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平野・良明寺

出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-) 最終更新:2025年4月13日 (日)

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'''良明寺'''(りょうみょうじ)は、摂津国住吉郡平野郷馬場町(大阪府大阪市平野区)にあった[[融通念仏信仰]]の寺院。廃絶。[[融通念仏宗]]の[[河内六別時]](中本山)の一つ。'''八尾別時'''、'''八尾良明寺'''とも呼ばれる。跡地不詳だが馬場町は[[大念仏寺]]の周辺に当たる。
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'''良明寺'''(りょうみょうじ)は、摂津国住吉郡平野郷馬場町(大阪府大阪市平野区)にあった[[融通念仏信仰]]の寺院。[[法明]]、[[大通]]ゆかり。廃絶。[[融通念仏宗]]の[[河内六別時]](中本山)の一つ。'''八尾別時'''、'''八尾良明寺'''とも呼ばれる。跡地不詳だが馬場町は[[大念仏寺]]の周辺に当たる。
==歴史==
==歴史==
不明な部分が多い。延宝末寺帳によると八尾別時の講中は摂津国東成郡に7人、摂津国住吉郡に1人、大和国平群郡に14人がいたが、八尾はこれらの場所をつなぐ位置にあり、八尾街道を通じて大和国まで広がっていったと指摘されている[https://dl.ndl.go.jp/pid/3431371/1/5]。1905『融通総本山大念仏寺誌』「良明寺」[https://dl.ndl.go.jp/pid/822647/1/29]では「一位置、奈良県生駒郡平群村大字久安寺に在り」とあり、大和国の檀家の存在感が後々まで高かった可能性がある。
不明な部分が多い。延宝末寺帳によると八尾別時の講中は摂津国東成郡に7人、摂津国住吉郡に1人、大和国平群郡に14人がいたが、八尾はこれらの場所をつなぐ位置にあり、八尾街道を通じて大和国まで広がっていったと指摘されている[https://dl.ndl.go.jp/pid/3431371/1/5]。1905『融通総本山大念仏寺誌』「良明寺」[https://dl.ndl.go.jp/pid/822647/1/29]では「一位置、奈良県生駒郡平群村大字久安寺に在り」とあり、大和国の檀家の存在感が後々まで高かった可能性がある。
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*1328年:法明が良明寺を創建[https://dl.ndl.go.jp/pid/12215951/1/15][https://dl.ndl.go.jp/pid/822647/1/29]
*1328年:法明が良明寺を創建[https://dl.ndl.go.jp/pid/12215951/1/15][https://dl.ndl.go.jp/pid/822647/1/29]
*1608年:この時点で「寺号不審」[https://dl.ndl.go.jp/pid/3431371/1/12?keyword=良明寺][https://dl.ndl.go.jp/pid/12217523/1/84?keyword=寺号不審]
*1608年:この時点で「寺号不審」[https://dl.ndl.go.jp/pid/3431371/1/12?keyword=良明寺][https://dl.ndl.go.jp/pid/12217523/1/84?keyword=寺号不審]
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*1661年(寛文1年)2月:大念仏寺と大原南坊が本末を争ったときには、法明寺、来迎寺、極楽寺が大念仏寺側に、良明寺、大念寺、高安寺が大原南坊側に付いた。
*1662年:舜空時代、良明寺の寺号を称し、平野郷馬場町に堂宇を建立し、祐徳というものが住職となった。この時、定堂化したとされるが異論もある。
*1662年:舜空時代、良明寺の寺号を称し、平野郷馬場町に堂宇を建立し、祐徳というものが住職となった。この時、定堂化したとされるが異論もある。
*1672年:祐徳死去。
*1672年:祐徳死去。
*1677年:『大念仏寺四十五代記録并末寺帳』編纂[https://dl.ndl.go.jp/pid/12215951/1/146]。
*1677年:『大念仏寺四十五代記録并末寺帳』編纂[https://dl.ndl.go.jp/pid/12215951/1/146]。
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*1679年8月10日:「宗門規録」制定。六別時が連署している[https://dl.ndl.go.jp/pid/9573621/1/188]
*1687年:これ以前に大通融観が良明寺住職となる[https://dl.ndl.go.jp/pid/12266069/1/222]。
*1687年:これ以前に大通融観が良明寺住職となる[https://dl.ndl.go.jp/pid/12266069/1/222]。
*1689年:大通融観が大念仏寺46世となる。
*1689年:大通融観が大念仏寺46世となる。

