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河内・極楽寺

出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-)

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*道覚()<>:法明の弟子という。
*道覚()<>:法明の弟子という。
*恵秀()<>:[[楠木正成]]の弟という[https://dl.ndl.go.jp/pid/822647/1/29]。最初は越前[[平泉寺]]の真空房恵明に師事し、後に極楽寺に入り、道覚の法灯を継いだという[https://dl.ndl.go.jp/pid/822647/1/17]
*恵秀()<>:[[楠木正成]]の弟という[https://dl.ndl.go.jp/pid/822647/1/29]。最初は越前[[平泉寺]]の真空房恵明に師事し、後に極楽寺に入り、道覚の法灯を継いだという[https://dl.ndl.go.jp/pid/822647/1/17]
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*1祐算()<>:上原出身。上原には大念仏寺と関係する1609年の名号碑があるという[https://dl.ndl.go.jp/pid/12252457/1/7]
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*1祐算(?-1623)<1603-1623>:河内国錦部郡上原出身。上原には大念仏寺と関係する1609年の名号碑があるという[https://dl.ndl.go.jp/pid/12252457/1/7]。俗名は中村与治良太夫。1603年(慶長8年)入山。21年在住。1623年(元和9年)4月17日死去。
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*2道菴()<>
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*2道菴()<>:略歴不詳。道庵。
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*3浄心()<>
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*3浄心()<>:河内国錦部郡長野出身。俗名は坂井助左衛門。1628年(寛永5年)入山。在住7年。1634年(寛永11年)6月9日死去。
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*4宗秀()<>
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*4宗秀()<>:河内国錦部郡加賀田出身。俗名は久保助右衛門。1634年(寛永11年)入山。在住9年。1642年(寛永19年)4月4日死去。88歳。
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*5宗雲()<>
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*5宗雲()<>:河内国錦部郡鬼出身。俗名は溝端小右衛門俊長。1642年(寛永19年)入山。同年、挽道場から古野村に定住。在住9年。1650年(慶安3年)11月21日死去。
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*6法善()<>:藩主本多が帰依。
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*6法善()<>:河内国錦部郡滝畑出身。俗名は井谷長左衛門。1650年(慶安3年)入山。在住9年。藩主本多家が帰依。1658年(万治1年)8月9日死去。境内の東方に埋葬。
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*7宗久()<>:宗休とも。
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*7宗久()<>:河内国錦部郡鬼出身。俗名は溝端庄右衛門。1658年(万治1年)入山。本堂を造営。1661年(寛文1年)2月、大念仏寺と大原南坊の争論が起こると、大念仏寺側に付く。1664年(寛文4年)1月16日死去。72歳。宗休とも。
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*8宗清()<>
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*8宗清()<>:河内国錦部郡加賀田出身。俗名は長左衛門。1664年(寛文4年)入山。在住6年。1669年(寛文9年)3月22日死去。
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*9道味()<>
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*9道味()<>:河内国錦部郡原出身。俗名は西野弥太夫。1669年(寛文9年)入山。在住13年。歴代住職姓名を提出。1681年(天和1年)9月28日死去。
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*10草鈍()<>
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*10草鈍()<>:河内国錦部郡加賀田出身。俗名は久保助右衛門。1681年(天和1年)入山。在住3年。1693年(元禄6年)11月1日死去。没後3年は無住で草鈍の弟子の覚山が守る。
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*11寂道()<>
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*11寂道()<>:大念仏寺中興大通の弟子。俗名は不詳。1696年(元禄9年)入山。同年2月香衣と上人号の勅許を得て先例となる。34年在住。1729年(享保14年)6月22日死去。
