.com/nishinagashima-gokokujinja.html#google_vignette][https://web.archive.org/web/20190416185731/https://meiji-ishin.com/nishinagashima-gokokujinja.html#google_vignette] 「宮内君姓平諱盛成。称静次。泰蔵第三男。母田中氏。長島人。慶応三年丁卯八月十二日奉公命役于京師。明年戊辰正月三日徳川慶喜在大阪城。謀叛大挙而北上。君為番兵。二番隊兵士衛禁闕。官軍薩長土三藩禦之。鳥羽伏見大克之。続而六日戦于八幡。賊兵大敗。各遁于本国而拠要害。北越之間最熾。官軍挙討之。六月三日君亦出陣于越後戦闘。莫有虚日。屢摧賊鋒焉。七月二十五日攻長岡城下町口台場。為先鋒。賊盛而我兵戦没者甚多。君亦中銃丸傷左臂。奮勇欲出戦而不能。被挙扶而帰営。入于高田病院。病劇而終死。享年十八時八月三日也。神葬其地薬師山。既而遺髪至于国。官給以五十金。己巳正月十七日神葬之。長島唐隈之園中。謚千城魁雄命君為人諒直寛和自幼習文嗜武学業進稍俟其成立。則自可有功業而一旦忽焉戦死鳴呼惜哉。曽子曰戦陳無勇非孝也。今死於王事以顕君父之名。実人倫之極万世不易之常経也。然則雖死其心亦可以勿憾於泉下而已。乃述君志行謹記其碑以建社下云爾。 明治二年己巳冬十二月二十六日 地頭 川畑篤行謹撰 都講 児玉利綱謹書」 (試訳。書き下し文)「宮内君は姓平、諱を盛成、静次と称す。泰蔵の第三男、母は田中氏、長島の人なり。慶応三年丁卯八月十二日、公命を奉じて京師に役す。明年戊辰正月三日、徳川慶喜大阪城に在り。叛を謀り、大挙して北上す。君は番兵となり、二番隊兵士として禁闕を衛す。官軍薩・長・土の三藩これを禦ぐ。鳥羽・伏見に大いにこれを克ち、続いて六日八幡に戦う。賊兵大いに敗れ、各々本国に遁れ、要害に拠る。北越の間最も熾んなり。官軍挙げてこれを討つ。六月三日、君もまた越後に出陣して戦闘す。虚日有ること莫く、屢々賊鋒を摧く。七月二十五日、長岡城下町口台場を攻むるに、先鋒と為る。賊盛んにして我兵戦没する者甚だ多し。君もまた銃丸に中りて左臂を傷つく。奮勇して戦に出でんと欲すといえども能わず。扶け挙げられて営に帰る。高田病院に入り、病劇しくして終に死す。享年十八。時に八月三日なり。その地薬師山に神葬す。既にして遺髪、国に至る。官給五十金を以てす。己巳正月十七日、長島唐隈の園中に神葬す。謚して千城魁雄命とす。君は人となり、諒直寛和にして、自幼より文を習ひ、武を嗜み、学業進みて、稍や其の成立を俟つ。則ち自ら功業有るべしといえども、一旦にして忽ち戦死す。鳴呼惜しむべし。曽子曰く、「戦陳に勇無きは孝に非ざるなり」と。今、王事に死して以て君父の名を顕す。実に人倫の極、万世不易の常経なり。然れば則ち死すといえども、その心また以て泉下に憾む勿かるべきのみ。乃ち君の志行を述べ、謹みてその碑に記し、社の下に建つのみ。」 (試訳。現代語訳)「宮内君は姓は平氏、諱を盛成、静次と名乗った。泰蔵の第三子で、母は田中氏、長島の出身である。慶応3年8月12日、藩命を受けて京に出仕した。翌年1月3日、徳川慶喜は大阪城に在城していた。慶喜は反乱を企て、大軍を率いて北上した。宮内君は番兵として、二番隊の兵士として禁裏の警護にあたった。官軍たる薩摩藩・長州藩・土佐藩が敵軍を迎え撃ち、鳥羽・伏見の戦いで大いに勝利し、続いて1月6日には八幡で戦った。敵軍は大敗し、それぞれ本国に逃げ、要害に立て籠もった。北越地方での戦いは最も激しく、官軍は総力を挙げてこれを討った。6月3日、宮内君もまた越後に出陣し戦った。休む間もなく、たびたび敵の戦列を打ち破った。7月25日、長岡城下町口の台場を攻める際、先鋒を務めた。敵は強く、我が兵の戦死者は非常に多かった。宮内君も銃弾を受けて左腕に傷を負った。勇気を振るって再び戦おうとしたがかなわず、支えられて陣営に帰った。高田病院に入院したが、病状は重く、ついに死亡した。享年18。時に8月3日であった。その地、薬師山に神葬された。その後、遺髪は国に送られ、官から50金が支給された。明治2年1月17日、長島唐隈の園中に(遺髪を)神葬し、諡を「千城魁雄命」とした。宮内君は生前、誠実で正直、温和な性格であり、幼い頃から学問を修め、武芸を嗜み、学業も進んで、ようやくその才能が成熟しようとする時であった。自ら功績を挙げるべき立場にあったが、一日にして戦死してしまった。ああ、惜しいことである。曾子は言う。「戦場で勇気のない者は、孝行とは言えない」と。今、宮内君は王命に従って死し、父の名を顕したのである。これはまさに人倫の極みであり、万世に変わらぬ常の道である。したがって、たとえ死しても、その心は地下で悔やむことはあるまい。ここに君の志と行いを述べ、謹んでその碑に記し、社の下に建立する。」 [[Category:鹿児島県]]
西長島護国神社
に戻る。
表示
ページ
議論
ソースを表示
履歴
個人用ツール
案内
神殿大観 メイン
神殿大観 総目次
おまかせ表示
検索
ツールボックス
リンク元
関連ページの更新状況
ファイルをアップロード
特別ページ