ようこそ『神殿大観』へ。ただいま試験運用中です。

八白宮

出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-) 最終更新:2023年5月25日 (木)

移動: 案内, 検索

八白宮は内モンゴル自治区オルドス市にあったチンギスハンの霊廟。白宮はモンゴルの祭祀施設。八白宮は「ナイマンチャガンオルド」訳で、八白室(ナイマンチャガンゲル)、八白帳ともいう。遊牧民族のゲル式の宮殿が霊廟化したもので、各地を移動した。四大オルドの後身とみられる。元朝崩壊後も「カーン」(ハーン)の地位に着く時は八白宮に参拝している。戦後、中国によって恒久的な建物が建てられ固定化してオルドスのチンギスハン廟となった。ダルハトという一族が現在まで祭祀を担っている。

構成

  • 1チンギスハンとボルテ皇后の白宮
  • 2クラン妃の白宮
  • 3グルバラジンゴワ妃の白宮
  • 4卵白色馬の白宮
  • 5ボロウンドゥルの白宮
  • 6ジローの白宮
  • 7弓矢の白宮
  • 8文書館の白宮

普段は各自で動いているが年に一度の3月21日にエジンホロー地区に集まり、「白い群れ」祭を行った。

資料

  • 楊海英(大野旭)1994『オルドス・モンゴル族の社会構造―ヤスの機能とその歴史的変容』[1]
  • 楊海英1995「チンギス・ハーン祭祀の政治構造」[2]
  • 楊海英1997「オルドス・モンゴルの祖先祭祀―末子トロイ・エジン祭祀と八白宮の関連を中心に」[3]
  • 楊海英1998「「金書」研究への序説」[4]
  • 楊海英1999「モンゴル研究のパラダイム―モンゴルにおける「白いスゥルデ」の継承と祭祀」[5]
  • 楊海英2001「モンゴルにおけるアラク・スゥルデの祭祀について」[6]
  • 楊海英2003「儀礼が維持する集団の歴史的記憶―道光年間における祭祀者ダルハトの訴訟事件が反映する歴史観」[7]
  • 楊海英2004『チンギス・ハーン祭祀―試みとしての歴史人類学的再構成』
  • 2005「 多聞天になったチンギス・ハーン : 内モンゴル自治区アルジャイ石窟内の神々」[8]
  • 楊海英2017「中国が政治利用するチンギス・ハーン―「中華民族の英雄」と資源化するモンゴルの歴史と文化」[9]
  • 楊海英2020『モンゴルの親族組織と政治祭祀―オボク・ヤス(骨)構造』
  • 楊海英2023「チンギス・ハーン祭祀に関する金書数種」[10]
  • ホルチャバートル(Solonggod L. Hurcabaatur)1999「チンギス・ハーン祭祀―オルドス・モンゴルの主催する軍神スゥルデと八白宮の祭祀儀礼」『国立民族学博物館調査報告』11(ドイツ語?)
  • ホルチャバートル・楊海英1997「史料紹介・モンゴルの祭祀用絵画について―新発見の八白宮所蔵絵画」『内陸アジア史研究』12
  • 白石典之2005「チンギスハーン廟の源流」[11]
  • 橘誠2011「ボグド・ハーン政権におけるチンギス・ハーンの表象―八白宮のフレー移転計画をめぐって」[12]
  • 山田勅之2014「中国が政治利用するチンギス・ハーン―「中華民族の英雄」と資源化するモンゴルの歴史と文化」[13]
  • 山田勅之2015「内モンゴル自治区チンギスハーン陵訪問」『人権問題研究室室報』54[14]
  • エルデニバートル・M.2007「モンゴル文写本『聖チンギス・ハーン祭祀経』の若干の問題」[15]
  • エルデニバートル・M.2005「『十善法の白史』に見るチンギス・ハーンの二重神格像」[16]
http://shinden.boo.jp/wiki/%E5%85%AB%E7%99%BD%E5%AE%AE」より作成

注意事項

  • 免責事項:充分に注意を払って製作しておりますが、本サイトを利用・閲覧した結果についていかなる責任も負いません。
  • 社寺教会などを訪れるときは、自らの思想信条と異なる場合であっても、宗教的尊厳に理解を示し、立入・撮影などは現地の指示に従ってください。
  • 当サイトの著作権は全て安藤希章にあります。無断転載をお断りいたします(いうまでもなく引用は自由です。その場合は出典を明記してください。)。提供されたコンテンツの著作権は各提供者にあります。
  • 個人用ツール