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水無瀬神宮

出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-)

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|水無瀬忠輔の次男。1884年(明治17年)生。1909年(明治42年)12月、陸軍歩兵少尉[https://dl.ndl.go.jp/pid/2951307/1/5]。1910年(明治43年)3月、正八位[https://dl.ndl.go.jp/pid/2951364/1/5]。1917年(大正6年)5月、水無瀬宮主典[https://dl.ndl.go.jp/pid/2953545/1/22]。1920年(大正9年)3月、陸軍歩兵中尉[https://dl.ndl.go.jp/pid/2954408/1/6]。1924年(大正13年)4月退役[https://dl.ndl.go.jp/pid/2955657/1/6]。1928年(昭和3年)7月、従七位[https://dl.ndl.go.jp/pid/2956993/1/4。禰宜を経て1932年(昭和7年)12月15日、水無瀬宮宮司[https://dl.ndl.go.jp/pid/2958269/1/12]。同月31日死去[https://dl.ndl.go.jp/pid/2958280/1/4]。
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2024年6月2日 (日) 時点における版

水無瀬神宮

水無瀬神宮(みなせ・じんぐう)は、大阪府三島郡島本町広瀬(摂津国島上郡)にある後鳥羽天皇を祀る霊社。もと水無瀬御影堂水無瀬法華堂と称した。明治になり、同様に承久の乱に関与した土御門天皇順徳天皇も合祀された。三帝を祀る神社としては、鎌倉新宮神社鶴岡八幡宮内)や配流先に創建された後鳥羽帝の隠岐神社、順徳帝の真野宮、土御門帝の阿波神社がある。神宮官幣大社天皇奉斎神社御霊信仰

目次

由緒

歴史

水無瀬神宮(国土地理院空中写真より)
  • 1199年頃:後鳥羽上皇、離宮水無瀬殿(皆瀬御所、広瀬御所とも)を建立
  • 1233年9月18日:藻璧門院(後堀河天皇中宮)崩御。生前ではあるが後鳥羽院の怨霊の仕業ともいわれる。
  • 1234年5月20日:仲恭天皇崩御。
  • 1234年8月6日:後堀河天皇崩御。
  • 1239年2月14日:後鳥羽上皇、隠岐にて水無瀬親成に御手印置文を授与。
  • 1239年2月22日:隠岐で上皇が崩御
  • 1239年12月5日:三浦義村死去。
  • 1240年1月24日:北条時房死去。
  • 1240年:遺勅により藤原信成・親成父子が離宮跡に御影堂を建てて菩提を弔った。御霊信仰の性格も強かった。
  • 1244年:将軍九条頼経、後鳥羽院宸筆を模して法華経の版木を作り、100部を刷って供養。
  • 1294年5月8日:後鳥羽院の神霊が託宣。「青侍石見介入道子石熊丸」という人物に憑依して、心地覚心を開山として水無瀬に大興禅寺を創建せよと神勅。院宣によって許可を得たという。(霊託記)
  • 1333年11/12:隠岐から京都に帰還した後醍醐天皇が水無瀬具兼に対して水無瀬御影堂領を安堵。
  • 1336年11/16:北朝の光厳上皇、御影堂に祈念。同日、院宣により御影堂領を安堵。翌日殺生禁断。
  • 1338年:光厳上皇、美濃有里を寄進。
  • 1339年3/24:光厳上皇の院宣で兵粮徴収を禁止
  • 1339年7月10日:後鳥羽院の神霊が託宣。1294年の託宣に触れて大興禅寺の創建を改めて求める。鎌倉幕府が滅んだのは北条時頼が建てた新宮神社の祭祀を北条高時の代になって疎かにになったからだと告げ、また後醍醐天皇も大原法華堂に祈願したので叶えてやったが、その後は疎かになったので隠岐や吉野においやったと告げた(まもなく8/16に崩御)。国政を揺るがす存在であることを誇示している。21日に霊託は洞院公賢に伝えられ、22日に天聴に達する(霊託記)。この頃、「水無瀬御堂長老至一上人」という僧侶がいたことが『井蛙抄』にみえ、覚心の弟子の「志一」(粉河寺誓度寺を復興)に該当する可能性がある。この人物が託宣の成立に関わった可能性があるという。
  • 1340年8月19日:後村上天皇、所領寄進
  • 1344年3月9日:足利直義、「水無瀬殿大興禅寺」に禁制を下賜。しかし寺院は成立していなかったとみられている。
  • 貞和年間:足利尊氏・直義、水無瀬御影堂を禅寺に改めるために心地覚心を住職に招こうとしたが、心地覚心は固辞して遁走した。(弧峰和尚行実)
  • 1353年5月22日:後村上天皇、弧峰覚明に大興禅寺の造営料を寄進。(綸旨)
  • 1488年:天皇250年遠忌に宗祇らが法楽連歌「水無瀬三吟百韻」を奉納。
  • 1494年8月:後土御門天皇は隠岐から神霊を迎えて「水無瀬宮」(水無瀬神とも)の号を贈った。
  • 1596年、地震で損傷。
  • 1600年、内裏の建物を移築して再建。
  • 1631年、火災で被災。後水尾天皇が社殿の復興
  • 1638年、400年遠忌には天皇の和歌も献じられた。以後、50年ごとの遠忌には天皇貴族の和歌奉納が恒例となった。
  • 1650年頃、内侍所旧材で再建された。これが現在の社殿という。
  • 1737年、故あって神号を返上。
  • 1873年、水無瀬宮と改称。官幣中社となる。
  • 1939年3月1日:天皇700年祭に合わせて官幣大社に昇格し、水無瀬神宮と改称した。内務省告示第87号[1]
  • 1939年4/1:列格奉告祭。祭式祝詞[2]。勅使として掌典千種有秀を差遣[3]

