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柳川護国神社

出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-)

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(?碑銘)
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*『靖国神社百年史 資料篇 下』[https://dl.ndl.go.jp/pid/12267910/1/257]
*『靖国神社百年史 資料篇 下』[https://dl.ndl.go.jp/pid/12267910/1/257]
*柳河戦死者名誉録[https://dl.ndl.go.jp/pid/958358/1/1]
*柳河戦死者名誉録[https://dl.ndl.go.jp/pid/958358/1/1]
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===碑銘===
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===押武祠碑銘===
柳河戦死者名誉録[https://dl.ndl.go.jp/pid/958358/1/51]
柳河戦死者名誉録[https://dl.ndl.go.jp/pid/958358/1/51]
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(試訳。書き下し文)
(試訳。書き下し文)
「慶応四年春正月、王師、伏見に大いに賊を敗る。天下風靡して東北諸藩、険を負ひて命に抗す。天子震怒して諸侯に兵を発し、道に分かちて之を討たしむ。太宰帥熾仁親王に命じて諸道軍務を総督せしむ。我藩兵数百、東海道より進む。六月、諸藩兵と与(とも)に新田坂に賊を破る。七月、平城城(磐城平城か)を進攻す。山脊の坂路屈曲し、称して東道の要鎮と為す。賊尽く説きすすめて拒守す。銃丸の雨下り、死傷相踵(つ)ぐ。大雷雨に会ひて道路泥濘し衆、前(すす)むこと能はず。我藩兵先登して其の外郭を陥す。諸軍之に乗じて鼓譟し進む。声山谷を震はす。賊力、屈し勢窮まり、夜に城を棄てて逃ぐ。逐ひ進みて若松城を囲む。九月、松平容保、表を奉りて出で降る。平城の捷より距る僅かに六十余日して奥羽悉く平らぐ。是より先、詔して天下殉難の士を録し、東京城外に祠を建て、神祇官をして之を祭らしむ。我藩兵の新田坂及び平城の役に死する者若干人、其の姓名及び戦処死日を具して申送し、永く祀典に列す。凱旋の後、我公厚く其の家を賻恤し、又招魂祭を設け、祠を藩祖廟の側に起て、碑を立て之を表す。臣志賀喬木に命じて文を作り、之を勒せしむ。臣喬木謹んで按ずるに、奥羽の地、俗頑にして人悍なり。古より叛服無常なり。天喜中、安倍頼時命に叛き、源頼義之を討つ。兵連禍結すこと九年。未だ幾ばくならずして寛治の役復た起る。夫れ頼時、東夷の俘囚にして、愚民を嘯聚し兵を弄ぶは、荒服の特に姦盗の雄なるのみ。頼義父子、将門の胄、干城の才を以て、辞を奉じて罪を伐つ。猶ほ屍を積みて山と為し、血を灑ぎて池と為す。僅かに能く之を克つ。今阪東の地、大藩強く鎮して、方隅に盤拠し、同盟約従して天下を煽動す。亦頼時に比すべきに非ず。然れども東征の嶺を出づるより、元戎行を啓き、錦旗指す所、風靡せざる莫し。蓋し天子聖明にして祚を践みし所以より、精を励み治を為し、廃典を挙げ弊事を除き、百度維新なり。普天率土復た王政の治を見る。人人楽んで之を為し死を致す。況んや将門数百年抜かざるの兵権を収めて、而して元帥の任を皇族に授く。其の方略皆機宜に中つ。故に軍を懸けて長駆し、以て八洲固結の賊窟を勦ち、一反掌の間に叛乱を定む。而して東陲の地、復た狗吠の警有ること無し。且つ寛治の役、義家捷を闕下に献せんことを請ふも、朝議以て私闘と為して其の功を賞せず。今此の役や、大小将校より武夫戦卒に至るまで、各々爵録稿労の寵を蒙り、祭奠の賜恩枯骨に及ぶ。亦以て王政維新の一班を観るに足るなり。嗚呼、士生まれて此の時に逢ふ。身を忘れ命を効(つく)して以て国家に報ゆるを忘るべけんや。是れ我公の賻恤の恩、祠祭の奠、死事の士を厚く褒めて、以て臣節を励まし将来を勧むる所以なり。臣喬木、再拝稽首し、謹んで其の事を紀して、後人に昭示す。其の陣亡人名は碑陰に勒す。」
