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枕崎護国神社
出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-)
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| - | *1869年(明治2年) | + | *1869年(明治2年)1月:今給黎彦七(伊集院彦七)らが創建。彦七は戊辰戦争に従軍した部隊の半隊長だった(隊長は鹿籠出身者ではなかったので)。ただし招魂墓の銘文は11月。銘文の選者の今藤盛長については不詳。現在の桜山小学校の校門右手あたり(枕崎市誌[https://dl.ndl.go.jp/pid/13279723/1/145])。もしくは講堂のあたりとも(枕崎市史[https://dl.ndl.go.jp/pid/9769085/1/202])。 |
*明治12年6月24日:桜山小学校開設[https://dl.ndl.go.jp/pid/13279723/1/222?keyword=%E4%BB%AE%E5%B1%8B] | *明治12年6月24日:桜山小学校開設[https://dl.ndl.go.jp/pid/13279723/1/222?keyword=%E4%BB%AE%E5%B1%8B] | ||
*明治16年10月30日:官祭招魂社となる(鹿児島県史[https://dl.ndl.go.jp/pid/1239981/1/286])。 | *明治16年10月30日:官祭招魂社となる(鹿児島県史[https://dl.ndl.go.jp/pid/1239981/1/286])。 | ||
2025年8月27日 (水) 時点における版
枕崎護国神社は鹿児島県枕崎市鹿篭麓町(薩摩国川辺郡)にある招魂社。官祭招魂社。指定外護国神社。枕崎南方神社内。東南方招魂社、枕崎招魂社、東南方護国神社。鹿児島藩の官祭招魂社と官修墳墓も参照。
鹿籠(かご)は鹿籠郷を治める喜入家の役所が置かれた城下町。ただし江戸時代中期からカツオ業が盛んとなり経済の中心は鹿籠郷南部の枕崎港周辺に移ったようだ。 招魂社が最初に設けられた桜山小学校の一帯は戦国時代の桜之城の跡地で、江戸時代の一国一城令で廃城となった後も鹿籠郷の役所(地頭仮屋)が置かれた。招魂社が設けられた時の様子は明らかではないが、役所跡に明治初年には軍政民政一体の軍務所があり、常備隊のための練兵場もあった。
大正時代に小学校敷地拡張のため南方神社境内に遷座した。南方神社(みなかた・じんじゃ)は諏訪信仰の神社で、鹿籠の鎮守で郷社。花渡川を望む丘陵に鎮座し、北東を向く。参道の階段には諏訪大社上社・下社の二神を表す二つの鳥居が左右に並び立つ。参道を登り切ると広場があり、さらにもう一段上に社殿が並ぶ。南方神社本殿の向かって右手に、淡島神社と護国神社がある。この2社の拝殿は連結されている。広場から南方神社・淡島神社・護国神社に向かう階段がそれぞれ整備され、護国神社前の階段には鳥居が建てられている。護国神社の社殿はコンクリート造で、壁は白く、柱などは赤く塗られている。護国神社の脇には「戦死墓」と刻まれた1969年11月建立の招魂墓があり、戊辰戦争で戦死した3人の名前が刻まれている。裏面には碑銘がある。招魂墓の隣には護国神社改築記念碑もある。護国神社と招魂墓の間には小祠があるが、詳細は不明。拝殿の正面には明治9年の石燈籠がある。 神社参道途中の脇の広場には西南戦争の薩軍戦没者を祭る招魂塚もある。
目次 |
祭神
- 1871柱:境内由緒書より
官祭祭神
- 有川嘉吉郎貞直:1868年1月5日死去。墓所は京都相国寺官修墳墓。
- 鮫島四郎兵衛宗武:1868年9月14日、会津川原町で負傷。10月17日死去。横浜病院。京都鹿児島藩招魂社祭神。墓所は東京大円寺官修墳墓。
- 上竹原正次郎:1868年7月13日死去。岩城平。上竹正次郎。
歴史
- 1869年(明治2年)1月:今給黎彦七(伊集院彦七)らが創建。彦七は戊辰戦争に従軍した部隊の半隊長だった(隊長は鹿籠出身者ではなかったので)。ただし招魂墓の銘文は11月。銘文の選者の今藤盛長については不詳。現在の桜山小学校の校門右手あたり(枕崎市誌[1])。もしくは講堂のあたりとも(枕崎市史[2])。
- 明治12年6月24日:桜山小学校開設[3]
- 明治16年10月30日:官祭招魂社となる(鹿児島県史[4])。
- 明治32年:暴風で社殿倒壊。宝殿のみ残る。[5]
- 大正5年2月17日:南方神社境内に遷座(境内由緒書)。遷座は大正4年とも。小学校拡張敷地のため。大正5年とも[6]。802円97銭。
- 昭和14年4月1日:枕崎護国神社と改称。
- 昭和55年:コンクリート造りの社殿を造営[7]。11月5日銘の記念碑がある。
資料
招魂墓銘文
<表側銘文> 明治二年己巳 戦死墓 冬十一月
有川嘉吉郎中原負節 行年二十二歳 鮫島四郎兵衛藤原宗武 行年二十六歳 兵夫 上竹原村 正次郎 行年三十七歳
<裏側銘文> 慶応四年戊辰正月徳川慶喜拠于大阪城謀叛挙兵北上将襲京師我藩及長州等兵奉詔要之伏見及鳥羽撃之賊退保淀城防戦甚力官軍進抜之是役有川嘉吉郎諱負節者中砲丸而死年二十二既而賊軍大敗慶喜航海東遁矣於是皇上震怒乃命少将橋本某等帥諸藩兵分路而東征慶喜伏罪請降然奥羽諸賊猶拠于険要兵勢甚張官軍行撃敗之毎戦皆克秋九月遂進攻会津若松城城兵数出戦是時鮫島四郎兵衛諱宗武者与賊戦而死年二十六而賊益窮蹙屠之将在于旦夕会城主松平容保出城而降東国〓定於是官軍凱旋各帰于国為今茲己巳冬鹿籠人鮫島某来請予曰前年東征之役某郷従軍者凡四十七人戦没者二人合兵卒正次郎者為三人〓〓父老相共謀為立招魂之墓欲以刻其事於是雖出追念之情亦将使郷〓〓〓所興起也願子記之予〓不辞書其略如此 明治二年己巳冬十一月 今藤盛長誌