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日本武尊墓

出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-) 最終更新:2022年12月4日 (日)

能褒野墓から転送)
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日本武尊墓は、三重県亀山市田村町名越にある日本武尊の墓。皇室治定。能褒野墓能褒野神社が隣接する。王塚丁字塚とも。能褒野王塚古墳白鳥陵とは異なる。白鳥信仰も参照。

目次

歴史

古代

記紀によれば日本武尊は東国征討から大和に戻る途中、伊吹山で病を得て伊勢の能褒野で望郷の歌を残して亡くなった。ここに墓を築いたところ、墓の中から白鳥が飛び立ったという。延喜式には遠墓の一つとして「能褒野墓」を記載する。しかし、その所在は分からなくなった。

近世

天皇陵ではないためか、幕府による元禄・文化・安政・文久の修陵では修復の対象にならなかったようだ。地元の亀山藩は1729年(享保14年)、三重県鈴鹿市長澤町北能褒野の武備塚を能褒野墓と判断し、隣接する武備神社に境内2町四方を寄進。この境内の大きさは延喜式に記載される能褒野墓の規模に従ったものという。一方、国学者本居宣長は『古事記伝』で三重県鈴鹿市加佐登町の加佐登白鳥塚こそが本来の墓だと推定した。

近代

1875年(明治8年)、旧亀山藩家老の近藤幸殖と加藤伴彦が、八羽石男の説に従い、三重県鈴鹿市長沢町鈴木田の双児塚を日本武尊の墓だと神祇官に報告。1876年(明治9年)、教部省は加佐登白鳥塚を能褒野墓に定めた。しかし、1879年(明治12年)10月、王塚(丁字塚)が日本武尊の墓に治定された。墓域・陪塚・道路などを設定し、1893年(明治26年)を修築した。その後、1895年(明治28年)、墓の東北に能褒野神社が創建された。

墳丘

王塚は全長90mの前方後円墳。後円部は直径54m、高さ9.5m。前方部は長さ36m、幅40m、高さ6.5m。墳丘には円筒埴輪列がある。鈴鹿川流域の古墳としては最大の規模。周辺に多くの古墳がある。

(日本歴史地名大系、国史大辞典、日本大百科全書ほか)

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