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枕崎護国神社
出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-) 最終更新:2026年1月31日 (土)
枕崎護国神社は鹿児島県枕崎市鹿篭麓町(薩摩国川辺郡)にある招魂社。官祭招魂社。指定外護国神社。枕崎南方神社内。鹿籠郷招魂塚も隣接する。 東南方招魂社、枕崎招魂社、東南方護国神社。鹿児島藩の官祭招魂社と官修墳墓も参照。
鹿籠(かご)は鹿籠郷を治める喜入家の役所が置かれた城下町。ただし江戸時代中期からカツオ業が盛んとなり経済の中心は鹿籠郷南部の枕崎港周辺に移ったようだ。 招魂社が最初に設けられた桜山小学校の一帯は戦国時代の桜之城の跡地で、江戸時代の一国一城令で廃城となった後も鹿籠郷の役所(地頭仮屋)が置かれた。招魂社が設けられた時の様子は明らかではないが、役所跡に明治初年には軍政民政一体の軍務所があり、常備隊のための練兵場もあった。
大正時代に小学校敷地拡張のため南方神社境内に遷座した。南方神社(みなかた・じんじゃ)は諏訪信仰の神社で、鹿籠の鎮守で郷社。花渡川を望む丘陵に鎮座し、北東を向く。参道の階段には諏訪大社上社・下社の二神を表す二つの鳥居が左右に並び立つ。参道を登り切ると広場があり、さらにもう一段上に社殿が並ぶ。南方神社本殿の向かって右手に、淡島神社と護国神社がある。この2社の拝殿は連結されている。広場から南方神社・淡島神社・護国神社に向かう階段がそれぞれ整備され、護国神社前の階段には鳥居が建てられている。護国神社の社殿はコンクリート造で、壁は白く、柱などは赤く塗られている。護国神社の脇には「戦死墓」と刻まれた1969年11月建立の招魂墓があり、戊辰戦争で戦死した3人の名前が刻まれている。裏面には碑銘がある。招魂墓の隣には護国神社改築記念碑もある。護国神社と招魂墓の間には小祠があるが、詳細は不明。拝殿の正面には明治9年の石燈籠がある。 神社参道途中の脇の広場には西南戦争の薩軍戦没者を祭る招魂塚もある。
目次 |
祭神
- 1871柱:境内由緒書より
官祭祭神
- 有川嘉吉郎貞直:1868年1月5日死去。墓所は京都相国寺官修墳墓。忠魂史[1]。殉難人名誌[2]。殉難者名鑑[3]。
- 鮫島四郎兵衛宗武:1868年9月14日、会津川原町で負傷。10月17日死去。横浜病院。京都鹿児島藩招魂社祭神。墓所は東京大円寺官修墳墓。
- 上竹原正次郎:1868年7月13日死去。岩城平。上竹正次郎。忠魂史[4]。殉難人名誌になし。殉難者名鑑[5]。墓所不詳。
歴史
- 1869年(明治2年)1月:今給黎彦七(伊集院彦七)らが創建。彦七は戊辰戦争に従軍した部隊の半隊長だった(隊長は鹿籠出身者ではなかったので)。ただし招魂墓の銘文は11月。銘文の選者の今藤盛長については不詳。現在の桜山小学校の校門右手あたり(枕崎市誌[6])。もしくは講堂のあたりとも(枕崎市史[7])。
- 明治12年6月24日:桜山小学校開設[8]
- 明治16年10月30日:官祭招魂社となる(鹿児島県史[9])。
- 明治32年:暴風で社殿倒壊。宝殿のみ残る。[10]
- 大正5年2月17日:南方神社境内に遷座(境内由緒書)。遷座は大正4年とも。小学校拡張敷地のため。大正5年とも[11]。802円97銭。
- 昭和14年4月1日:枕崎護国神社と改称。
- 昭和55年:コンクリート造りの社殿を造営[12]。11月5日銘の記念碑がある。
画像
資料
招魂墓銘文
<表側銘文> 明治二年己巳 戦死墓 冬十一月
有川嘉吉郎中原負節 行年二十二歳 鮫島四郎兵衛藤原宗武 行年二十六歳 兵夫 上竹原村 正次郎 行年三十七歳
