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吉田松陰旧跡

出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-) 最終更新:2025年1月20日 (月)

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吉田松陰(よしだ・しょういん)(1830-1859)は、山口藩出身の幕末の志士

目次

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名称 所在地 概要
小伝馬町牢屋敷 東京都中央区日本橋小伝馬町 投獄処刑された場所。
小塚原回向院墓地
Minamisenju-ekouin 002.jpg
東京都荒川区南千住。南千住・回向院初葬地。処刑された直後に埋葬された。
吉田松陰墓
世田谷松陰神社・吉田松陰墓-03.jpg
東京都世田谷区若林。東京・松陰神社内。
護国山墓地
萩・吉田松陰墓-07.jpg
山口県萩市椿東 吉田松陰の遺髪を葬る。萩松陰神社に比較的近い。生家の杉家や吉田家の代々の墓がある。
桜山神社招魂墓
桜山招魂社・招魂場・吉田松陰・高杉晋作・久坂玄瑞-01.jpg
山口県下関市上新地町。桜山招魂社


年譜

略年譜

吉田松陰略年譜
月日 年齢 事項
1830年 8月4日 1歳 誕生。父は杉百合之助常道。母は滝。
1831年 2歳
1832年 3歳
1833年 4歳
1834年 5歳 叔父吉田大助賢良の仮養子となる。吉田家は山鹿流兵学師範を家職とした。
1835年 6月20日 6歳 養父死去。吉田家を継承。
1836年 7歳
1837年 8歳
1838年 1月 9歳 萩・明倫館の教授見習となる
1839年 11月 10歳 山鹿流兵学を明倫館で講義
1840年 11歳 藩主毛利敬親に武教全書を講義
1841年 12歳
1842年 13歳 叔父玉木文之進の松下村塾に学ぶ
1843年 14歳
1844年 15歳 藩主に再び講義して褒賞
1845年 16歳
1846年 17歳
1847年 18歳
1848年 1月 19歳 明倫館師範となる
1849年 20歳 藩命により、沿岸部を巡視して海防についての建白書
1850年 8月25日 21歳 九州留学に出発。『西遊日記』を記す。
9月14日 平戸滞在。11月6日まで。葉山佐内邸に通い詰める。山鹿万助を訪問。
11月8 長崎滞在。12月1日まで。
12月9 熊本滞在。12月13日まで。11日に熊本の宮部鼎蔵に対面。12日夜に肥後・本妙寺浄池廟加藤清正墓)に参詣。
12月29 萩に帰還
1851年 3月5日 22歳 藩主の参勤交代に合わせた江戸留学のため出発。3月20日山崎天王山を通過。
4月9日 江戸到着。安積艮斎に入門。5/14古賀茶渓に入門。5/24山鹿素水に入門。6/13宮部鼎蔵と浦賀視察。7/16藩に東北遊学願を提出(23日に許可)。7/20佐久間象山に入門。9月頃、京橋の蒼龍軒に出入りするようになる。
12月14日 東北遊学に出発。藩からの到来手形の発行を待たずに出発する。
12月9日 水戸滞在。12/24宮部鼎蔵・那珂通高(江幡五郎)と合流。会沢正志斎や豊田天功らに会う。
1852年 23歳 会津・新潟・佐渡・秋田・弘前・青森・盛岡・仙台・米沢・日光・足利などを巡る
4月5日 江戸に戻る。藩から萩への帰還を命じられる。
12月9日 藩士の身分を剥奪される
1853年 1月26日 24歳 10年間の諸国遊学の許可を与えられ、出発。大坂、大和、和泉、伊勢、桑名などで交流を深める。
5月24日 江戸到着。
5月25日 鎌倉瑞泉寺に叔父の竹院昌〓(鎌倉円覚寺197世)を訪ねる。鎌倉大仏江ノ島など訪問。
6月4日 ペリー来航にあたり、浦賀で黒船を実見
9月18日 海外視察のためロシア船密航を計画して長崎へ出発。佐久間象山から送別の詩を送られる。
10月1日 京都到着。梁川星巌訪問。
10月2日 京都御所を拝する。京都岡崎に「吉田松陰拝闕詩碑」がある。
10月19日 熊本到着。宮部鼎蔵と再会。横井小楠を紹介される。
10月27日 長崎到着。しかしロシア船は出航していた。
12月27日 江戸帰還
1854年 3月27日 25歳 下田で金子重之輔と共に米艦ポーハタン号に密航を図るが失敗。翌日自首。
9月 幕府から山口藩に引き渡される
10月24日 萩に到着。野山獄に入る。研究と講義に専念するようになる
1855年 12月15日 26歳 保釈され自宅謹慎を命じられる。
1856年 3月 27歳 謹慎の待遇のまま自宅で松下村塾を開く。
12月 梅田雲浜が萩に来て面談。
1857年 11月5日 28歳 杉家敷地の小屋を改修して塾舎とし、門人と共同生活を始める。
1858年 3月11日 29歳 塾舎増築
7月29日 家学教授の免許を得る
11月6日 勅許なしで条約を結んだ幕府に反発し、老中間部詮勝の襲撃を計画。
12月26日 再び野山獄に投獄。
1859年 5月26日 30歳 幕府の取調べのため江戸へ出発
6月24日 江戸到着
7月9日 尋問開始。梅田雲浜との関係を問う。老中襲撃計画を自白。
10月27日 刑死

崇敬史

  • 1858年10月27日:小伝馬町牢屋敷で獄死
  • 1862年10月17日:京都蹴上で吉田松陰祭。山口藩士らによる。久坂玄瑞が主宰し、青山清が斎主を務め、寺島忠三郎が補佐した。「吉田松陰慰霊祭関係文書綴」が山口県文書館に残る。(『靖国神社とは何だったのか』、未見「明治維新と長州神道界ー靖国神社成立の基層」)

画像

http://shinden.boo.jp/wiki/%E5%90%89%E7%94%B0%E6%9D%BE%E9%99%B0%E6%97%A7%E8%B7%A1」より作成

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