「慶応四年春正月、王師、伏見に大いに賊を敗る。天下風靡して東北諸藩、険を負ひて命に抗す。天子震怒して諸侯に兵を発し、道に分かちて之を討たしむ。太宰帥熾仁親王に命じて諸道軍務を総督せしむ。我藩兵数百、東海道より進む。六月、諸藩兵と与(とも)に新田坂に賊を破る。七月、平城城(磐城平城か)を進攻す。山脊の坂路屈曲し、称して東道の要鎮と為す。賊尽く説きすすめて拒守す。銃丸の雨下り、死傷相踵(つ)ぐ。大雷雨に会ひて道路泥濘し衆、前(すす)むこと能はず。我藩兵先登して其の外郭を陥す。諸軍之に乗じて鼓譟し進む。声山谷を震はす。賊力、屈し勢窮まり、夜に城を棄てて逃ぐ。逐ひ進みて若松城を囲む。九月、松平容保、表を奉りて出で降る。平城の捷より距る僅かに六十余日して奥羽悉く平らぐ。是より先、詔して天下殉難の士を録し、東京城外に祠を建て、神祇官をして之を祭らしむ。我藩兵の新田坂及び平城の役に死する者若干人、其の姓名及び戦処死日を具して申送し、永く祀典に列す。凱旋の後、我公厚く其の家を賻恤し、又招魂祭を設け、祠を藩祖廟の側に起て、碑を立て之を表す。臣志賀喬木に命じて文を作り、之を勒せしむ。臣喬木謹んで按ずるに、奥羽の地、俗頑にして人悍なり。古より叛服無常なり。天喜中、安倍頼時命に叛き、源頼義之を討つ。兵連禍結すこと九年。未だ幾ばくならずして寛治の役復た起る。夫れ頼時、東夷の俘囚にして、愚民を嘯聚し兵を弄ぶは、荒服の特に姦盗の雄なるのみ。頼義父子、将門の胄、干城の才を以て、辞を奉じて罪を伐つ。猶ほ屍を積みて山と為し、血を灑ぎて池と為す。僅かに能く之を克つ。今阪東の地、大藩強く鎮して、方隅に盤拠し、同盟約従して天下を煽動す。亦頼時に比すべきに非ず。然れども東征の嶺を出づるより、元戎行を啓き、錦旗指す所、風靡せざる莫し。蓋し天子聖明にして祚を践みし所以より、精を励み治を為し、廃典を挙げ弊事を除き、百度維新なり。普天率土復た王政の治を見る。人人楽んで之を為し死を致す。況んや将門数百年抜かざるの兵権を収めて、而して元帥の任を皇族に授く。其の方略皆機宜に中つ。故に軍を懸けて長駆し、以て八洲固結の賊窟を勦ち、一反掌の間に叛乱を定む。而して東陲の地、復た狗吠の警有ること無し。且つ寛治の役、義家捷を闕下に献せんことを請ふも、朝議以て私闘と為して其の功を賞せず。今此の役や、大小将校より武夫戦卒に至るまで、各々爵録稿労の寵を蒙り、祭奠の賜恩枯骨に及ぶ。亦以て王政維新の一班を観るに足るなり。嗚呼、士生まれて此の時に逢ふ。身を忘れ命を効(つく)して以て国家に報ゆるを忘るべけんや。是れ我公の賻恤の恩、祠祭の奠、死事の士を厚く褒めて、以て臣節を励まし将来を勧むる所以なり。臣喬木、再拝稽首し、謹んで其の事を紀して、後人に昭示す。其の陣亡人名は碑陰に勒す。」
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(試訳。現代語訳)
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「慶応4年正月、官軍は伏見において大いに敵軍を破った。天下はこれに靡き従ったが、東北の諸藩は要害を頼んで朝命に背いた。天皇(明治天皇)は大いにお怒りになり、諸侯に兵を発させ、方面ごとに分けてこれを討たしめた。大宰帥熾仁親王(有栖川宮熾仁親王)を総督に任じ、諸方面の軍務を統括させた。
