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法然墓廟
出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-)
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法然の死後も一門は、比叡山との対立を増していっていたが、1227年(嘉禄3年・安貞1年)6月には、比叡山の衆徒が法然の墓廟を破壊して、遺骸を加茂川に流すことを計画した。いわゆる'''嘉禄の法難'''である。6月23日、この計画を耳にした法然の弟子たちは、帰依した武士の協力によって、嵯峨の地に遺骸を遷座した。嵯峨には、二尊院の湛空や往生院の良鎮がおり、安全な場所だと見做されていたからだという。6月28日には、広隆寺の円空のもとに預けられた。翌年、粟生に遷されて、1228年(安貞2年)1月25日の十七回忌の日に、火葬された。 | 法然の死後も一門は、比叡山との対立を増していっていたが、1227年(嘉禄3年・安貞1年)6月には、比叡山の衆徒が法然の墓廟を破壊して、遺骸を加茂川に流すことを計画した。いわゆる'''嘉禄の法難'''である。6月23日、この計画を耳にした法然の弟子たちは、帰依した武士の協力によって、嵯峨の地に遺骸を遷座した。嵯峨には、二尊院の湛空や往生院の良鎮がおり、安全な場所だと見做されていたからだという。6月28日には、広隆寺の円空のもとに預けられた。翌年、粟生に遷されて、1228年(安貞2年)1月25日の十七回忌の日に、火葬された。 | ||
| + | そして、弟子たちによって、分骨された。 | ||
『浄土宗全書』 | 『浄土宗全書』 | ||
| - | + | 湛空は1233年(天福1年)1月25日、嵯峨二尊院に遺骨を雁塔を建てて納めた。 | |
| - | + | 源智が1234年(文暦1年)に大谷に収める(『華頂誌要』54)。 | |
| - | + | 信空は、当初、分骨を肌身離さずに奉持していたが、信空の死後、金戒光明寺に納められた。 | |
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証空が粟生に | 証空が粟生に | ||
2011年2月24日 (木) 時点における版
目次 |
概要
法然の墓所は、知恩院の御廟が有名であるがそれだけではない。歴史的経緯によって、複数存在している。
概略
1207年(承元1年)、承元の法難のによって讃岐に流された法然であったが、半年ほどで赦免された。しかし、入洛の許可が下りなかったため、摂津勝尾寺に四年間ほど滞在した。1211年(建暦1年)、ようやく京に帰ることが許され、11月20日に京都に到着した。帰洛した法然は、青蓮院慈鎮の好意により大谷禅房に住した。これが現在の知恩院の発祥である。しかし、翌年1月2日にわかに発病して、翌1212年(建暦2年)1月25日、大谷禅房にて死去した。帰洛してわずか二ヶ月であった。ちなみに法然死去の際に、賀茂明神が影向したという。 その死後、大谷禅房に墓廟が建立されて、寿像が祀られた。寿像は桑原左衛門によるもの。信空が管理にあたった。(この寿像はのち当麻寺に遷された?)
法然の死後も一門は、比叡山との対立を増していっていたが、1227年(嘉禄3年・安貞1年)6月には、比叡山の衆徒が法然の墓廟を破壊して、遺骸を加茂川に流すことを計画した。いわゆる嘉禄の法難である。6月23日、この計画を耳にした法然の弟子たちは、帰依した武士の協力によって、嵯峨の地に遺骸を遷座した。嵯峨には、二尊院の湛空や往生院の良鎮がおり、安全な場所だと見做されていたからだという。6月28日には、広隆寺の円空のもとに預けられた。翌年、粟生に遷されて、1228年(安貞2年)1月25日の十七回忌の日に、火葬された。 そして、弟子たちによって、分骨された。
『浄土宗全書』
湛空は1233年(天福1年)1月25日、嵯峨二尊院に遺骨を雁塔を建てて納めた。 源智が1234年(文暦1年)に大谷に収める(『華頂誌要』54)。 信空は、当初、分骨を肌身離さずに奉持していたが、信空の死後、金戒光明寺に納められた。 証空が粟生に
火葬後