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皇姑寺
出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-)
(ページの作成:「'''皇姑寺'''は中国北京市石景山区西黄村にある仏教寺院。'''顕応寺'''。'''順天保明寺'''。 category:中華人民共和国北京市」) |
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| - | '''皇姑寺''' | + | '''皇姑寺'''は中国北京市石景山区西黄村にある明朝皇室ゆかりの仏教寺院。'''顕応寺'''。'''順天保明寺'''。 |
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| + | 天順1年(1457)頃、英宗天順帝が尼僧の呂〓(〓は「女丑」)のために尼寺として創建した。1449年、呂〓が皇帝親征の中止を進言したが受けいられず、英宗は敵軍に勾留されるという前代未聞の「土木堡の変」が起きた。英宗は勾留中に呂〓の祈祷の力を感じたという。そこで天順1年(1457)に英宗が再び即位した後、呂〓を「御妹皇姑」に封じて保明寺を与えたという。そのため皇姑寺と通称された。天順5年(1461)、鐘を鋳造(北京大鐘寺に現存するという)。3世には善〓(「耳忽」)がついた。 | ||
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| + | 弘治2年(1489)、孝穆紀太后(弘治帝の生母)のために皇姑寺の修繕が上奏があった。孝宗弘治帝、武宗正徳帝の時代には宮中の崇仏が高まり、特に正徳帝はチベット仏教に傾倒する風潮の中で、皇姑寺は宮中・皇親に連なる官僚と密接な関係を築いていたらしい。弘治3年(1490)には「黄村尼寺」(皇姑寺があるのが黄村)の廃絶が命じられたのに存続した。弘治12年(1499)までには「順天保明寺」の勅額が下賜され、特権を得ている。 | ||
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| + | しかし、嘉靖帝が即位し、仏教弾圧の色を強めると廃絶の危機を迎え、「皇姑寺事件」が起こる。嘉靖6年(1527)12月9日、礼部尚書の方献夫らの上奏に基づき、嘉靖帝は尼僧は風紀を乱しているとして、尼寺の廃絶を命じたが、国政を主導していた議礼派の官僚は嘉靖帝の方針に反して皇姑寺の存続を主張する。数日後には聖昭皇太后(皇伯母)や章聖皇太后(聖母)が反対を表明した。 | ||
| + | 議礼派とは、大礼議事件で嘉靖帝側に付いた官僚たち。大礼議事件は、傍系から帝位を継承した嘉靖帝の即位に際して、嘉靖帝の父の興献王、生母の章聖皇太后、弘治帝、弘治帝の皇后の聖昭皇太后の尊号を巡って対立した事件で、弘治帝時代からの老臣ら(反礼議派)を、嘉靖帝の意を受けた新しい官僚ら(議礼派)が追い落とした形だ。議礼派は嘉靖帝に近い立場だったが、皇姑寺廃絶を巡っては、後ろ盾となっていたとみられる聖昭皇太后の意向を無視できなかったと考えられるという。この時の廃仏政策で近畿地域の600寺が廃絶となったが、皇姑寺は唯一残された。 | ||
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| + | 隆慶6年(1572)、万暦帝生母の慈聖皇太后が命じて鐘を鋳造。 | ||
| + | 万暦4年(1576)、「重修皇姑寺碑記」が記された。 | ||
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| + | 明代末期には無為教(羅教)系新宗教の西大乗教(教祖は呂〓(〓は「女丑」))が朝廷の保護下を受け保明寺を本拠地とした。悟明教の教祖の妹や浄空教の教祖の妹が入っていたという | ||