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我が藩(柳河藩)の兵数百人も東海道を進軍した。6月、諸藩の兵とともに新田坂にて敵軍を破り、7月には磐城平城を攻めた。山あいの坂道は曲折し、東国の要衝とされていた。敵軍は人々を説き従わせて徹底抗戦し、銃弾は雨のように降り注ぎ、死傷者が続出した。そこへ大雷雨が襲い、道はぬかるんで軍勢は進めなかった。そこで我が藩兵が先陣を務め、城の外郭を落とした。諸軍はこれに続き、鬨の声をあげて進み、その声は山谷を震わせた。敵軍は力尽き、勢いは限界となり、夜陰に紛れて城を捨てて逃げた。官軍はこれを追撃し、進んで若松城を包囲した。9月、松平容保は降伏の表を奉じた。平城の勝利からわずか60日余りで奥羽は全て平定された。
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これより先、詔により天下の殉難の士を記録し、東京城外に祠(靖国神社)を建て、神祇官に命じて祭らせることとなった。我が藩の兵で新田坂および平城の戦いに戦死した者が何人か出たので、その姓名と戦跡・戦没日を調べ上げて届け出て、永く国家の祭祀に預かることとなった。凱旋の後、我が藩主(立花鑑寛)はその家を厚く慰労し、さらに招魂祭を執り行い、藩祖廟(三柱神社)の側に祠(押武祠)を建て、碑を立ててこれを顕彰した。藩主は臣・志賀喬木に命じて碑文を作らせ、刻ませた。
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臣喬木が謹んで考えるに、奥羽の地は民俗頑なにして人々は剛猛であり、古来より治安が安定しないところである。天喜年間には安倍頼時が朝命に叛き、源頼義がこれを討ち、戦乱は9年も続いた(前九年の役)。そののち程なくして寛治の役(後三年の役)もまた起こった。そもそも頼時は東国の野蛮な俘囚の一族であり、愚民を煽り集めて兵をもてあそぶ、辺境の叛逆者の頭目にすぎなかった。頼義父子は武門の血統であり、武人の才をもって勅命を奉じて罪を討ったが、なお屍を積んで山とし、血を流して池となすほどの激戦の末に、ようやくこれを平らげたのである。
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いま東国の地は大藩が強固な拠点を築き、片隅に集まって徒党を組み天下を扇動する。その勢いは頼時に比するものではない。されども、東征軍が関東の山嶺を越えて進むと、元帥が先頭を進錦の御旗の指すところ、なびかぬ者はなかった。これはひとえに天皇が聖明であり、皇位に就いて以来、精魂を尽くして政を行い、廃れた典礼を興し、旧弊を取りやめて百事を一新したからである。天下はあまねく王政の治世を再び見ることとなり、人々はこぞってそれを喜び、死をもって報いようとした。ましてや数百年にわたって武門に独占されてきた兵権を取り戻し、皇族を元帥に任じた。軍略はいずれも時宜にかなっていた。ゆえに軍は遠くまで追撃して全国に根深く残っていた敵軍の巣窟を一挙に掃討し、たちまち叛乱を平定することができたのである。これにより東国の地はもはや犬が叫ぶような騒乱はなくなった。
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しかも寛治の役の際には、源義家がその戦勝を朝廷に報告しようとしたが、朝議はそれを私闘とみなし、武功に褒賞を与えなかった。今次の戦では、大将から兵卒に至るまでみな官職や恩賞を賜り、戦死者へも祭祀の供物が授けられるに及んだ。これによって王政維新の一端を窺うことができる。ああ、武人たる者、生まれてこの時に逢ったからには身を忘れ命を尽くして国に報いることを、どうして忘れることがあろうか。これこそ我が藩主が手厚く賜恩を施し、祠を建て、戦死者を大いに顕彰して、臣下の忠節を励まし、将来を勧め導こうとされるゆえんである。
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臣・喬木は謹んで再拝し、頭を垂れて、この事を記し、後世に示すものである。その戦死者の名は碑の裏に刻んだ。」
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[[Category:福岡県]]
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2025年9月4日 (木) 時点における版