(『国史大辞典』、『日本歴史地名大系』ほか)

社殿構成

供僧

当初は臨済宗法燈派の僧侶の関与が深く、心地覚心を開山に招いて大興禅寺という臨済宗寺院を神宮寺として建てる計画もあった。 中世後期から近くの真言宗宝積寺や天台宗西観音寺の僧侶が供僧として奉仕した。ただし、神宮寺、あるいは別当寺のような固定的な関係ではなかったらしい。両寺は離宮八幡宮の供僧も務めていた。

  • 山城・宝積寺:京都府乙訓郡大山崎町銭原。真言宗智山派
  • 西観音寺:大阪府三島郡島本町山崎。天台宗。後鳥羽天皇の菩提所にもなり、位牌を祀っていた。廃絶。
  • 勝幡寺:大阪府三島郡島本町山崎。真言宗東寺派。後鳥羽天皇の崩御の直後に廟を築いたともいう。
  • 豊楽寺:水無瀬家ゆかりの寺院。
  • 安養寺:大阪府三島郡島本町高浜。1344年の禁制に記載。「別院安養寺」とある。臨済宗法灯派。1577年には退転していたが「由良門院之衆」を取り立てて再興する計画があった。廃絶。

組織

水無瀬家

  • 水無瀬親信(1137-1197):水無瀬家の祖。後鳥羽天皇の叔父に当たる。
  • 水無瀬親兼():後鳥羽天皇の側近。承久の乱の後、上皇にならい出家。
  • 水無瀬信成():後鳥羽天皇の側近。
  • 水無瀬親成(生没年不詳):父信成と共に後鳥羽上皇に忠節を尽くす。1239年(延応1年)の上皇の遺命で水無瀬離宮を与えられ、菩提を弔うように命じられる。水無瀬御影堂を創建。水無瀬家を称すのはこれ以後。
  • 水無瀬良親():
  • 水無瀬具良():
  • 水無瀬具兼():
  • 水無瀬具隆():
  • 水無瀬具景():
  • 水無瀬重親():
  • 水無瀬季兼():三条公冬の子。重親の養子となる。
  • 水無瀬英兼():
  • 水無瀬兼成():三条西公条の子。英兼の養子。
  • 水無瀬氏成():
  • 水無瀬兼俊():
  • 水無瀬氏信():
  • 水無瀬兼豊():養子。
  • 水無瀬氏孝():
  • 水無瀬兼条():氏孝の子。
  • 水無瀬経業():氏孝の子。兄兼条の養子となる。
  • 水無瀬師成():
  • 水無瀬友信():
  • 水無瀬忠成():養子。氏孝の子。
  • 水無瀬成貞():
  • 水無瀬有成():
  • 水無瀬教成():
  • 水無瀬経家():養子。


