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法然墓廟
出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-)
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| - | <googlemap version="0.9" lat=" | + | <googlemap version="0.9" lat="35.173808" lon="136.329346" type="map" zoom="7" width="800" controls="large"> |
| - | + | 35.005679, 135.785159, 知恩院 御廟 | |
| - | </googlemap> | + | 35.013169, 135.704638, 西光寺 |
| - | |} | + | 34.938442, 135.674392, 粟生光明寺 御廟 |
| + | 34.938625, 135.675468, 粟生光明寺 石棺 | ||
| + | 34.937915, 135.675283, 粟生光明寺 火葬所跡 | ||
| + | 35.018646, 135.788751, 金戒光明寺 勢至堂 | ||
| + | 35.021257, 135.667861, 二尊院 | ||
| + | 35.031035, 135.781451, 知恩寺 御廟 | ||
| + | 35.025313, 135.769047, 清浄華院 御廟 | ||
| + | 35.657158, 139.747658, 増上寺 円光大師堂 | ||
| + | 34.219934, 135.605282, 高野山 円光大師石塔 | ||
| + | この付近 | ||
| + | 35.018351, 135.675308, 京都法然寺 墳墓 | ||
| + | 34.280002, 133.117704, 光明坊 | ||
| + | 34.272945, 134.045014, 高松法然寺 供養塔 | ||
| + | この付近 | ||
| + | 34.209148, 133.842564, 西念寺 | ||
| + | 34.225827, 133.77705, 善通寺 石塔 | ||
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2011年6月6日 (月) 時点における版
| 法然墓廟 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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概要法然の墓所は、知恩院の御廟が有名であるがそれだけではない。歴史的経緯によって、複数存在している。 由緒・歴史法然の死去1207年(承元1年)、承元の法難のによって讃岐に流された法然であったが、半年ほどで赦免された。しかし、入洛の許可が下りなかったため、摂津勝尾寺に四年間ほど滞在した。1211年(建暦1年)、ようやく京に帰ることが許され、11月20日に京都に到着した。帰洛した法然は、青蓮院慈鎮の好意により大谷禅房に住した。これが現在の知恩院の発祥である。しかし、翌年1月2日にわかに発病して、翌1212年(建暦2年)1月25日、大谷禅房にて死去した。帰洛してわずか二ヶ月であった。ちなみに法然死去の際に、賀茂明神が影向したという。 その死後、大谷禅房に墓廟が建立されて、寿像が祀られた。寿像は桑原左衛門によるもの。信空が管理にあたった。(この寿像はのち当麻寺に遷された?) 嘉禄の法難と遺骸の火葬法然の死後も一門は、比叡山との対立を増していっていたが、1227年(嘉禄3年・安貞1年)6月には、比叡山の衆徒が法然の墓廟を破壊して、遺骸を加茂川に流すことを計画した。いわゆる嘉禄の法難である。6月23日、この計画を耳にした法然の弟子たちは、帰依した武士の協力によって、嵯峨の地(嵯峨二尊院ともいう。)に遺骸を遷座した。嵯峨には、二尊院の湛空や往生院の良鎮がおり、安全な場所だと見做されていたからだという。6月28日には、広隆寺の円空のもとに預けられた。その旧跡が今の西光寺である。翌年、粟生に遷されて、1228年(安貞2年)1月25日の十七回忌の日に、火葬された。 弟子たちによる分骨そして、弟子たちによって、分骨された。証空は火葬した粟生の地に廟を建て、湛空は1233年(天福1年)1月25日、嵯峨二尊院に遺骨を雁塔を建てて納めた(『浄土宗史』)。源智は1234年(文暦1年)に大谷に収めた(『華頂誌要』54)。信空は、当初は分骨を肌身離さずに奉持していたが、信空の死後、金戒光明寺に分骨を納める廟が建てられた(『黒谷誌要』)。
法然墓廟一覧
参考文献
人物についてはCategory:人物旧跡を参照(氏族・家の関連旧跡や神格化された人物については基準が不明確でぶれている)。 |