柳川護国神社は福岡県柳川市三橋町高畑にある招魂社官祭招魂社指定外護国神社筑後・三柱神社が隣接。初名は押武神社高畑招魂社

  • 大日本神祇会1945『福岡県神社誌』「柳河護国神社」[1]
  • 『靖国神社誌』9柱[2]

目次

祭神

官祭祭神

靖国神社誌[3]によれば9柱。

  • 1久保田言罕:禁門の変で敗れて周防で自刃。
  • 2今村関之亟泰孝:奥羽で戦死。
  • 3十時仙之進惟勝:奥羽で戦死。
  • 4小山田 清之進正忠:奥羽で戦死。
  • 5小野七郎茂承:奥羽で戦死。
  • 6平野林春知:奥羽で戦死。
  • 7高田亥三郎:奥羽で戦死。
  • 8寅蔵:隊夫。八丈島の人。6/11函館港で戦死。
  • 9雲蔵:隊夫。陸奥国塩竈の人。7/13岩城平で戦死。

歴史

画像

資料

  • 柳川藩史料集[4]
  • 『靖国神社百年史 資料篇 下』[5]
  • 柳河戦死者名誉録[6]

押武祠碑銘

柳河戦死者名誉録[7]

「慶応四年春正月王師大敗賊於伏見天下風靡而東北諸藩負険抗命天子震怒発諸侯兵分道討之命太宰帥熾仁親王総督諸道軍務我藩兵数百自東海道進六月与諸藩兵破賊於新田坂七月進攻平城城憑山脊坂路屈曲称為東道要鎮賊尽説拒守銃丸雨下死傷相踵会大雷雨道路泥濘衆不能前我藩兵先登陥其外郭諸軍乗之鼓譟而進声震山谷賊力屈勢窮夜棄城而逃逐進囲若松城九月松平容保奉表出降距平城之捷僅六十余日而奥羽悉平矣先是詔録天下殉難之士建祠東京城外命神祇官祭之我藩兵死於新田坂及平城役者若干人具其姓名及戦処死日申送永列祀典凱旋後我公厚賻恤其家又設招魂祭起祠于藩祖廟側立碑表之命臣志賀喬木作文勒之臣喬木謹按奥羽之地俗頑人悍自古叛服無常天喜中安倍頼時叛命源頼義討之兵連禍結者九年未幾而寛治之役復起夫頼時東夷俘囚嘯聚愚民弄兵荒服特姦盗之雄耳頼義父子以将門之胄干城之才奉辞伐罪猶且積屍為山灑血為池僅能克之今阪東之地大藩強鎮盤拠方隅同盟約従煽動天下亦非頼時比然而自東征之嶺一出元戎啓行錦旗所指莫不風靡蓋天子聖明践祚所以来励精為治挙廃典除弊事百度維新普天率土復見王政之治人人楽為之致死況収将門数百年不抜之兵権而元帥之任授之皇族其方略皆中機宜故懸軍長駆以勦八洲固結之賊窟定叛乱於一反掌之間而東陲之地無復狗吠之警矣且寛治役義家請献捷闕下朝議以為私闘不賞其功今此役也大小将校至武夫戦卒各蒙爵録稿労之寵而祭奠之賜恩及枯骨亦足以観王政維新之一班也嗚呼士生逢此時可不忘身効命以報国家哉是我公所以賻恤之恩祠祭之奠厚褒死事之士以励臣節勧将来也臣喬木再拝稽首謹紀其事昭示後人其陣亡人名勒諸碑陰 明治二年歳次己巳四月 本藩志賀喬木謹撰」

