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歴史も教義も制度も無視して、用語も正しく理解しようとせず、「宗教専門新聞」を称しているのは恥ずかしい。ましてや記者の暴力や差別発言や脅迫的発言は論外。
「殺してやる」「お前の脳みそは腐っている」「お前は強姦殺人犯のようだ」。これが「葬式をしない」代わりの21世紀劈頭の「ともいき」の宣言なのか。
「読売新聞では暴力は当たり前だ」(真偽は不明)と何度言われても、本願にはほど遠い。「俺は神戸で人が燃えているのを見てきたからな」と自慢するのが「一流のジャーナリスト」か。
宗教団体・大学・メディアは「平和憲法を守れ」と主張する以前に、自ら刑法を侵さず、労働基準法を守るべきだ。「愚者の自覚」「智者のふるまいをしない」を言い訳とせず、人権同和活動を閉鎖せず、総本山警備員の集団リンチ傷害事件の隠蔽をやめるべきだ。国民の税金も使われた上で、血が流れた事件を曖昧にして落慶法要を行うつもりか。「お前を人権侵害で訴える」というなら早く訴えたらいかがか。
宗教界、言論界から暴力や差別が無くなるにはまだ無量年かかるのか。まあ無理か。

豊田山墓地

出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-) 最終更新:2016年8月1日 (月)

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豊田山墓地
とよだやま ぼち
Tenri kyoso 002.JPG
概要 天理教の墓地。中山みきの墓。
奉斎 中山みき など
所在地 奈良県天理市豊田町
所属(現在) 天理教
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概要

墓標が建つ戦前の墓地

豊田山墓地天理教開祖中山みきの墓を中心とする天理教の墓地。「天理教教祖墓地」「お墓地」ともいう。

天理教教祖中山みきは1887年(明治20年)の旧暦1月26日に出直した。葬儀や遺体の処遇について諸説紛糾したという。 「魂は屋敷にとどまり、体は捨てた衣服のようなもの」との「おさしづ」があったが、中山眞之亮は「ただの衣服ではない。粗末にできない」として改葬を期して、中山家の菩提寺であった天理・善福寺の墓地に葬ったという。2月23日に葬儀を行った。 1892年(明治25年)、土地を購入し、6月に墓地設置許可を得て、7月に着工。ひのきしんにより12月初旬に竣工した。旧暦10月25日にあたる12月13日、十数万人の参列のもと改葬を行ったという。

垣の奥に建つ現在の墓標

中山みきの神号を「真道弥広言知女命(まみちいやひろことしりめのみこと)」という。教団が非公認だった当時、葬儀を教団が行うことは認められなかったため、守屋神社(村屋坐弥富都比売神社)祠官の守屋秀雄を斎主として葬儀を執行。このときに守屋秀雄が名付け、墓標に刻まれた。 そして1892年(明治25年)の改葬のときに、神戸の御影山から兵神分教会部内の手によって運ばれた御影石に刻まれて、墓標とされた。この神号は1926年(昭和1年)の教祖40年祭のときまで祝詞で使われていたが、大正時代から昭和初期の「復元」[1]の動きを受けてか、1936年(昭和11年)の教祖50年祭以降は用いられなくなった。墓標は墓前の目立つ位置に建てられていたが、1975年(昭和50年)の教祖90年祭のときに垣の奥に移設された。しかしながら、墓標の撤去はされていないところにアンビバレンツな思いが伺われる。

一帯に教会関係者や信者の墓地がある。神道式の、簡素な石柱の墓石を踏襲している。 豊田山舎(とよださんしゃ)という大型納骨堂もある。

参考文献

  • 『天理教事典』


脚注

  1. 時局に合わせて改変を余儀なくされていた教義を本来の教祖の教えに立ち戻らせること
http://shinden.boo.jp/wiki/%E8%B1%8A%E7%94%B0%E5%B1%B1%E5%A2%93%E5%9C%B0」より作成

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