|
ようこそ『神殿大観』へ。ただいま試験運用中です。 |
函館護国神社
出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-)
函館護国神社(はこだて・ごこくじんじゃ)は、北海道函館市にある招魂社。函館市、小樽市、渡島・檜山・後志支庁の戦没者11950柱(『靖国神社百年史』)を祀る。内務大臣指定護国神社。道内には他の指定社として札幌護国神社、北海道護国神社があるが、当社は他2社と違い、明治初年の戊辰戦争(函館戦争)の官軍戦没者を祭ったことに起源があるのが特徴である。函館山の東麓にあり、官軍戦没者の墓である函館官修墳墓59基や「招魂場」碑や戊辰戦争の陸海軍戦死者人名碑などが現存している。いわゆる護国神社様式の社殿を持つ。戦後、占領中は潮見丘神社と称した。官祭招魂社時代は、函館招魂社と呼ばれた。鳥居から市街地まで一直線に大通りが伸び、護国神社坂・高田屋通と呼ばれている。1km西南の、函館山の反対側には、幕府軍戦没者を祀る碧血碑がある。
目次 |
歴史
1869年(明治2年)5月11日、箱館の戦闘が終了。18日、新政府軍が本拠地であった五稜郭を接収した。その直後の5月21日、箱館府知事で青森口総督であった清水谷公孝が大森浜(現在の大森公園周辺一帯)で招魂祭を執行し、戦没者218人(『百年史』)の霊を祭った(『市史』では160余人とする)。9月5日、兵部省が現在地に社殿を創建。5日から7日にわたり、大規模な祭典が行われた(『百年史』の記述では「招魂場」碑を建てただけとも読める)。1874年(明治7年)、招魂社は開拓使に移管された。1876年(明治9年)、明治天皇の東北巡幸に際して開拓使の杉浦誠を遣わす。1877年(明治10年)から6月20日を例祭とする。同年7月、元松前藩主の松前修広が拝殿を造営。1905年(明治38年)、例祭を5月6日に変更。
1913年(大正2年)3月28日、日清日露戦争の戦病者102柱の合祀が許可される。またこの年から例祭を箱館戦争の戦勝日である5月11日とする。
1939年(昭和14年)4月1日、北海道庁管内の北海道護国神社、札幌護国神社とともに内務大臣指定護国神社となり、函館護国神社と改称。函館連隊区管内を崇敬区域とする。同年5月、管内の戦没者371柱を合祀(翌年159柱、翌々年539柱合祀)。同年8月、函館市長を会長とする御造営奉賛会が発足。境内整備に取り掛かり、3年後に竣工し、1942年(昭和17年)10月12日に遷座祭が行われた(総費用44万7000円)。終戦後の1946年(昭和21年)10月1日、潮見が丘神社と改称。1954年(昭和29年)11月1日に函館護国神社と復称した。
組織
歴代社司
- 1太田紀
(ウェブサイト)
歴代宮司
- 1太田紀
- 2伊達巽
- 3佐伯芳彦
- 4真崎宗次
- 5真崎不二彦
- 6大橋東城
(ウェブサイト)
参考文献・史料
- 『靖国神社百年史』
- 函館護国神社ウェブサイト
- 『函館市史デジタル版通説編』第3巻第5編「「大函館」その光と影」[1]
- 保科智治、2006/1/30「「箱館戦争関係墓碑」調査について」(市立函館博物館友の会ブログ)
- 「函館護国神社史」『函館護国神社社報』連載(未見)
- 絵図史料(未見)
- 1874年(明治7年)「函館招魂社修繕関係図」(北海道立文書館所蔵・簿書5794 (40)・『近世幕末期・明治前期描画図資料目録』収録番号3519)
- 1876年(明治9年)「函館招魂場墓碑略絵図」(北海道立文書館所蔵・簿書5845 (10)・『資料目録』収録番号3520)
- 1878年(明治11年)「函館招魂社并添地略図」(北海道立文書館所蔵・簿書2731 (98)・『資料目録』収録番号3521)
- 1879年(明治12年)「招魂社脇松樹移植地の図」(北海道立文書館所蔵・簿書3375 (90)・『資料目録』収録番号2841)
- 1883年(明治16年)「函館招魂社鳥居建替仕様図」(北海道立文書館所蔵・簿書8429 (4)・『資料目録』収録番号3522)
- 1883年(明治16年)「函館区汐見町招魂社前官宅地の盛土図及び官舎平面図」(北海道立文書館所蔵・簿書8429 (6)・『資料目録』収録番号599)
- 「函館招魂社付近割区絵図」(北海道立文書館所蔵・簿書番外7 (1-7)・『資料目録』収録番号181)