(試訳。書き下し文) 「慶応四年春正月、王師、伏見に大いに賊を敗る。天下風靡して東北諸藩、険を負ひて命に抗す。天子震怒して諸侯に兵を発し、道に分かちて之を討たしむ。太宰帥熾仁親王に命じて諸道軍務を総督せしむ。我藩兵数百、東海道より進む。六月、諸藩兵と与(とも)に新田坂に賊を破る。七月、平城城(磐城平城か)を進攻す。山脊の坂路屈曲し、称して東道の要鎮と為す。賊尽く説きすすめて拒守す。銃丸の雨下り、死傷相踵(つ)ぐ。大雷雨に会ひて道路泥濘し衆、前(すす)むこと能はず。我藩兵先登して其の外郭を陥す。諸軍之に乗じて鼓譟し進む。声山谷を震はす。賊力、屈し勢窮まり、夜に城を棄てて逃ぐ。逐ひ進みて若松城を囲む。九月、松平容保、表を奉りて出で降る。平城の捷より距る僅かに六十余日して奥羽悉く平らぐ。是より先、詔して天下殉難の士を録し、東京城外に祠を建て、神祇官をして之を祭らしむ。我藩兵の新田坂及び平城の役に死する者若干人、其の姓名及び戦処死日を具して申送し、永く祀典に列す。凱旋の後、我公厚く其の家を賻恤し、又招魂祭を設け、祠を藩祖廟の側に起て、碑を立て之を表す。臣志賀喬木に命じて文を作り、之を勒せしむ。臣喬木謹んで按ずるに、奥羽の地、俗頑にして人悍なり。古より叛服無常なり。天喜中、安倍頼時命に叛き、源頼義之を討つ。兵連禍結すこと九年。未だ幾ばくならずして寛治の役復た起る。夫れ頼時、東夷の俘囚にして、愚民を嘯聚し兵を弄ぶは、荒服の特に姦盗の雄なるのみ。頼義父子、将門の胄、干城の才を以て、辞を奉じて罪を伐つ。猶ほ屍を積みて山と為し、血を灑ぎて池と為す。僅かに能く之を克つ。今阪東の地、大藩強く鎮して、方隅に盤拠し、同盟約従して天下を煽動す。亦頼時に比すべきに非ず。然れども東征の嶺を出づるより、元戎行を啓き、錦旗指す所、風靡せざる莫し。蓋し天子聖明にして祚を践みし所以より、精を励み治を為し、廃典を挙げ弊事を除き、百度維新なり。普天率土復た王政の治を見る。人人楽んで之を為し死を致す。況んや将門数百年抜かざるの兵権を収めて、而して元帥の任を皇族に授く。其の方略皆機宜に中つ。故に軍を懸けて長駆し、以て八洲固結の賊窟を勦ち、一反掌の間に叛乱を定む。而して東陲の地、復た狗吠の警有ること無し。且つ寛治の役、義家捷を闕下に献せんことを請ふも、朝議以て私闘と為して其の功を賞せず。今此の役や、大小将校より武夫戦卒に至るまで、各々爵録稿労の寵を蒙り、祭奠の賜恩枯骨に及ぶ。亦以て王政維新の一班を観るに足るなり。嗚呼、士生まれて此の時に逢ふ。身を忘れ命を効(つく)して以て国家に報ゆるを忘るべけんや。是れ我公の賻恤の恩、祠祭の奠、死事の士を厚く褒めて、以て臣節を励まし将来を勧むる所以なり。臣喬木、再拝稽首し、謹んで其の事を紀して、後人に昭示す。其の陣亡人名は碑陰に勒す。」