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*12道秀法山()<>
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*12道秀法山()<>:河内国錦部郡原出身。俗名は西野弥太夫。1699年(元禄12年)入山。1703年(元禄16年)6月受戒。宝永某年、香衣・上人号勅許。在住9年。1707年(宝永4年)9月22日死去。
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*13良道融玄()<>
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*13良道融玄()<>:河内国錦部郡野村出身。俗名は父九左衛門。1707年(宝永4年)入山。極楽寺と末寺浄念寺と争論。在住11年。1739年(元文4年)3月22日死去。
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*14融山源通()<>:大念仏寺中興大通の弟子。
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*14融山源通()<>:河内国錦部郡向井村出身。俗名は寺田氏。大念仏寺中興大通の弟子。丹南来迎寺を経て1730年(享保15年)大念寺に入り、再中興となる。在住6年。1735年(享保20年)4月5日、真沢諦潤に譲り聴雲堂に隠居。1745年(延享2年)7月10日死去。
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*15真沢諦潤()<>:融山源通の弟子。
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*15真沢諦潤()<>:河内国金田郷の出身。俗名は小松氏。融山源通の弟子。1735年(享保20年)極楽寺住職。在住21年で兆齢元靏に譲る。1755年(宝暦5年)11月15日死去。元光。
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*16兆齢元靏()<>:真沢諦潤の弟子。
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*16兆齢元靏()<>:河内国金田郷の出身。俗名は小松作右衛門。真沢諦潤の弟子。1755年(宝暦5年)21歳で極楽寺住職。鐘楼を建立。在住26年。1780年(安永9年)3月、講数義聞に譲る。1795年(寛政7年)12月19日死去。
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*17講数義聞()<>:兆齢元靏の弟子。
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*17講数義聞()<>:和泉国深井郷安村の出身。俗名は父喜右衛。兆齢元靏の弟子。1780年(安永9年)3月、極楽寺住職。在住10年。1789年(寛政1年)6月10日、通関洞山に譲る。
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*18通関洞山()<>:講数義聞の弟子。
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*18通関洞山()<>:河内国丹南郡小平尾村の出身。俗名は長谷川氏、父九兵衛。講数義聞の弟子。1789年(寛政1年)21歳で極楽寺住職。在住25年。本堂再建。1814年(文化11年)霊督鳳山に譲り、温泉寺楽庵に隠居。本山貫主から暉月院号を賜る。1825年(文政8年)6月1日、無住になった石川大念寺に招かれ入る。蹴鞠を好む。1827年(文政10年)11月、温泉寺に戻る。1832年(天保3年)9月24日死去。楽道。
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*19霊督鳳山()<>:本山学頭[https://dl.ndl.go.jp/pid/822647/1/37]。通関洞山の孫弟子。真光院と号す。常説。
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*19霊督鳳山()<>:本山学頭[https://dl.ndl.go.jp/pid/822647/1/37]。河内国花田郷船堂の出身。俗名は山本。1796年(寛政8年)、初めて極楽寺に入る。霊山の弟子。通関洞山の孫弟子。1814年(文化11年)2月、極楽寺住職。本山でたびたび講義を行う。本山貫主から亀甲紫紋白と真光院号を許可される。在住21年。1834年(天保5年)2月20日死去。54歳。常説。
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*20晃曜俊山()<>:霊督鳳山の弟子。宝樹院と号す。釈普照
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*20晃曜俊山()<>:出石藩士の子。俗名は加藤氏。父は欲して家督を譲って西本願寺殿に勤務。京都西六条油小路に住む。12歳の時極楽寺に入り、万治郎と称す(のち卍麿と改名)。霊督鳳山の弟子。1834年(天保5年)2月、33歳で、代官辻野氏の猶子となり住職となる。伽藍を修復造営。1843年(天保14年)6月、本山貫主から宝樹院号を賜る。1847年(弘化4年)中祖500回御遠忌を1年引き上げで厳修。1848年(嘉永1年)4月13日、貫主代理として高野山の墓に参詣。釈普照。
*21誡山()<>:晃曜俊山の弟子。
*21誡山()<>:晃曜俊山の弟子。
*西洞院時雄(1897-1980)<1928->:大念仏寺60世。融通念仏宗管長。[[子爵]]西洞院家の出身。1928年、極楽寺住職。
*西洞院時雄(1897-1980)<1928->:大念仏寺60世。融通念仏宗管長。[[子爵]]西洞院家の出身。1928年、極楽寺住職。
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2025年4月13日 (日) 時点における版

