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開化天皇陵
出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-) 最終更新:2022年12月2日 (金)
奈良県奈良市油阪町にある開化天皇の陵墓。元禄の修陵で現在の「念仏寺山古墳」が開化天皇陵とされた(文久山陵図207)。 浄土宗奈良・念仏寺に隣接。
歴史
- 712年(和銅5年):『古事記』編纂。「御陵は、伊邪河の坂の上に在り」と記す。
- 720年(養老4年):『日本書紀』編纂。「春日率川坂本陵」とある。
- 927年(延長5年):『延喜式』編纂。「春日率川坂上陵」は大和国添上郡にあり、兆域は東西5段、南北5段、在京戸10烟とある。
- 1622年(元和8年):袋中が奈良に移住し、墳丘に上に庵を建てた(奈良・念仏寺の起源)。庵は後に経蔵に改造される。一般的には弘法山(こうぼうやま)と呼ばれていたが、袋中は眉目山と詠んだ。
- 1697年(元禄10年):幕府による「元禄の修陵」で開化天皇陵とみなされ、修復される。この時は山上のいち部分のみが陵墓とみなされた。1698年(元禄11年)とも。
- 1862年(文久2年)11月6日:幕府による「文久の修陵」が始まり、奈良奉行所から念仏寺に開化天皇陵の修陵を告知する。11日に谷森善臣らが現地視察。
- 1863年(文久3年)5月頃:前方後円墳であるとの想定に基づき、念仏寺境内地や町家を含む土地の接収範囲が固まる。
- 1863年(文久3年)12月26日:工事が始まる。
- 1864年(元治1年)1月7日:墳丘の上にあった念仏寺墓地が移転完了。経蔵も移転した。
- 1865年(慶応1年)3月:工事完了。全長105m。高さ10m。外周に堀を掘削。
- 1866年(慶応2年)12月:幕府、念仏寺を開化天皇陵の「取締役」(のち「御陵守護」)に任命。
資料
- 石田茂輔1977「開化天皇陵鳥居建替工事の立会調査」『書陵部紀要』28
- 伊達宗泰2000「開化陵(念仏寺山・坂ノ上山・弘法山古墳)は前方後円墳なのだろうか」『古代学研究』
- 上田長生1998「幕末維新期, 奈良町の 「陵墓」 をめぐる動向―「開化天皇陵」 の形成と奈良町民」
- 上田長生2002「幕末維新期の開化天皇陵の創出をめぐる動向―地域社会の受容を中心に」
- 上田長生2012「聖域の形成―南都・開化天皇陵を中心に」
- 服部光真2022「奈良念仏寺所蔵の「開化天皇陵」関係絵図」
- 念仏寺・元興寺文化財研究所2022『袋中上人と山の寺念仏寺』
- 奈良市史料保存館2022「企画展示山の寺念仏寺と江戸時代の奈良町―絵師竹坊作品と「開化天皇陵」関係史料を中心に」資料