羽林家。分家として七条家・町尻家・桜井家・山井家がある。近くの浄土宗阿弥陀院が水無瀬家の菩提寺。

宮司

歴代 生没年 在職年 略歴
1 水無瀬経家 1833-1874 1873-1874 水無瀬教成の養子。広幡基豊の次男。1833年(天保4年)生。1873年(明治6年)8月14日、水無瀬宮が官幣中社に列格。12月までには水無瀬宮宮司となった[4]。兼大講義。正四位。1874年(明治7年)12月5日死去[5]
2 水無瀬忠輔 1853-1916 1877-1916 子爵。水無瀬経家の養子。裏松勲光の次男。1853年(嘉永6年)生。幼名は保丸。1872年(明治5年)、水無瀬家の養子となる。1873年(明治6年)11月9日従五位[6]。1875年(明治8年)1月7日、水無瀬宮権宮司兼教導職中講義[7]。1月24日家督相続[8]。6月18日、権大講義。1877年(明治10年)12月22日、水無瀬宮宮司兼大講義[9]。1880年(明治13年)4月23日、京都府華族から大阪府華族に転籍[10]。1881年(明治14年)3月4日、忠輔と改名。1884年(明治17年)7月8日、子爵に列す。1887年(明治20年)4月19日、制度改正で改めて水無瀬宮宮司[11]。12月26日、正五位。1892年(明治25年)7月5日従四位。1903年(明治36年)6月、従三位。1916年(大正5年)2月20日死去[12]
3 水無瀬忠政 1881-1963 1916-1932 初代大阪府神社庁長。子爵。水無瀬忠輔の長男。1881年(明治14年)生。1912年(大正1年)神宮神部署主事補。1916年(大正5年)3月20日、水無瀬宮宮司[13]。同日襲爵。1932年(昭和7年)12月15日退任[14]。貴族院議員。1938年(昭和13年)6月23日、水無瀬宮宮司再任[15]。1942年(昭和17年)12月24日、退任。1946年(昭和21年)初代大阪府神社庁長。1963年(昭和38年)1月15日死去。
4 水無瀬忠房 1884-1932 1932-1932 水無瀬忠輔の次男。1884年(明治17年)生。1909年(明治42年)12月、陸軍歩兵少尉[16]。1910年(明治43年)3月、正八位[17]。1917年(大正6年)5月、水無瀬宮主典[18]。1920年(大正9年)3月、陸軍歩兵中尉[19]。1924年(大正13年)4月退役[20]。1928年(昭和3年)7月、従七位[https://dl.ndl.go.jp/pid/2958269/1/12。同月31日死去[21]
5 谷垣義雄 1893-? 1933-1938 奈良県出身。1893年(明治26年)生[22]。1912年(大正1年)、皇典講究所神職養成部卒業[23]。1913年(大正2年)3月17日、石上神宮主典。1921年(大正10年)5月、龍田神社禰宜。1924年(大正13年)9月、丹生川上神社禰宜。従七位。1928年(昭和3年)11月10日、伊豆山神社宮司[24]。1933年(昭和8年)1月19日、水無瀬宮宮司[25]。2月、正七位。1938年(昭和13年)4月、従六位。6月23日、出雲大社権宮司[26]。1943年(昭和18年)9月、正六位。1945年(昭和20年)10月9日退職[27]。同月、正五位[28]。杵築神社宮司。
6 水無瀬忠政 1881-1963 1938-1963 再任。1938年(昭和13年)6月23日、水無瀬宮宮司。1963年(昭和38年)1月15日死去。
7 高松忠清 1907-1974 1963-1965 住吉大社宮司。1963年(昭和38年)から1965年(昭和40年)まで水無瀬神宮宮司を兼務。
8 水無瀬忠寿 1913-2007 1965-1995 1913年(大正2年)生。1934年(昭和9年)1月、従五位。1935年(昭和10年)神宮皇学館本科第1部卒。1937年(昭和12年)掌典職掌典補[29]。1948年(昭和23年)靖国神社禰宜を経て同年、生田神社禰宜[30]。1956年(昭和31年)4月、生田神社権宮司。1965年(昭和40年)6月15日から1995年(平成7年)8月10日まで水無瀬神宮宮司。2007年(平成19年)7月24日死去。
9 水無瀬忠成 1944- 1995- 1944年(昭和19年)生。八坂神社権禰宜、水無瀬神宮禰宜を経て1995年(平成7年)8月10日、水無瀬神宮宮司。

権宮司

歴代 生没年 在職年 略歴
1 松岡範明 生没年不詳 不詳 著者『旧社考証』。
2 水無瀬忠輔 1853-1916 1875-1877 1875年(明治8年)1月7日、水無瀬宮権宮司。1877年(明治10年)12月22日、水無瀬宮宮司。水無瀬保丸。
3 中西久受 1821-1900 1876-1877 平野神社社家の出身。1821年(文政4年)生。平野神社少宮司を経て1876年(明治9年)5月29日、水無瀬宮権宮司(権宮司2人か?)。1877年(明治10年)12月12日、権宮司職廃止となり禰宜。1898年(明治31年)6月22日退職。1900年(明治33年)1月死去。