| + | 明の滅亡時、高起潜が皇太子を密かに導き入れたともいう。 | ||
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| + | ==資料== | ||
| + | *陳玉女1995「明嘉靖初期における議礼派政権と仏教粛正―「皇姑寺事件」を考察の中心にして」『九州大学東洋史論集』[https://doi.org/10.15017/25762] | ||
| + | *淺井紀2003「明代の保明寺と西大乗教」『明代史研究会創立三十五年記念論集』 | ||
| + | *淺井紀2006「明代順天保明寺再考―呂〓の死をめぐって」『東方学』111 | ||
| + | *淺井紀2007「明代中期華北における民間宗教の形成」『東方宗教』[https://spc.jst.go.jp/cad/literatures/3196] | ||
| + | *磯部彰2018「明清教派系宝巻盛衰の研究―武神と聖母神信仰をめぐって」『研究成果報告書』[https://kaken.nii.ac.jp/ja/grant/KAKENHI-PROJECT-25370040/] | ||
[[category:中華人民共和国北京市]] | [[category:中華人民共和国北京市]] | ||
2022年8月7日 (日) 時点における版
皇姑寺は中国北京市石景山区西黄村にある明朝皇室ゆかりの仏教寺院。顕応寺。順天保明寺。
天順1年(1457)頃、英宗天順帝が尼僧の呂〓(〓は「女丑」)のために尼寺として創建した。1449年、呂〓が皇帝親征の中止を進言したが受けいられず、英宗は敵軍に勾留されるという前代未聞の「土木堡の変」が起きた。英宗は勾留中に呂〓の祈祷の力を感じたという。そこで天順1年(1457)に英宗が再び即位した後、呂〓を「御妹皇姑」に封じて保明寺を与えたという。そのため皇姑寺と通称された。天順5年(1461)、鐘を鋳造(北京大鐘寺に現存するという)。3世には善〓(「耳忽」)がついた。
弘治2年(1489)、孝穆紀太后(弘治帝の生母)のために皇姑寺の修繕が上奏があった。孝宗弘治帝、武宗正徳帝の時代には宮中の崇仏が高まり、特に正徳帝はチベット仏教に傾倒する風潮の中で、皇姑寺は宮中・皇親に連なる官僚と密接な関係を築いていたらしい。弘治3年(1490)には「黄村尼寺」(皇姑寺があるのが黄村)の廃絶が命じられたのに存続した。弘治12年(1499)までには「順天保明寺」の勅額が下賜され、特権を得ている。
しかし、嘉靖帝が即位し、仏教弾圧の色を強めると廃絶の危機を迎え、「皇姑寺事件」が起こる。嘉靖6年(1527)12月9日、礼部尚書の方献夫らの上奏に基づき、嘉靖帝は尼僧は風紀を乱しているとして、尼寺の廃絶を命じたが、国政を主導していた議礼派の官僚は嘉靖帝の方針に反して皇姑寺の存続を主張する。数日後には聖昭皇太后(皇伯母)や章聖皇太后(聖母)が反対を表明した。 議礼派とは、大礼議事件で嘉靖帝側に付いた官僚たち。大礼議事件は、傍系から帝位を継承した嘉靖帝の即位に際して、嘉靖帝の父の興献王、生母の章聖皇太后、弘治帝、弘治帝の皇后の聖昭皇太后の尊号を巡って対立した事件で、弘治帝時代からの老臣ら(反礼議派)を、嘉靖帝の意を受けた新しい官僚ら(議礼派)が追い落とした形だ。議礼派は嘉靖帝に近い立場だったが、皇姑寺廃絶を巡っては、後ろ盾となっていたとみられる聖昭皇太后の意向を無視できなかったと考えられるという。この時の廃仏政策で近畿地域の600寺が廃絶となったが、皇姑寺は唯一残された。
隆慶6年(1572)、万暦帝生母の慈聖皇太后が命じて鐘を鋳造。 万暦4年(1576)、「重修皇姑寺碑記」が記された。
明代末期には無為教(羅教)系新宗教の西大乗教(教祖は呂〓(〓は「女丑」))が朝廷の保護下を受け保明寺を本拠地とした。悟明教の教祖の妹や浄空教の教祖の妹が入っていたという 明の滅亡時、高起潜が皇太子を密かに導き入れたともいう。