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可愛山陵
出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-)
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『延喜式』では「日向埃山陵」「天津彦彦火瓊瓊杵尊、在日向国、無陵戸」とある。 | 『延喜式』では「日向埃山陵」「天津彦彦火瓊瓊杵尊、在日向国、無陵戸」とある。 | ||
平安時代には京都の[[文徳天皇陵]]の南に祭場を設けて神代三山陵の祭祀を行っていた。一説には既に所在が分からなくなっていたという見方もある。 | 平安時代には京都の[[文徳天皇陵]]の南に祭場を設けて神代三山陵の祭祀を行っていた。一説には既に所在が分からなくなっていたという見方もある。 | ||
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| + | また「え」の陵名から薩摩国の頴娃郡(えのこおり)との見解も出てきた。 | ||
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亀山に続く丘陵に端陵と中陵という墳丘があり、どれがニニギ陵か議論があった。 | 亀山に続く丘陵に端陵と中陵という墳丘があり、どれがニニギ陵か議論があった。 | ||
白尾国柱は亀山よりも端陵か中陵を有力だと考えていた。 | 白尾国柱は亀山よりも端陵か中陵を有力だと考えていた。 | ||
2019年5月12日 (日) 時点における版
可愛山陵は鹿児島県薩摩川内市宮内町にある瓊瓊杵尊の陵墓。皇室治定。新田神社に隣接。高屋山上陵・吾平山上陵と共に神代三山陵の一つ。 ニニギ陵の伝承地は現在地のほか、可愛岳、北川陵墓参考地、男狭穂塚陵墓参考地などがある。
目次 |
歴史
古代
『日本書紀』神代巻下に瓊瓊杵尊は「筑紫日向可愛之山陵」に葬られたとある。 『延喜式』では「日向埃山陵」「天津彦彦火瓊瓊杵尊、在日向国、無陵戸」とある。 平安時代には京都の文徳天皇陵の南に祭場を設けて神代三山陵の祭祀を行っていた。一説には既に所在が分からなくなっていたという見方もある。
近世
江戸時代、所在地の考証が盛んになるが、日本書紀や延喜式に日向にあるとの記述の解釈が別れた。 そのままのちの日向国にあるとする説と、現在と国境が異なるのでこだわる必要はないとの説があった。 また「え」の陵名から薩摩国の頴娃郡(えのこおり)との見解も出てきた。
薩摩国高城郡に位置する現在地は亀山、神亀山、八幡山とも呼ばれる。陵墓としては川合陵とも呼ばれていた。 亀山に続く丘陵に端陵と中陵という墳丘があり、どれがニニギ陵か議論があった。 白尾国柱は亀山よりも端陵か中陵を有力だと考えていた。
近代
しかし幕末から明治にかけて後醍院真柱や樺山資雄が亀山説を強く押し、それが採用されたと思われる。 近くの五代町にも別に川合陵があるが、天火明命の陵とされる。
明治7年7月10日、現在地に治定され、名称は「可愛山陵」とされた。
しかしこれに異論も出たようで2カ所が陵墓参考地となった。
資料
近世
- 『神代山陵考』:白尾国柱著。1792年。
- 『麑藩名勝考』:白尾国柱著。1795年。
- 『神代三陵取調書』:白尾国柱著。1814年。
- 『神代三陵図』:白尾国柱著。
- 『山陵記』:伴信友著。1832年。「薩摩大隅神代陵図」。
- 『神代三陵志』:後醍院真柱著。1827
- 『三国名勝図会』:橋口兼柄著。1843年。
- 『神代三陵異考』:樺山資雄著。1874年。
- 『可愛山陵図書』:宮内庁書陵部所蔵。
- 『可愛御陵図』:宮内庁書陵部所蔵。
- 『神代三陵及高千穂山考証』:明治時代。東京大学本居文庫蔵。
- 『神代三陵御再建願書』:斎部富嗣著。1862年。宮内庁書陵部所蔵。
- 『神代三陵図』:源行納著。1865年。茨城県立歴史館蔵。
- 『日向埃山陵』:明治16年。大洲市立図書館矢野玄道文庫所蔵。
- 『日向国可愛山陵説』:水島永政
- 『日向埃山陵考』:
- 『可愛山陵勘文』:
- 『可愛山陵実検勘註』:山之内時習著
- 『可愛山陵並諸陵取調書』:
文献
- 『神代三山陵に就いて』:1939