錦部極楽寺-06.jpg

極楽寺(ごくらくじ)は、大阪府河内長野市古野町(河内国錦部郡)にある融通念仏宗寺院。法明が開いた河内六別時(中本山)の一つで、「錦部別時」と呼ばれた。楠木正成とのゆかりも伝え、慰霊碑がある。河内西代藩(伊勢神戸藩)本多家の菩提寺。阿弥陀如来を本尊とし、勢至菩薩観音菩薩を両脇に祀る。安養聚院と称す。錦部極楽寺古野極楽寺。山号は錦渓山。 (参考:同名寺院極楽寺


目次

歴史

  • 1321年(元亨1年):法明が創建。正中2年(1325)ともいう。
  • 1603年:祐算が入寺。
  • 1642年:現在地に定着。これ以前は融通念仏宗独自の寺院形態である「挽道場」で、信者の民家を交代で道場としていた。現在地は聖徳太子が創建した温泉寺の跡地という。
  • 1648年:「来光寺中興開山」の宗雲、宝篋印塔を建立(銘文)
  • 慶安年間:当地に西代藩を領した本多家の菩提寺となった[1](その後、伊勢神戸に転封)。位牌が祀られた。
  • 1872年:郷学校開設
  • 1979年頃:河内錦渓大仏建立

境内

  • 本堂
  • 薬師堂:聖徳太子の温泉寺の名残か
  • 河内大仏
  • 五の木稲荷
  • 普照殿?
  • 八幡宮?
  • 鐘楼
  • 楠木正成慰霊碑