(試訳。現代語訳) 「慶応4年正月、官軍は伏見において大いに敵軍を破った。天下はこれに靡き従ったが、東北の諸藩は要害を頼んで朝命に背いた。天皇(明治天皇)は大いにお怒りになり、諸侯に兵を発させ、方面ごとに分けてこれを討たしめた。大宰帥熾仁親王(有栖川宮熾仁親王)を総督に任じ、諸方面の軍務を統括させた。 我が藩(柳河藩)の兵数百人も東海道を進軍した。6月、諸藩の兵とともに新田坂にて敵軍を破り、7月には磐城平城を攻めた。山あいの坂道は曲折し、東国の要衝とされていた。敵軍は人々を説き従わせて徹底抗戦し、銃弾は雨のように降り注ぎ、死傷者が続出した。そこへ大雷雨が襲い、道はぬかるんで軍勢は進めなかった。そこで我が藩兵が先陣を務め、城の外郭を落とした。諸軍はこれに続き、鬨の声をあげて進み、その声は山谷を震わせた。敵軍は力尽き、勢いは限界となり、夜陰に紛れて城を捨てて逃げた。官軍はこれを追撃し、進んで若松城を包囲した。9月、松平容保は降伏の表を奉じた。平城の勝利からわずか60日余りで奥羽は全て平定された。 これより先、詔により天下の殉難の士を記録し、東京城外に祠(靖国神社)を建て、神祇官に命じて祭らせることとなった。我が藩の兵で新田坂および平城の戦いに戦死した者が何人か出たので、その姓名と戦跡・戦没日を調べ上げて届け出て、永く国家の祭祀に預かることとなった。凱旋の後、我が藩主(立花鑑寛)はその家を厚く慰労し、さらに招魂祭を執り行い、藩祖廟(三柱神社)の側に祠(押武祠)を建て、碑を立ててこれを顕彰した。藩主は臣・志賀喬木に命じて碑文を作らせ、刻ませた。 臣喬木が謹んで考えるに、奥羽の地は民俗頑なにして人々は剛猛であり、古来より治安が安定しないところである。天喜年間には安倍頼時が朝命に叛き、源頼義がこれを討ち、戦乱は9年も続いた(前九年の役)。そののち程なくして寛治の役(後三年の役)もまた起こった。そもそも頼時は東国の野蛮な俘囚の一族であり、愚民を煽り集めて兵をもてあそぶ、辺境の叛逆者の頭目にすぎなかった。頼義父子は武門の血統であり、武人の才をもって勅命を奉じて罪を討ったが、なお屍を積んで山とし、血を流して池となすほどの激戦の末に、ようやくこれを平らげたのである。 いま東国の地は大藩が強固な拠点を築き、片隅に集まって徒党を組み天下を扇動する。その勢いは頼時に比するものではない。されども、東征軍が関東の山嶺を越えて進むと、元帥が先頭を進錦の御旗の指すところ、なびかぬ者はなかった。これはひとえに天皇が聖明であり、皇位に就いて以来、精魂を尽くして政を行い、廃れた典礼を興し、旧弊を取りやめて百事を一新したからである。天下はあまねく王政の治世を再び見ることとなり、人々はこぞってそれを喜び、死をもって報いようとした。ましてや数百年にわたって武門に独占されてきた兵権を取り戻し、皇族を元帥に任じた。軍略はいずれも時宜にかなっていた。ゆえに軍は遠くまで追撃して全国に根深く残っていた敵軍の巣窟を一挙に掃討し、たちまち叛乱を平定することができたのである。これにより東国の地はもはや犬が叫ぶような騒乱はなくなった。 しかも寛治の役の際には、源義家がその戦勝を朝廷に報告しようとしたが、朝議はそれを私闘とみなし、武功に褒賞を与えなかった。今次の戦では、大将から兵卒に至るまでみな官職や恩賞を賜り、戦死者へも祭祀の供物が授けられるに及んだ。これによって王政維新の一端を窺うことができる。ああ、武人たる者、生まれてこの時に逢ったからには身を忘れ命を尽くして国に報いることを、どうして忘れることがあろうか。これこそ我が藩主が手厚く賜恩を施し、祠を建て、戦死者を大いに顕彰して、臣下の忠節を励まし、将来を勧め導こうとされるゆえんである。 臣・喬木は謹んで再拝し、頭を垂れて、この事を記し、後世に示すものである。その戦死者の名は碑の裏に刻んだ。」

https://shinden.boo.jp/wiki/%E6%9F%B3%E5%B7%9D%E8%AD%B7%E5%9B%BD%E7%A5%9E%E7%A4%BE」より作成

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