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法然墓廟
出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-)
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| - | + | 左:知恩院御廟 右:高松法然寺松平家墓所 門(域内に法然墓) | |
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2011年6月6日 (月) 時点における版
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概要法然の墓所は、知恩院の御廟が有名であるがそれだけではない。歴史的経緯によって、複数存在している。 由緒・歴史法然の死去1207年(承元1年)、承元の法難のによって讃岐に流された法然であったが、半年ほどで赦免された。しかし、入洛の許可が下りなかったため、摂津勝尾寺に四年間ほど滞在した。1211年(建暦1年)、ようやく京に帰ることが許され、11月20日に京都に到着した。帰洛した法然は、青蓮院慈鎮の好意により大谷禅房に住した。これが現在の知恩院の発祥である。しかし、翌年1月2日にわかに発病して、翌1212年(建暦2年)1月25日、大谷禅房にて死去した。帰洛してわずか二ヶ月であった。ちなみに法然死去の際に、賀茂明神が影向したという。 その死後、大谷禅房に墓廟が建立されて、寿像が祀られた。寿像は桑原左衛門によるもの。信空が管理にあたった。(この寿像はのち当麻寺に遷された?) 嘉禄の法難と遺骸の火葬法然の死後も一門は、比叡山との対立を増していっていたが、1227年(嘉禄3年・安貞1年)6月には、比叡山の衆徒が法然の墓廟を破壊して、遺骸を加茂川に流すことを計画した。いわゆる嘉禄の法難である。6月23日、この計画を耳にした法然の弟子たちは、帰依した武士の協力によって、嵯峨の地(嵯峨二尊院ともいう。)に遺骸を遷座した。嵯峨には、二尊院の湛空や往生院の良鎮がおり、安全な場所だと見做されていたからだという。6月28日には、広隆寺の円空のもとに預けられた。その旧跡が今の西光寺である。翌年、粟生に遷されて、1228年(安貞2年)1月25日の十七回忌の日に、火葬された。 弟子たちによる分骨そして、弟子たちによって、分骨された。証空は火葬した粟生の地に廟を建て、湛空は1233年(天福1年)1月25日、嵯峨二尊院に遺骨を雁塔を建てて納めた(『浄土宗史』)。源智は1234年(文暦1年)に大谷に収めた(『華頂誌要』54)。信空は、当初は分骨を肌身離さずに奉持していたが、信空の死後、金戒光明寺に分骨を納める廟が建てられた(『黒谷誌要』)。
法然墓廟一覧
参考文献
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