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天武天皇陵
出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-) 最終更新:2016年1月26日 (火)
(持統天皇陵から転送)
鎌倉時代には、1235年(嘉禎1年)に盗掘にあい、持統天皇の銀の骨壷が略奪された(『明月記』)。 元禄の修陵では、天武天皇陵は、現在と同じ「野口王墓古墳」(「王ノ墓」)とされた。しかし、その後の近世陵墓研究においては、「見瀬丸山古墳」(「塚穴」)説が強まり、定説となった(『大和志』、蒲生君平『山陵志』、北浦定政『打墨縄』、平塚瓢斎『聖蹟図志』)。幕末の文久の修陵においては、谷森善臣が「野口王墓古墳」説を主張したものの、定説に従い、「見瀬丸山古墳」を天武天皇陵として修復した。ただし、議論があったためか、このときは仮修補であった。一方、「野口王墓古墳」は文武天皇陵として修復された(外池2000:135-140)。 しかし、1880年(明治13年)6月に陵墓治定に決定的となる史料『阿不幾乃山陵記』が京都高山寺より発見された。鎌倉時代の盗掘の際の記録であり、これにより「野口王墓古墳」が、天武天皇陵であることが確実となった。このため、1881年(明治14年)2月1日、当時文武天皇陵とされていた「野口王墓古墳」を「天武天皇・持統天皇檜隅大内陵」に治定を変更した(明治天皇紀)。治定を外された「見瀬丸山古墳」は、畝傍陵墓参考地となった。昭和期に「紀元2600年奉祝記念事業」で改修。