写真

資料

古典籍

  • 「後鳥羽院御霊託記」:『続群書類従』
  • 「明応四年水無瀬宮法楽百首」:『続群書類従』
  • 『水無瀬神宮文書』:『大阪府史蹟名勝天然記念物調査報告書』11[31]。明治時代の文書も。『島本町史・史料編』[32]
  • 『古事類苑』「水無瀬宮」[33]
  • 2008「水無瀬神宮縁起」『大阪伝承地誌集成』
  • 「後鳥羽天皇御影」[34][35][36]

神社刊行物

  • 水無瀬神宮1939『水無瀬神宮と承久役論』[37]
  • 水無瀬神宮1940『官幣大社水無瀬神宮略記』[38]
  • 水無瀬神宮1940『水無瀬神宮御法楽和歌集』[39]
  • 水無瀬神宮1979『水無瀬神宮と周辺の史跡』
  • 水無瀬神宮1992『水無瀬神宮物語』
  • 1939平泉澄『後鳥羽天皇を偲び奉る』[40]

地誌

  • 1922『大阪府全志』[41]
  • 1975『島本町史』

図録・報告書

  • 1929『大阪府特別保護建造物綜覧』「水無瀬宮社務所」[42]
  • 1930『大阪府官幣社現行特殊慣行神事』[43]
  • 大阪府1938『皇太后陛下大阪府行啓奉迎記録』「水無瀬宮」[44]
  • 金丸二郎1940『後鳥羽天皇七百年式年御祭記念展観図録』[45]
  • 高島屋編1941『後鳥羽天皇七百年式年祭水無瀬神宮隠岐神社奉納刀匠昭和の御番鍛冶作刀展』[46]
  • 1941『官国幣社特殊神事調3』「水無瀬神宮」[47]
  • 1964『重要文化財水無瀬神宮茶室修理工事報告書』[48]
  • 1973「水無瀬宮年中行事」『日本祭礼行事集成6』

