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後白河天皇陵

出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-)

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1192年(建久3年)3月13日に崩御。蓮華王院の東側に法華堂が建立され、床下に棺が納められて陵墓とされた。もともとは別の法華堂が寿陵として建てられていたが、そちらには女御の建春門院が葬られた。
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'''後白河天皇陵'''(ごしらかわてんのうりょう)は、京都府京都市東山区にある[[後白河天皇]]の[[陵墓]]。現在の陵名は'''法住寺陵'''(ほうじゅうじのみささぎ)。'''法住寺法華堂'''、'''後白河天皇御影堂'''ともいう。
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現在の堂宇は江戸時代の再建であるが、中には等身の法皇像が祀られている。江戸時代には陵のために法住寺の名をつぐ寺院が創建された。建春門院陵の法華堂は廃絶した。近隣からは高位の武士の墓が発掘されている。文久山陵図231。頭痛病平癒の霊験があるという信仰があったという(外池2007 167)。1906年(明治39年)3月23日、従来、「法住寺法華堂」と称してきたが、「法住寺陵」と改称する(明治天皇紀)。"
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天皇は譲位後の1192年(建久3年)3月13日に崩御。[[蓮華王院]]の東側に法華堂が建立され、床下に棺が納められて陵墓とされた。もともとは別の法華堂が寿陵として建てられていたが、そちらには女御の建春門院が葬られた。現在の堂宇は江戸時代の再建で、中には等身の法皇像が祀られている。江戸時代には陵のために[[法住寺]]の名をつぐ寺院が創建された。建春門院陵の法華堂は廃絶した。近隣からは高位の武士の墓が発掘されている。頭痛病平癒の霊験があるという信仰があったという(外池2007 167)。1906年(明治39年)3月23日、従来、'''法住寺法華堂'''と称してきたが、'''法住寺陵'''と改称する(明治天皇紀)。
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==参考文献==
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*『文久山陵図』231頁
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*『明治天皇紀』
[[category:京都府]]
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2016年1月6日 (水) 時点における版

後白河天皇陵(ごしらかわてんのうりょう)は、京都府京都市東山区にある後白河天皇陵墓。現在の陵名は法住寺陵(ほうじゅうじのみささぎ)。法住寺法華堂後白河天皇御影堂ともいう。

天皇は譲位後の1192年(建久3年)3月13日に崩御。蓮華王院の東側に法華堂が建立され、床下に棺が納められて陵墓とされた。もともとは別の法華堂が寿陵として建てられていたが、そちらには女御の建春門院が葬られた。現在の堂宇は江戸時代の再建で、中には等身の法皇像が祀られている。江戸時代には陵のために法住寺の名をつぐ寺院が創建された。建春門院陵の法華堂は廃絶した。近隣からは高位の武士の墓が発掘されている。頭痛病平癒の霊験があるという信仰があったという(外池2007 167)。1906年(明治39年)3月23日、従来、法住寺法華堂と称してきたが、法住寺陵と改称する(明治天皇紀)。

参考文献

  • 『文久山陵図』231頁
  • 『明治天皇紀』
https://shinden.boo.jp/wiki/%E5%BE%8C%E7%99%BD%E6%B2%B3%E5%A4%A9%E7%9A%87%E9%99%B5」より作成

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