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山科本願寺
出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-)
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| - | '''山科本願寺'''(やましな・ほんがんじ)は、[[京都]]郊外の山城国宇治郡山科にあった時の[[本願寺]]の呼称。[[本願寺遷座旧跡]] | + | '''山科本願寺'''(やましな・ほんがんじ)は、[[京都]]郊外の山城国宇治郡山科にあった時の[[本願寺]]の呼称。[[本願寺遷座旧跡]]も参照。8代[[蓮如]]が造営し、9代実如、10代証如が継承。約50年間にわたり3代の門主に使われた。 |
==概要== | ==概要== | ||
| + | ===蓮如による造営=== | ||
応仁の乱が終わった翌年の文明10年(1478)、蓮如が造営を開始。山科を選んだのは、ある僧侶にお告げがあったからともいうが、山科の有力者に帰依され、土地を寄進されたからという。 | 応仁の乱が終わった翌年の文明10年(1478)、蓮如が造営を開始。山科を選んだのは、ある僧侶にお告げがあったからともいうが、山科の有力者に帰依され、土地を寄進されたからという。 | ||
| + | 文明12年1月に3帖程度の小御堂を建てており、仮堂とみられる。2月に御影堂の建設を開始。翌月には棟上。11月には御影を大津から遷座させ初の報恩講を行なっており、この頃には竣工していたらしい。 | ||
| + | 翌年2月、阿弥陀堂の工事に取り掛かり、4月に棟上。6月には仮壇を据え、本尊を祀った。瓦を葺き終わったのは15年(1483)8月という。延徳元年(1489)、山科南殿を造営。明応8年(1499)2月、大坂から蓮如が戻り、3月25日死去。 | ||
| + | ===山科本願寺の滅亡=== | ||
| + | 天文元年(1532)8月24日、細川晴元、延暦寺、京都法華一揆の連合軍により焼き討ちされ、大坂に遷った(大坂本願寺)。 | ||
| - | + | ==跡地の顕彰と調査== | |
| + | 享保年間(1716-1736)に東西本願寺が御坊を設ける。 | ||
| - | + | 現代、古記録、古地図、残存地形などからおおまかな境内構成は復元され、阿弥陀堂と御影堂があった場所(御本寺)もおおよそ特定されているが、平成28年現在、第22次まで行われた発掘調査も範囲は限定されており、伽藍の遺構は発見されていない。江戸時代の古図には土塁の痕跡がはっきりと描かれ、平成初年まで土塁跡は緑地として伽藍跡は農地として残されてきたが、都市開発により近年急速に破壊が進んだ。遺跡の中央部を東海道新幹線が貫いている。平成23年の第17次調査では土塁の下から土取り穴が見つかり、15世紀末〜16世紀初頭の物とみられる土器が多く出土し、永正年間の築造とする説を裏付けた。第18次調査では門主らが使用したとみられる石風呂が出土した。平成28年、国史跡に指定された。 | |
| + | ==伽藍== | ||
阿弥陀堂と御影堂を並べ、広い前庭を設ける配置は山科本願寺からとされ、以後も継承された。 | 阿弥陀堂と御影堂を並べ、広い前庭を設ける配置は山科本願寺からとされ、以後も継承された。 | ||
| - | + | 伽藍がある区画は当時「御本寺」と呼ばれ、門主の屋敷も置かれた。その周りの「内寺内」に教団幹部僧侶の坊舎、その外の「外寺内」に門徒の居住区が置かれた。 | |
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2016年10月16日 (日) 時点における版
山科本願寺(やましな・ほんがんじ)は、京都郊外の山城国宇治郡山科にあった時の本願寺の呼称。本願寺遷座旧跡も参照。8代蓮如が造営し、9代実如、10代証如が継承。約50年間にわたり3代の門主に使われた。
目次 |
概要
蓮如による造営
応仁の乱が終わった翌年の文明10年(1478)、蓮如が造営を開始。山科を選んだのは、ある僧侶にお告げがあったからともいうが、山科の有力者に帰依され、土地を寄進されたからという。 文明12年1月に3帖程度の小御堂を建てており、仮堂とみられる。2月に御影堂の建設を開始。翌月には棟上。11月には御影を大津から遷座させ初の報恩講を行なっており、この頃には竣工していたらしい。 翌年2月、阿弥陀堂の工事に取り掛かり、4月に棟上。6月には仮壇を据え、本尊を祀った。瓦を葺き終わったのは15年(1483)8月という。延徳元年(1489)、山科南殿を造営。明応8年(1499)2月、大坂から蓮如が戻り、3月25日死去。
山科本願寺の滅亡
天文元年(1532)8月24日、細川晴元、延暦寺、京都法華一揆の連合軍により焼き討ちされ、大坂に遷った(大坂本願寺)。
跡地の顕彰と調査
享保年間(1716-1736)に東西本願寺が御坊を設ける。
現代、古記録、古地図、残存地形などからおおまかな境内構成は復元され、阿弥陀堂と御影堂があった場所(御本寺)もおおよそ特定されているが、平成28年現在、第22次まで行われた発掘調査も範囲は限定されており、伽藍の遺構は発見されていない。江戸時代の古図には土塁の痕跡がはっきりと描かれ、平成初年まで土塁跡は緑地として伽藍跡は農地として残されてきたが、都市開発により近年急速に破壊が進んだ。遺跡の中央部を東海道新幹線が貫いている。平成23年の第17次調査では土塁の下から土取り穴が見つかり、15世紀末〜16世紀初頭の物とみられる土器が多く出土し、永正年間の築造とする説を裏付けた。第18次調査では門主らが使用したとみられる石風呂が出土した。平成28年、国史跡に指定された。
伽藍
阿弥陀堂と御影堂を並べ、広い前庭を設ける配置は山科本願寺からとされ、以後も継承された。 伽藍がある区画は当時「御本寺」と呼ばれ、門主の屋敷も置かれた。その周りの「内寺内」に教団幹部僧侶の坊舎、その外の「外寺内」に門徒の居住区が置かれた。