文献

  • 魚澄惣五郎1926「南北朝時代に於ける水無瀬御影堂」『龍谷大学論叢』266
  • 魚澄惣五郎1931「水無瀬御影堂の信仰」『古社寺の研究』[49]
  • 魚澄惣五郎1940「御所蔵文書より見たる水無瀬神宮の沿革」『大阪府史蹟名勝天然記念物調査報告書11』[50]
  • 魚澄惣五郎1939「水無瀬神宮と水無瀬御影堂」『上方』103[51](限定)
  • 水無瀬忠政1928「承久役と水無瀬宮」『国学院雑誌』[52]
  • 水無瀬忠政1939「後鳥羽天皇七百年御式年祭に際して」『上方』103[53]
  • 1933『大日本神社志2』「水無瀬宮」[54]
  • 中村直勝1934「後鳥羽院」『天皇と国史の進展』[55]
  • 1939『上方』103号「水無瀬神宮号」[56](限定):後鳥羽天皇700年式年祭特集。106号、108号も。
  • 平尾兵吾1939「水無瀬法楽」『上方』103[57](限定)
  • 天野高信1939「水無瀬家に就て」『上方』103[58](限定)
  • 森繁夫1939「水無瀬家の人々」『上方』103[59](限定)
  • 森繁夫1939「水無瀬家の人々(補遺)」『上方』106[60](限定)
  • 有働賢造1939「後鳥羽天皇御霊託と其影響」『上方』103[61](限定)
  • 伊藤只人1939「後鳥羽上皇と熊野御幸」『上方』103[62](限定)
  • 赤松快龍1939「灯心亭」『上方』103[63](限定)
  • 石津顕1939「官幣大社水無瀬神宮御祭典沿革」『上方』103[64](限定)
  • 藤里好古1939「承久両帝御神霊御還遷と大阪」『上方』103[65](限定)
  • 内務省神社局1939「官幣中社水無瀬宮神社名改称竝に官幣大社に昇格の御事に就て」『内務厚生時報』4-3[66]
  • 天坊幸彦1940「郷土史より見たる水無瀬神宮」『大阪府史蹟名勝天然記念物調査報告書11』[67]、『上代浪華の歴史地理的研究』[68]
  • 1941「後鳥羽天皇御影に就いて」『宝雲』[69]
  • 伊藤治一1943「順徳天皇御神霊の水無瀬宮に奉還」『順徳天皇』[70]
  • 藤井貞文1956「後鳥羽上皇御意志の成立―怨霊思想の解明の一として」『神道宗教』13[71]
  • 藤井貞文1963「後鳥羽上皇御霊の発動」『神道宗教』32[72]
  • 龍粛「後鳥羽院霊託とその時勢」
  • 龍粛1957「承久の変の遺響」『鎌倉時代・下』[73]
  • 田邑二枝1971『隠岐の後鳥羽院抄』[74](限定)
  • 田中望子1974「水無瀬神宮御修理について」[75]
  • 田中望子1974「水無瀬神宮御修理について想うこと」[76]
  • 佐野和史1980「水無瀬神宮三帝神霊還遷の経緯―皇霊奉斎神社創立の一考察」『神道宗教』[77]
  • 松林靖明1981「この世の妄念にかかはられて―後鳥羽院の怨霊」『帝塚山短期大学紀要 人文・社会科学編』18
  • 松林靖明1985「『承久記』と後鳥羽院の怨霊」[78]
  • 村重寧1990「後鳥羽院像と信実」『MUSEUM』476[79]
  • 志村有弘1991「後鳥羽上皇水無瀬神宮」『歴史読本』36-3[80](限定)
  • 田中阿里子1991「荒魂の鎮まる社・水無瀬神宮―配流、後鳥羽帝の鎮魂の社」『歴史と旅』250[81](限定)
  • 佐々木孝浩1994「追善歌会としての影供―後鳥羽院影供についての一考察」[82]
  • 山田雄二1997「鎌倉時代の天皇陵―後鳥羽・土御門・順徳を中心に」『季刊考古学』58[83](限定)
  • 山田雄二1998「崇徳院怨霊と後鳥羽院怨霊の交錯―『保元物語』崇徳院怨霊譚の形成」『日本宗教文化史研究』[84]
  • 山田雄司2001『崇徳院怨霊の研究』:博士論文[85]
  • 山田雄司ウェブサイト「崇徳院・後鳥羽院怨霊関係文献」[86]
  • 上野武 1999「隠岐本と後鳥羽院怨霊の鎮魂―冷泉家時雨亭文庫蔵本 『隠岐本 新古今和歌集』 の成立について」[87](限定)
  • 遠藤一2001「後鳥羽院の〈怨霊〉とその成仏について―親鸞史料から見た」
  • 大阪府教育委員会・兵庫県教育委員会2003『近畿地方の近世社寺建築 5』
  • 徳永誓子2004「水無瀬御影堂と臨済宗法灯派」『日本宗教文化史研究』
  • 徳永誓子2005「後鳥羽院怨霊と後嵯峨皇統」『日本史研究』512[88]
  • 布谷陽子2005「承久の乱後の王家と後鳥羽追善仏事」『中世の地域と宗教』
  • 岸泰子2005「寛政度内裏造営以降の内侍所仮殿の造営・下賜と神嘉殿」[89]
  • 小森崇弘2008「後土御門天皇と水無瀬―神号贈与と文芸活動をめぐって」『人間文化研究・京都学園大学人間文化学会紀要』22
  • 今野慶信2009「後鳥羽院の怨霊」『後鳥羽院のすべて』
  • 2009「後鳥羽院関係史蹟事典」『後鳥羽院のすべて』
  • 2009鈴木彰「後鳥羽院像の展開」『後鳥羽院のすべて』
  • 戸田靖久2010「水無瀬御影堂の宗教的運営体制―「供僧」の分析を通して」[90]
  • 小崎良伸2012『後鳥羽院の怨霊封じと百人一首の謎』
  • 杉崎貴英2013「峰定寺阿弥陀三尊像の伝来をめぐって―水無瀬御影堂旧在の後鳥羽院関係仏か」『日本宗教文化史研究』
  • 龍口恭子2016「法燈国師と後鳥羽院」[91]
  • 谷口雄太2016「京都足利氏と水無瀬神宮」『中世東国の社会と文化』
  • 2018「隠岐と後鳥羽院―祭礼にこめられた敬慕と追悼」『島根県立古代出雲歴史博物館企画展・隠岐の祭礼と芸能』
  • 豊田裕章2019「水無瀬離宮(水無瀬殿)の空間構成と機能について」[92]

順徳天皇・土御門天皇関係

  • 武田勝蔵1931「官幣中社水無瀬宮御神霊還遷の御儀」『土御門天皇と御遺蹟』[93]
  • 斎藤長三1944『佐渡に於ける順徳天皇』[94]
  • 山本修之助1956「神霊水無瀬宮へ御還幸」『順徳天皇佐渡の御遺跡』[95]
  • 奥崎智道・藤澤彰・赤石憲祐2013「近代佐渡における真野宮御造営と3代目間島杢太郎について」[96]
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