2025年4月13日 (日) 時点における最新版

良明寺(りょうみょうじ)は、摂津国住吉郡平野郷馬場町(大阪府大阪市平野区)にあった融通念仏信仰の寺院。法明大通ゆかり。廃絶。融通念仏宗河内六別時(中本山)の一つ。八尾別時八尾良明寺とも呼ばれる。跡地不詳だが馬場町は大念仏寺の周辺に当たる。

歴史

不明な部分が多い。延宝末寺帳によると八尾別時の講中は摂津国東成郡に7人、摂津国住吉郡に1人、大和国平群郡に14人がいたが、八尾はこれらの場所をつなぐ位置にあり、八尾街道を通じて大和国まで広がっていったと指摘されている[1]。1905『融通総本山大念仏寺誌』「良明寺」[2]では「一位置、奈良県生駒郡平群村大字久安寺に在り」とあり、大和国の檀家の存在感が後々まで高かった可能性がある。

1998『河内長野市史2』には「はじめ、各別時には固定した道場や寺はなく、別時ごとに抽籤で辻本がきまり、その家が道場となった。まだ、本山も固定せず、六別時の中から抽籤で選び、その道場が本山としての大念仏寺となった。八尾別時の大念仏寺が、元和元年(一六一五)に、平野郷の代官末吉孫左衛門より、平野郷に寺地を与えられ、しだいに大念仏寺は平野郷に固定するようになった。」[3]とあり、現在の大念仏寺の起源が八尾別時にあるという見方を示している。

  • 1328年:法明が良明寺を創建[4][5]
  • 1608年:この時点で「寺号不審」[6][7]
  • 1661年(寛文1年)2月:大念仏寺と大原南坊が本末を争ったときには、法明寺、来迎寺、極楽寺が大念仏寺側に、良明寺、大念寺、高安寺が大原南坊側に付いた。
  • 1662年:舜空時代、良明寺の寺号を称し、平野郷馬場町に堂宇を建立し、祐徳というものが住職となった。この時、定堂化したとされるが異論もある。
  • 1672年:祐徳死去。
  • 1677年:『大念仏寺四十五代記録并末寺帳』編纂[8]
  • 1679年8月10日:「宗門規録」制定。六別時が連署している[9]
  • 1687年:これ以前に大通融観が良明寺住職となる[10]
  • 1689年:大通融観が大念仏寺46世となる。
  • 不詳:廃絶。本尊だったと伝わる「阿弥陀二尊像」(画像、南北朝時代)が大念仏寺に伝わっている[11][12][13]

資料

  • 『大念仏寺四十五代記録并末寺帳』:延宝末寺帳。1677年。別時由来[14]。末寺帳[15]
  • 『紫雲山歴代録』「本寺上人智者持に成り候事」:『法会(御回在)の調査研究報告書』[16]
  • 1905『融通総本山大念仏寺誌』「良明寺」[17]:なぜか「一位置、奈良県生駒郡平群村大字久安寺に在り」とある。
  • 大澤研一1992「融通念佛宗の六別時について」[18]:定堂化について[19]。別時について[20]
  • 融通念佛宗教学研究所1998『法明上人ーその生涯と信仰』
  • 大阪市立博物館編1991『融通念佛宗ーその歴史と遺宝』
https://shinden.boo.jp/wiki/%E5%B9%B3%E9%87%8E%E3%83%BB%E8%89%AF%E6%98%8E%E5%AF%BA」より作成

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