<裏側銘文> 慶応四年戊辰正月徳川慶喜拠于大阪城謀叛挙兵北上将襲京師我藩及長州等兵奉詔要之伏見及鳥羽撃之賊退保淀城防戦甚力官軍進抜之是役有川嘉吉郎諱負節者中砲丸而死年二十二既而賊軍大敗慶喜航海東遁矣於是皇上震怒乃命少将橋本某等帥諸藩兵分路而東征慶喜伏罪請降然奥羽諸賊猶拠于険要兵勢甚張官軍行撃敗之毎戦皆克秋九月遂進攻会津若松城城兵数出戦是時鮫島四郎兵衛諱宗武者与賊戦而死年二十六而賊益窮蹙屠之将在于旦夕会城主松平容保出城而降東国〓定於是官軍凱旋各帰于国為今茲己巳冬鹿籠人鮫島某来請予曰前年東征之役某郷従軍者凡四十七人戦没者二人合兵卒正次郎者為三人〓郷父老相共謀為立招魂之墓欲以刻其事於是雖出追念之情亦将使郷子弟〓所興起也願子記之予〓不辞書其略如此 明治二年己巳冬十一月 今藤盛長誌
(試訳。書き下し)
慶応四年戊辰正月、徳川慶喜、大阪城に拠りて謀叛し、挙兵して北上し、将に京師を襲わんとす。我藩及び長州等の兵、詔を奉じて之を要し、伏見及び鳥羽にて之を撃つ。賊退き、淀城を保ち、防戦甚だ力あり。官軍進み抜く。是の役に有川嘉吉郎、諱は負節、砲丸に中りて死す。年二十二。既にして賊軍大敗す。慶喜、航海して東遁す。
是に於いて、皇上、震怒し、乃ち少将橋本某等に命じ、諸藩の兵を帥いて分路し、東征す。慶喜、伏罪して請降す。然れども奥羽の諸賊、猶ほ険要に拠り、兵勢甚だ張る。官軍行きて撃ち敗す。毎戦、皆克す。秋九月、遂に会津若松城に攻め進む。城兵数、出でて戦う。是の時、鮫島四郎兵衛、諱は宗武、賊と戦いて死す。年二十六。賊、益々窮蹙す。之を屠るに将に旦夕に在らんとす。会城主、松平容保、出城して降る。東国、〓定す。
是に於いて官軍凱旋す。各々国に帰る。為すところ、今茲に己巳の冬、鹿籠の人、鮫島某、来りて予に請い曰く、
「前年、東征の役、某郷より従軍せる者、凡そ四十七人、戦没せる者二人、兵卒正次郎なる者を合わせて三人なり。〓郷の父老、相共に謀りて招魂の墓を立て、以て其事を刻まんと欲す。是に於いて、出でて追念の情を表せども、将に郷の子弟の興起せんことをす。願わくは子、之を記せ。」
予、辞せずして其略を書くこと此くの如し。
明治二年己巳冬十一月、今藤盛長、誌す。
(試訳。現代語)慶応4年正月、徳川慶喜は大阪城に拠って謀反を企て、挙兵して北上し、京を襲おうとした。我藩および長州などの兵は、天皇の詔を奉じてこれを迎え、伏見・鳥羽で賊を撃った。賊は退き、淀城は官軍が保ち、防戦は非常に力強かった。官軍はこれを突破した。この戦いにおいて、有川嘉吉郎(諱は負節)は砲丸に当たって戦死した。22歳であった。その後、賊軍は大敗し、慶喜は海路で東へ逃亡した。ここで天皇(明治天皇)は激怒し、少将橋本某(橋本実梁)らに命じ、諸藩の兵を率いて分路し、東征させた。慶喜は罪を認めて降伏を願い出た。しかし奥羽の諸賊は依然として険しい要害に立てこもり、兵力も非常に充実していた。官軍は攻撃してこれを打ち破り、毎戦すべて勝利を収めた。秋9月、ついに会津若松城に攻め進む。城兵は数多く出て戦った。この時、鮫島四郎兵衛(諱は宗武)は賊と戦い戦死した。26歳であった。賊はますます窮地に追い込まれ、敵を討ち滅ぼすの時が今にも迫っていた。会津若松城主・松平容保は城を出て降伏した。東国の情勢も安定した。そして官軍は凱旋し、各藩は国に帰った。明治2年の冬、鹿籠の人・鮫島某が私(今藤盛長)のもとに来て請い曰く、 「前年の東征の役で、我が郷から従軍した者は合計47人で、戦没した者は2人、兵卒の正次郎なる者を合わせて3人になった。郷の父老たちは相談して招魂の墓を建て、これらの事実を刻もうとしている。たとえ追念の情を表しても、今こそ郷の子弟を興起させようとしている。願わくはあなたがこれを記してほしい」。私は断り切れずに概略をこの通り記すこととした。明治2年冬11月、今藤盛長、誌す。