組織

歴代住職

『錦渓山歴代相承譜』に祐算を1世として21世誡山まで記載。『大念仏寺四十五代記録并末寺帳』[2]に道味まで記載。

  • 法明(1279-1349)<1321->:後醍醐天皇から帰依。
  • 徳聴()<>:建武年間、楠木正成が帰依したという[3]
  • 道覚()<>:法明の弟子という。
  • 恵秀()<>:楠木正成の弟という[4]。最初は越前平泉寺の真空房恵明に師事し、後に極楽寺に入り、道覚の法灯を継いだという[5]
  • 1祐算(?-1623)<1603-1623>:河内国錦部郡上原出身。上原には大念仏寺と関係する1609年の名号碑があるという[6]。俗名は中村与治良太夫。1603年(慶長8年)入山。21年在住。1623年(元和9年)4月17日死去。
  • 2道菴()<>:略歴不詳。道庵。
  • 3浄心()<>:河内国錦部郡長野出身。俗名は坂井助左衛門。1628年(寛永5年)入山。在住7年。1634年(寛永11年)6月9日死去。
  • 4宗秀()<>:河内国錦部郡加賀田出身。俗名は久保助右衛門。1634年(寛永11年)入山。在住9年。1642年(寛永19年)4月4日死去。88歳。
  • 5宗雲()<>:河内国錦部郡鬼出身。俗名は溝端小右衛門俊長。1642年(寛永19年)入山。同年、挽道場から古野村に定住。在住9年。1650年(慶安3年)11月21日死去。
  • 6法善()<>:河内国錦部郡滝畑出身。俗名は井谷長左衛門。1650年(慶安3年)入山。在住9年。藩主本多家が帰依。1658年(万治1年)8月9日死去。境内の東方に埋葬。
  • 7宗久()<>:河内国錦部郡鬼出身。俗名は溝端庄右衛門。1658年(万治1年)入山。本堂を造営。1661年(寛文1年)2月、大念仏寺と大原南坊の争論が起こると、大念仏寺側に付く。1664年(寛文4年)1月16日死去。72歳。宗休とも。
  • 8宗清()<>:河内国錦部郡加賀田出身。俗名は長左衛門。1664年(寛文4年)入山。在住6年。1669年(寛文9年)3月22日死去。
  • 9道味()<>:河内国錦部郡原出身。俗名は西野弥太夫。1669年(寛文9年)入山。在住13年。歴代住職姓名を提出。1681年(天和1年)9月28日死去。
  • 10草鈍()<>:河内国錦部郡加賀田出身。俗名は久保助右衛門。1681年(天和1年)入山。在住3年。1693年(元禄6年)11月1日死去。没後3年は無住で草鈍の弟子の覚山が守る。
  • 11寂道()<>:大念仏寺中興大通の弟子。俗名は不詳。1696年(元禄9年)入山。同年2月香衣と上人号の勅許を得て先例となる。34年在住。1729年(享保14年)6月22日死去。
  • 12道秀法山()<>:河内国錦部郡原出身。俗名は西野弥太夫。1699年(元禄12年)入山。1703年(元禄16年)6月受戒。宝永某年、香衣・上人号勅許。在住9年。1707年(宝永4年)9月22日死去。
  • 13良道融玄()<>:河内国錦部郡野村出身。俗名は父九左衛門。1707年(宝永4年)入山。極楽寺と末寺浄念寺と争論。在住11年。1739年(元文4年)3月22日死去。
  • 14融山源通()<>:河内国錦部郡向井村出身。俗名は寺田氏。大念仏寺中興大通の弟子。丹南来迎寺を経て1730年(享保15年)大念寺に入り、再中興となる。在住6年。1735年(享保20年)4月5日、真沢諦潤に譲り聴雲堂に隠居。1745年(延享2年)7月10日死去。
  • 15真沢諦潤()<>:河内国金田郷の出身。俗名は小松氏。融山源通の弟子。1735年(享保20年)極楽寺住職。在住21年で兆齢元靏に譲る。1755年(宝暦5年)11月15日死去。元光。
  • 16兆齢元靏()<>:河内国金田郷の出身。俗名は小松作右衛門。真沢諦潤の弟子。1755年(宝暦5年)21歳で極楽寺住職。鐘楼を建立。在住26年。1780年(安永9年)3月、講数義聞に譲る。1795年(寛政7年)12月19日死去。
  • 17講数義聞()<>:和泉国深井郷安村の出身。俗名は父喜右衛。兆齢元靏の弟子。1780年(安永9年)3月、極楽寺住職。在住10年。1789年(寛政1年)6月10日、通関洞山に譲る。
  • 18通関洞山()<>:河内国丹南郡小平尾村の出身。俗名は長谷川氏、父九兵衛。講数義聞の弟子。1789年(寛政1年)21歳で極楽寺住職。在住25年。本堂再建。1814年(文化11年)霊督鳳山に譲り、温泉寺楽庵に隠居。本山貫主から暉月院号を賜る。1825年(文政8年)6月1日、無住になった石川大念寺に招かれ入る。蹴鞠を好む。1827年(文政10年)11月、温泉寺に戻る。1832年(天保3年)9月24日死去。楽道。
  • 19霊督鳳山()<>:本山学頭[7]。河内国花田郷船堂の出身。俗名は山本。1796年(寛政8年)、初めて極楽寺に入る。霊山の弟子。通関洞山の孫弟子。1814年(文化11年)2月、極楽寺住職。本山でたびたび講義を行う。本山貫主から亀甲紫紋白と真光院号を許可される。在住21年。1834年(天保5年)2月20日死去。54歳。常説。
  • 20晃曜俊山()<>:出石藩士の子。俗名は加藤氏。父は欲して家督を譲って西本願寺殿に勤務。京都西六条油小路に住む。12歳の時極楽寺に入り、万治郎と称す(のち卍麿と改名)。霊督鳳山の弟子。1834年(天保5年)2月、33歳で、代官辻野氏の猶子となり住職となる。伽藍を修復造営。1843年(天保14年)6月、本山貫主から宝樹院号を賜る。1847年(弘化4年)中祖500回御遠忌を1年引き上げで厳修。1848年(嘉永1年)4月13日、貫主代理として高野山の墓に参詣。釈普照。
  • 21誡山()<>:晃曜俊山の弟子。
  • 西洞院時雄(1897-1980)<1928->:大念仏寺60世。融通念仏宗管長。子爵西洞院家の出身。1928年、極楽寺住職。

画像

資料

  • 『錦渓山歴代相承譜』:『法会(御回在)の調査研究報告書』[8]
  • 1922『大阪府全志』4[9]
  • 1903『大阪府誌5』「極楽寺」[10]
  • 1905『融通総本山大念仏寺誌』「極楽寺」[11]
  • 1931『大阪府史蹟名勝天然記念物』[12]
  • 大澤研一1992「融通念佛宗の六別時について」[13]
  • 1998『河内長野市史2』[14]
  • 1973『河内長野市史10』[15]
  • 1995『錦渓山極楽寺史』
  • 三木治子1999「石造宝篋印塔と宝篋印陀羅尼経4」[16]
https://shinden.boo.jp/wiki/%E6%B2%B3%E5%86%85%E3%83%BB%E6%A5%B5%E6%A5%BD%E5%AF%BA」より作成

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